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7月21日(金) 旧暦6月4日
国立・城山公園の雑木林。 かつてここにはたくさんの野良猫がいて、保護されていた。 詩人の西脇順三郎が好んで散歩をした道である。 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、小谷迪靖句集『むかごの貌』より。 虹見えて音の近づくナイアガラ 小谷迪靖 ナイアガラの滝か、長谷川櫂さんの鑑賞を読んでいると大きな滝であることがわかる。わたしは実際に見たことがないけれど、かつて子どもの頃にモンロー主演の映画「ナイアガラ」で見た記憶があって、すごい滝だなあって思ったことがある。ただ、実際に行きたいと思ったことはない。一度は見てみたいと思っているのは、「那智の滝」。まだ行ったことがない、行ってみたい。 今日は新刊紹介をしたい。 A5判ハードカバー装帯なし 二句組 226頁 河内文雄(こうち・ふみお)さんの第6句集となる。河内文雄さんは、昭和24年(1949)岐阜県飛騨高山で生まれ、現在は千葉市在住。現在は「銀化」(中原道夫主宰)、俳人協会会員 既刊5句集はすべてふらんす堂の刊行である。句集名の付け方に創意がある。第1句集『美知加計(みちかけ)』、第2句集『美知比幾(みちひき)』、第3句集『宇津呂比(うつろひ)』、第4句集『止幾女幾(ときめき)』、第5句集『真太太幾(またたき)』、すべて意味のある四文字に漢字をあてているのがおもしろい。 本句集『安止左幾』は、「睦月」からはじまって「師走」でおわる12章からなる。 俳句は切羽詰まった文芸です。「韻・季・切」の三大要件を満たしながら、わずか十七音に、サプライズもポエムも、さらにオリジナリティまで盛り込まなければなりません。 この句集に収められた三百六十句のうち、いったい何パーセントがその目標に近づくことが出来たか、はなはだ心許ない限りですが、少なくとも心構えだけは、そのようにありたいと願って句作を続けて参りました。 「あとがき」を紹介した。 河内文雄さんは旺盛な作句力がある方だ。短期間のうちにこれほどの句集を刊行されていることでもわかる。第1句集に詳しくかかれているが、ご病気をされ俳句をつくることによって病気を克服されたという体験がある方なので、俳句の癒しの力を十分に経験されたのである。医師でもあるので、医学的見地からの治癒力としての俳句の力をも知悉しておられのだと思う。さらに目下こうして意欲的に俳句に取り組むんでおられるのは、その癒しの力もさることながら、文芸としての俳句の魅力にも魅了されたからであろう。本当に熱心な方である。 本句集の担当は、この度も文己さん。 初薬師今年も干支になれぬ猫 人のかげ乗せ薄氷の流れをり 雁帰るそらの容をととのへて 春宵のまだやはらかき嘘の芯 箸休めほどの小春日賜はりぬ 句集てふ生きたあかしを寒桜 文己さんの好きな句を選んでもらった。 人のかげ乗せ薄氷の流れをり 春先の薄氷がはった空気感がよくわかる一句である。解けかけた薄氷が流れ出している。それだけでも大気がゆるんだ感触であるのに、その薄氷に人影が映っていてともに流れているというのだ。きっとこの流れる速さはゆっくりとしたものなのだろう。薄氷が解けるという大気の現象のみにおわらず、そこに人影という人間を配することによって春の訪れとともに戸外へと誘いだされた人の気配が、いかにも早春的である。薄氷に映ってともに動いている人影も、大地の温もりのなかで解放されていくことがわかる。「人のかげ乗せ」が、景色を立体的に立ち上がらせている。〈薄氷のすでに起伏を持つ朝か〉という句もある。 春宵のまだやはらかき嘘の芯 この句、いったいどんな状況?って思ったのだが、おもしろい一句だ。「春宵」がいいのか。嘘に芯があるなんて、この句に出会うまで思ったことがなかったけれど、この一句を経験するとああ、そういうことも、と思ってしまう。じゃ、一体どんなことって思うと、思うにですね、明らかに相手は嘘をついていることがわかる、それも大した嘘ではないのだろう。そしてその嘘にまだ固執していない、嘘をついた本人も見透かされていることをうすうす分かっているのだ。ついたばかりの嘘、嘘としてうまれたばかり、そんな初々しい嘘が会話のなかにふんわりと浮いている。親しい者どおしのはずんだ会話がみえてくる春の宵のなごやかな一場面である。「まだやはらかき嘘の芯」が巧みであると思う。 箸休めほどの小春日賜はりぬ 「小春日」は、立冬を過ぎたあとの穏やかなあたたかな一日のこと。「箸休めほど」がいいって思う。作者は飲食(おんじき)を大切にしている人であることがわかる一句だ。「箸休め」があることをうれしくおもいつつそんな食事のありようを幸せな時間と思う。だからあたたかな小春日がたとえようもなく大事な一日であり、有難い一日なのである。「賜はりぬ」という措辞によってもその心が知れようというもの。 開き又閉づる日記を始めけり 「初日記」の季語を詠んだ一句である。河内文雄さんも自選にあげている一句で、これはわたしがいいと思ったもの。「日記をはじめる」という言い方が、まだ何もかかれていない日記の前に作者はいて、これから第1行をかきはじめていく、そんな粛々とした気持が見えてくる一句だ。その日記に冠した措辞が「開き又閉づる」という言って見れば当たり前のことなのであるが、まだ頁の開きも硬い新品の日記を前にしてこれからの一年を思っているのである。どんなことが自分の前にひろがっていくのか、あるいはどんなことが自分を待ち受けているのか、日々自身に刻まれていくさまざまなことを、「開き又閉づる」ことをしながら日記を書き進んで行く自身が見えているのである。一冊の小さなに日記をまえに、清新なこころが広がっていく。 句集てふ生きたあかしを寒桜 句集の最後におかれた一句である。「句集てふ生きたあかしを」という措辞は、やや手垢がついている。しかし、この句「寒桜」がいい。「寒桜」に万感の思いが籠もっている。厳しい冬の寒さのなかに清楚な花をつける寒桜である。おおかたは厳しい人生なのかもしれない、しかし、寒さに拮抗しながらゆるぎない花を咲かせるそんな寒桜を一輪自身のために起きたい。そんな思いなのだろうか。あるいは寒桜のようでありたい、ということなのか。作者の覚悟のなかに一縷の華やかな心ばえのようなものを感じる一句だ。 俳句は印刷された時点で作者の手を離れ、広い世界へ飛び立っていきます。ふたたび私の元に戻ってきたときには、余りにも大きな句風の変わりように、きっと驚くことでしょう。その日を楽しみに精進を重ねたいと思います。 「あとがき」をふたたび紹介した。 本句集の装釘は、今回も君嶋真理子さん。 河内文雄さんのご希望でもある。 今回は黄色がテーマカラー。 いつもながら君嶋真理子さんの装丁は、本になると俄然魅力が増しますね。 今回も大満足です。どうぞよろしくお伝えください。 と河内文雄さん。 命あるものに緩急やぶ枯らし 上梓後の所感をいただいた。 ふとした事で俳句の思わぬ可能性に気付いてから、好奇心の赴くままに種々の実験を繰り返しています。俳句を始めた当初は先人の真似をすることで精一杯でしたが、時間が経つにつれ、自分なりの俳句を詠みたいと生意気なことを考えるようになりました。 ・ そんなある日、旅の途中で田舎の喫茶店に立ち寄りました。街の場末の昔ながらの佇まいに惹かれたからです。薄暗い店内の壁には、「霧卍野郎」・「我手魔羅」・「妄禍」・「撫裸汁」と下手くそな字で書いてあります。一応カフェでありながら、珈琲に対するリスペクトの欠片も無い!と心を尖らせながら、何の期待もせず「不練度」を頼みました。ところが、これが何と、まあ!こちらの一方的な思い込みで、人様の志(こころざし)を勝手に決めつけてはいけないと、つくづく思い知らされました。 ・ このときの「志さえしっかりしていれば、見せ方や見え方なんか、どうだって良いのだ!」という気付きは、その後の自分の生活に大きな影響を与えました。 例えば唐突ですが、いま自分の目指す俳句は「一行小説」となっています。それが長編であろうが短編であろうが掌編であろうが、凡そ小説にとって最も必要な要素は「謎」です。謎は決してミステリー小説の専売特許ではありません。 翻って俳句を見た場合、ただ単に目の前の光景を五七五で説明するだけのレポート句には、謎の入り込む余地がありません。まさに、「言ひおおせてなにかある」です。 ・ 春や風のほとりに青銅の騾馬 背徳のわな濡れて三月は逝く 遠浅の市街灼けて迷子の指輪 残照に映え朱欒この山のぬし いずれも三七七や七三七の破調の句で、テンポ良いリズムに流されない分、謎とドラマ性が浮き立ちますが、残りの五七五にもそこそこの仕掛けを施してあります。見出していただければ幸いです。 掲句四句の「謎」、わかりますか? う~む。 むずかしい。。 あとで河内さんに伺ってみましょう。
by fragie777
| 2023-07-21 19:19
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