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7月18日(火) 旧暦6月1日
マヤ文明 球技をする人の土偶。 「この土偶の人物のように厚い防具を着け、大きく重たいゴムのボールを、おもに腰を使って打つ球技は、マヤの王侯貴族にとって特に重要でした。球技は戦争や人身供犠とも深くつながっており、王自らが球技をしている姿を描いた石彫も数多く残っています。」 テオティワカン文明 モザイク立像 「月のピラミッドの埋葬墓で12人の生贄の骨とともに発見された、象徴的な奉納品。胴体は蛇紋石(じゃもんせき)とヒスイ輝石岩(きせきがん)の小片により、口と目は貝殻と黄鉄鉱の小ピースで形作られています。」 「人身供犠(じんしんくぎ)」は慣習であったようだ。 今日も恐ろしいほどの暑さであった。 朝いつもより一時間ほど早くおきて植木にみずをやったのだが、水をやった一時間後ぐらいからすでに土は乾きはじめている。 人間もまいるが植木もこの暑さで参ってしまうかもしれない。 京都でも祇園祭りの長鉾巡行がはじまっているようだ。 この暑さで、たいへんなことであると思う。 俳句総合誌の記事を紹介しておきたい。 「俳壇」8月号 望月周さんによる「本の庭」で、二冊とりあげられている。 抜粋して紹介したい。 (略) 福引を仕切るサンタクロースかな 柿はかため桃はやはらかめを好み 大熊手歩きスマホとぶつかりぬ 忘れものしてマフラーの柄をいふ 初詣まづは小銭をつくりけり 誰もが目にするような日常の景。「通俗さを対象化する」(あとがき)と著者は自身の俳句観を語ります。通俗さが作品となる秘術は、読ませどころを心得た語り口の巧みさにあるでしょう。言葉運びや省略の妙味です。評論の鋭鋒で知られる著者。平明な俳句の背後にも言葉との静かな格闘がありそうです。 集中、コロナ禍のもとで日常を詠んだと思われる句が目を引きます。 間をあけて立つデルボーの人涼し 表題句。デルボーはベルギー生まれの超現実主義の画家。離れ離れに無表情な裸婦の立つシュールな絵などが、よく知られています。季語を介してデルボー作品のイメージを巧みに導き入れた掲句に、コロナ禍に晒された現代の不安な世相が重なります。 (略) 著者の第十一回俳壇賞受賞者。(略)清らかに澄んだ視野のうちに日常を捉えた佳品が並びます。 明日逢ふ噴水のまへ通りけり さくらんぼくすぐるやうに洗ひけり 空深きよりぶらんこの戻り来る 砂糖壺の中に小さき春の山 ボールペンの尖端は球鳥渡る まだ僕は海月の骨を探してる クレヨンのぽくんと折れて目借時 印象鮮明に具象化が図られ、修辞の抽斗が多く、眼の働きのよさも感じられます。「砂糖壺」の句は、俳壇賞受賞作の表題作。すでに四半世紀の作ですが、いまも鮮度を保っています。 夕焼やきのふのやうな少年期 第一句集の作。著者の詩性の源が少年期への憧憬にあることを窺わせます。「幼い頃から虚弱体質」だった著者が「自分の人生をこの世に遺しておくように」俳句に憑かれていく様が、本書収録の随筆に記されています。作品と併せ読むと旨に沁み透るものがあります。アンソロジーのよさです。 「俳句四季」7月号 二ノ宮一雄さんによる「一望百里」では、菰田晶句集『光のなかへ』。 ほほゑみがほどの日の差し仏生会 樋の水捩れて落つる寒戻り 草々の髙きを活けて風祭 金よりも漆に映えて秋ともし 碇泊の船さながらに冬の雲 片山主宰が「俳句は表現の巧拙の前に、何をとらえるかが問題である。同じものを見ていても、俳句的に対象を認識できない人は俳句に向かない。その点、菰田さんはすぐれた俳句のセンサーを持っている人」)(序文)と述べ、挙げている五句である。句集名を採られた句ももちろんであるが、感性の秀でた一巻である。 16日にジェーン・バーキンが亡くなった。 享年76歳。 不思議な魅力をもったあなどりがたい存在だった。 渋谷で行われたコンサートにも行った。映画もみた、雑誌でバーキンが特集などされているとどうしても読んでしまう。同じ時代を生きているという感覚もあった。いま知ったのであるが、生年はちがうのだけれど、同じ誕生日だった。今更ながらそれがうれしい。 かぎりなくカッコいい女だった。 コケティッシュで気品があり、不細工なようで輝く美しさがあり、質朴さを感じさせながら華麗、などなど相対立するものを一人の人間のなかでこれほど見事に止揚させている女性はいなかったのではないだろうか。 こころより哀悼の意を表したいと思う。
by fragie777
| 2023-07-18 19:24
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