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7月20日(木) 土用 旧暦6月3日
猛暑の日の鳥たち。 この鳩は水飲み場にじいっといるので、水を出してあげようと近寄ったら逃げてしまった。 今日はタイの市場で買ったアロハシャツを着て、仕事場へいく。(とても堅気の仕事(?)をするようにはみえないチャライ恰好である) が、たいへん涼しい。 値段はべらぼうに安く男もののスモールサイズである。 しかし、まことに派手なシャツであるので、すれ違う人がじろりと見る。 こんなに涼しくて着やすいのだったら五,六枚買えばよかったとおもっているところ。 所狭しといろんなのが吊してあった。 ただ、洗濯したらどうなってしまうのか。。 そのことを考えると、ちょっとおそろしい。 毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、秋山百合子句集『星が丘』より。 油蟬朝から耳がいつぱいで 秋山百合子 「耳がいっぱい、の感じ、よくわかるなあ。」と坪内さん。読んでいくとどうやら、やや耳が難聴気味で、ということであるらしい。そういうお仲間がふえたということも書かれている。わたしもへらへらした恰好をして、呑気(?)に仕事をしているが、確実にR化に一途をたどっている。「耳がいっぱい」はまだわからないが、いずれはって思っている。いやよね、って思うけど仕方がないわね。 それはそうと、いまはまだ油蝉はこの近辺では鳴いていない。もっとやさしいニイニイゼミである。でも、もうすぐ油蝉の世界となる。先日、カナカナをはじめてきいた。 共同通信発の記事を紹介したい。 神野紗希さんの俳句時評「俳句はいま」の6月の記事である。 「『参照性』で新たな詠み 『ねじまわし』5号など」というタイトルである。 同人誌「ねじまわし」(生駒大祐・大塚凱発行)5号の特集の「参照性」について紹介し、その「参照性」をキイワードにして、仁平勝句集『デルボーの人』と千葉皓史句集『家族』を読み解いていく。 抜粋となるが紹介したい。(全文を紹介したいところであるが) (略)生駒は、俳句を定義するキーワードに「参照性」を挙げ、過去の俳句を参照して引き継ぐことが俳句を俳句たらしめているのでは、と提議する。 パロディーや本歌取りといった直接的な参照は、「ミクロの参照性」、さらに過去の俳句を踏まえたすべての句にも「マクロの参照性」があると分析する。「桜」を詠んだある俳句は、過去に「桜」を詠み込んだすべておn句から影響を受け、また与える…というように、俳句が培ってきた文脈は、季語や型や取り合わせなど多岐にわたる。そうした文脈を意識して詠み、読む姿勢を「参照性」と呼び、分析する試みだ。 仁平勝句集『デルボーの人』も参照性の濃い一冊だ。〈づかづかと夏の踊り子号に乗る〉は〈づかづかとささやけるささやける 高野素十〉の、〈土を出て蚯蚓の帰るところなし〉は、〈海に出て木枯し帰るところなし 山口誓子〉のパロディーで、「ミクロの参照性」をもつ。(略)〈銀座四丁目の秋のソーダ水〉のソーダ水が夏の季語という文脈のずらしなどには、「マクロの参照性」、俳句らしさの文脈を感じる。 千葉皓史の約30年ぶりの第2句集『家族』も、静謐な俳句の文脈を強く引き継ぐ。〈敲いてはのし歩いては畳替〉の日常卑近を延べ方の軽妙さで仕立てるやり方、〈みづうみにみづあつまれる紫雲英かな〉の中七から急に紫雲英へ展開する季語の付け筋、(略)情報の整理や言葉の省略、志す平らかな静けさが、いかにも俳句だとうなずかされる。 (略) この記事には「ねじまわし」に寄せた岩田奎さんの一文も紹介している。そして、神野紗希さんは、こう問いを投げかける。 季語の生かし方やメッセージ性といった基準とは別に、この句にはあるべき俳句につながる何かがあるという新基準として「参照性」という概念は、新たな詠み・読みを拓けるか。 興味をもたれた方は、ぜひに「ねじまわし」5号を読まれることをおすすめしたい。 同人誌「ねじまわし」 これは6号
by fragie777
| 2023-07-20 18:57
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