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6月30日(金) 大祓(夏越) 旧暦5月13日
すこし前に、西武線の池袋駅に止まっていた電車。 こんな電車みたことない。 しかも、端のほうに止めてある。 よく見ると、全面に装飾が。 わたしは特急にのるべく急いでいたので、じっくりと見られなかったのだが、不思議な電車。 いったいどこへ連れてってくれる電車なんだろう。 「夢の国」にでも運んでくれそうな、、、、 そう言えば、カメラをさげた一群がいたような。。。 この日、わたしは長い木の橋をわたった。 俳人の髙田正子さんは、田中裕明賞の選者であり、「ふらんす堂通信」の選者を担当してくださったお方である。 この度あたらしい結社「青麗(せいれい)」創刊にむけて、ご準備をされている。 さきほど、「HPを公開しました」というお知らせをいただいた。 以下にリンクをはっておきます。 創刊に向けて、いろいろとお忙しいとはおもいますが、頑張ってくださいませ。 髙田正子さんの「ふらんす堂通信」での添削と選後評は、一冊にまとめるべく目下、編集中である。 担当は文己さん。頑張っていろいろと資料をみつけて参考にしているようだ。 新刊紹介をしたい。 46判ソフトカバー装帯有り 144頁 二句組 著者の鈴木しずか(すずき・しずか)さんは、昭和18年(1943)生まれ、現在は埼玉県所沢市在住。平成25年(2013)に俳誌「椋」(石田郷子代表)に入会。現在は「椋」会員。本句集は、第1句集で、序句を石田郷子代表が寄せている。 双蝶を連れてくるなり無為の人 郷 子 句集名は「むゐ」と平仮名書きであるが、「無為」の意味をもつものか。 本句集には「無為」の語をいれて詠んだ句が二句ある。 うべなひて無為にゐること椿落つ 無為にゐて熱き珈琲女正月 石田郷子代表の句は、鈴木しずかさんの「無為」に呼応している。 なんだか大胆でおもしろい一句だ。 「無為」という言葉を使って詠まれた俳句はあまりみない。 それがこの句集においては、二度登場する。 そしてタイトルは「むゐ」。(漢字ではなく、かな書きにしたことによって、「無為」という言葉から少し離れて自由に息をしている感がある。 作者が好きな言葉であっても、「むゐ」とかな書きにしたことは良かったのではないか。 「無為」という言葉をさぐれば、仏教用語であったり、老荘思想がかかわってきたりもするが、ここでは、「自然のまま、作為のないこと」の意にとりたい。自然体であることを意識化するとでもいうか。。。 さて、本句集の担当は、文己さん。 好きな句をあげてもらった。 しばらくは破れたるまま春障子 里人になりて甘茶の列にゐる 水無月や大島紬着てもみて (ご来社時に着てらしたのを思い出しました) 夏逝くや十人の影坂の下 きつとこれ桜蓼よと手折りけり 歳晩のいつもの山に来てゐたる しばらくは破れたるまま春障子 春障子って、どことなくゆるい感がある。冬の寒さを超えてきた障子であるから、春の温もりとともに障子もほっとするのか、緊張がほどけて破れやすくなっているのかもしれない。春が来た喜びと共に子どもたちが指であなをあけたりしてしまうかも。秋に障子を洗って、新しい障子をはる、そうして冬をむかえる。十分な暖房効果のある障子は冬の季語だ。その防寒の役目をおえた春の障子は、やや黄ばんであちこちと破れがみられる。ああ、破れてしまったわ、でも、春になったんだから、ちょっとこのままにしておきましょう、いささかの破れもそれはまた春障子らしいもの。この一句、そんな作者のゆったりとした心持ちがみえ、そんな障子を慈しんでいる作者でもあるようだ。破れたるままの障子の穴もまた春の明るさに満ちている。 うべなへる一汁一菜春立てり この句は冒頭におかれた春の句である。本句集は編年体ではなく、四季別に構成されている。作者の鈴木しずかさんは、「うべなへる」という言葉がお好きらしい。さきほどの「うべなひて無為にゐること椿落つ」の一句にもあるように本句集には二回もこの言葉が出て来る。「うべなう(諾う、肯う」とは、承知すること、同意すること。この句においては、一汁一菜とは粗食の謂いであるが、そういう慎ましい暮らしを受け入れていること、宮沢賢治の「味噌と少しの野菜をたべ」ということだ。なかなかこうはいかない。この句、下五の「春立てり」がいい。これが「秋の風」だったりしたらやや惨めでさびしいし、あるいは、「冬来たる」だったりしたら、覚悟のほどはいかに、という緊張感がはしる。「春立てり」という叙法によって、きっぱりと前をむいてそのような生活のありようを喜んで受け入れている意志もみえてくるというものだ。一汁一菜の彩りも目にうかぶ。つましい暮らしを立春のよろこびとともに楽しんでさえいるのかもしれない。 底紅や鏡台のある奥座敷 この句、すきだな。というかこんな趣のある家っていまはもう失われつつある。「奥座敷」がいい。和室が二間つづきになっているのだ。広い家なんだろう。農家などはいまでもこういう造りなんだろうか。ともかくも「奥座敷」。ひんやりとして静かで外部の人はあまり招き入れられない秘やかな空気が支配する奥座敷。そこに鏡台が置かれている。鏡台もいわゆる古いタイプのやつ。鏡に布がかけられていて、使うときはその布をあげて顔をうつす。化粧をする姿を人にさらしたくないので奥座敷においてある。そう、谷崎潤一郎の「細雪」に登場する人物たちが住んでいる家って考えてもたのしい。「底紅」の季語がとてもいい。これが同じ季語であっても「花木槿」であったら場面はぶち壊し(?)である。この「底紅」という響きと奥行き。実際の花も白に赤の底紅が美しい花である。古いお屋敷などにはまことによく似合う花だ。この句事物を並べただけの一句なのに、目の前に景が立ち上がってくる。その空気感や匂い、暗さ、静けさ、しかし、失われつつある景である。 とんばうの空の奥にもとんぼとぶ この句は、蜻蛉の飛ぶ空をよくおさえているとおもった。蜻蛉が群れて飛んでいる空って、ある時空間をつくっている。それはほかの虫たちの飛ぶ様とはまったく異なって、横にひろがり縦にひろがり連れだって離れては、ゆるやかであったり急速であったり自在である。ひとつの空に蜻蛉をみつけた。するともう一匹、目はそらに奪われていく。その発見の過程を一句にしたのである。巧い句だ。蜻蛉の飛ぶ空って、さらに奥があったんだって、この句を読んでなっとくし、その空を頭の中で再現して納得する、文句のつけようのない「とんばうの空」である。 無為にゐて熱き珈琲女正月 この句集の掉尾の一句である。この気分、とっても共感してしまう。忙しく立ち働いた正月すぎ、やっと一段落する「女正月」の日である。熱い珈琲を点て、あるいは近くの馴染みのカフェでもいい、そのすこぶる熱い珈琲を飲みながら、もう何もかんがえずゆったりぼんやりと過ごす。あるいは気心のしれた女友だちとどうでもいいおしゃべりをして過ごす。もう最高じゃない。この「熱き珈琲」がすごくいいと思う。ぬるい珈琲だったら、「無為」の素敵さがゆるむ。気分が共感するとさきほど書いたけれど、実はわたしはお正月もほとんど働かず無為な日々なのだ。共感するなんていったら罰が当たりそう。しかし、鈴木しずかさんにとっては極上のひとときとみた。校正スタッフのみおさんもこの句がとてもお好きとのこと。「女同士で集まったりしなくても、一人で熱い珈琲を味わうだけでもちゃんと『女正月』なんだなぁ、としみじみしました。」って。 六十七歳も過ぎて、ひょんなことから名栗で石田郷子先生、そして俳句に出会いました。「椋」に入会した時から終活には「一冊の句集を」というのが私の夢でした。いまここに念願の句集を手にして大変うれしく思います。 「あとがき」の言葉を抜粋した。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 赤を差し色に、タイトルはツヤ有り銀箔。 うべなひて無為にゐること椿落つ 装釘の差し色は、この椿の色だろうか。 水無月や大島紬着てもみて 日脚のぶ市松人形(いちまつ)の髪結ひ上げて 鈴木しずかさんは、伺うところによると、大島紬を洋服にデザインして仕立て直したり、あるいはたくさんの市松人形をつくたり、趣味が高じていまではお店に作品を出しておられるようである。 ふらんす堂に来社されたときも、ご自身で仕立て直しをされた大島紬を着こなしておられた。 写真はだめ、ということでこのブログにその素敵さを紹介できないのが残念である。 句集上梓後のお気持ちも、遠慮されていただけなかった。 ただ、文己さんあてにメールをくださった。 句集を手にした際には「私にも1冊の句集が、と思うと本当に嬉しいです!」と。 鈴木しずかさま 念願の句集のご上梓、本当におめでとうございます。 わたしもよく知っている名栗を吟行地としてこれからもじゃんじゃんご健吟くださいませ。 何処かでお会いするかもしれませんね。
by fragie777
| 2023-06-30 20:16
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