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6月26日(月)菖蒲華(あやめはなさく) 旧暦5月9日
梅雨の飯能・名栗。 苔の緑がきれいだった。 この日はわたしは飯能から名栗へむかうバスにのりそこねた。 友人たちに一緒にのりましょう、って言っておきながら、バスの出発の時間を把握していなかったのだ。(もう何遍も乗っているのに) 電車の飯能着は12時8分、バスの出発は12時7分、バスは待ってくれない。 しかも、バスは一時間にほぼ一本というもの。 で、タクシーに乗り込んでおいかけた。 「運転手さん、バス追いかけて」 タクシーの運転手さん、「追い付けませんよー」、なんて言っていたけど 「いえ、間に合います!」と気合いをおくったのである。 数駅先で追いついたのだった。 本当にスリリングな日々である。 ![]() 川端茅舎(かわばた・ぼうしゃ)(明治30・1897~昭和16・1941)享年43。 わたしもいくつかの代表句は知っているが、この度の「茅舎百句」によって、43歳で夭折した俳人の句をあらためて知ることになった。 いくつかをその鑑賞とともに紹介したい。 躓きし石生きてとぶ枯野かな 「雲母」大七・一 躓いて蹴った石を「生きてとぶ」と詠んだ。聖書の「躓きの石」を意識した可能性はないだろうか。「躓きの石」に躓くことが人を信仰に導くのだが、この句では躓いた石に生命が宿る。「枯野」は聖書の「荒野(あらの)」に通じる。この年、茅舎は「新しき村」の村外会員になっている。武者小路実篤などの影響で、茅舎が聖書に触れていたとすれば、この句はさらに面白い。 寒月や穴の如くに黒き犬 「ホトトギス」大十四・五 夜に見る黒い犬を「穴の如く」と形容した。寒月の明るさの裏返しである。同時入選句の「寒月や見渡すかぎり甃」も景を描きつつ、寒月に相対した気持ちの高ぶりが感じられる。これらと並び「梵妻の沙弥あまやかす小夜時雨」のような人間くさい句が入選している。茅舎の「ホトトギス」入選句は句柄の振幅が大きい。虚子選の度量と、選者と作者が相切り結ぶような緊張関係がうかがわれる。 大根馬かなしき前歯見せにけり 「ホトトギス」昭六・四 句評会では「目たゝきをしておとなしや大根馬 つや女」と並べて取り上げられた。席上、鈴木花蓑は「人間ならば袖を蔽うて泣くと云うこともあるが、馬にはそう云う自由を許されてないから只イーと前歯をむいてかなしみの表情を見せた」と鑑賞。虚子は「馬は無心であろうが、それを眺めた作者が情を移した」と評した。「かなしき」は、馬がかなしがっているわけではなく、虚子の言うように、作者が馬をかなしい存在と見たのである。 烏蝶けはひは人とことならず 「ホトトギス」昭十四・十 「疑い深い人間の性を烏蝶のけはいに見たのであろうか」とは山本健吉『現代俳句』。虚子は句評会で、茅舎は「無生物を生物と観、動物を人間と観る、というような傾きの多い人である」「けはひ、ということに重きを置いて叙してある点が魂である」と評した。 「けはひは人とことならず」という口吻に、漆黒の蝶の出現にハッと驚く気持ちがよく表れている。 一句鑑賞のみならず、一句の背後にあるさまざまな評に触れられるのがいい。「大根馬」の句にしても、花蓑と虚子の鑑賞では微妙にことなる。そんな見解を展開しながら執筆者である岸本さんの見解も記してある。この句を自分ならどう読むか、本書の楽しみ方は、まず一句について自身の鑑賞をしてみること、その後に著者の鑑賞をよむ。そこにまた他者の目があったりすると、さらに一句がひろがりその句に食いこむことができる。ひとおおり鑑賞を読んだらまた、一句をよみなおしてみる。そんな風にして読まれてみてはいかが。 本書は、茅舎十七歳の時の句からはじまる。ここではあえて紹介をしないが、十七歳という若さで茅舎がどんな句をつくっていたか、興味のある方は是非にこの一書を読んで欲しいと思う。 巻末の解説は、すこし前にこのブログで触れたように、茅舎の解説というよりも茅舎が虚子にすすめられて「ホトトギス」へ寄稿した「花鳥巡礼」についてである。そこには虚子の俳句を茅舎が評しているものが載っている。「花鳥巡礼」について、石原八束の批判をも紹介しながら、虚子が茅舎の評にみたもの、そして批判について茅舎がどう対し、さらにそれらをとおして岸本尚毅が感得したもの、そいうこともみえてくる解説である。一読をすすめたい解説である。 石原八束の批判はかなり激烈である。 すこしその部分を紹介しておきたい。 虚子の「佳品」を挙げていないという指摘に加え、八束は次のように「花鳥巡礼」を批判する。 茅舎のあげる虚子の句には、月並に最も近いような句が多く、この月並を好んでさえいる茅舎の批評には、人生のダークサイドにも、「虚子の非情な人世観照眼にも触れるところがなかった。」と、さきにも挙げた平畑静塔の批判どおりにちがいあるまい。 (略) 茅舎がマグマのような何かを包蔵した作家であることは論を俟たない。「花鳥巡礼」においては、その何かが虚子の句に反応している。 6月15日付けの三陸新聞に梶原さい子著『落合直文の百首』が写真入りで紹介されている。抜粋して紹介したい。 気仙市市出身で、高校教員の梶原さい子さんが手掛けた『落合直文の百首』(ふらんす堂)が出版された。(略) 梶原さんが選んだ百首と、それぞれの発表年や歌評を記しており、直文を代表する歌の一つ「砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず」では、「まるで映画の一シーンのようなロマチックな歌」「『恋人』という言葉は、当時としては相当にモダンだった」などと印象を交えながら歌の特徴を解説している。 梶原さんは「歌の発想や言葉からも落合直文のときめく挑戦を感じる。短歌に親しみのない人にも分かりやすいように仕上げたので、是非気仙沼の方々や若い世代にも気軽に手にとってもらいたい」と語る。 落合直文もまた気仙沼の出身である。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、『行方克巳季寄せ』より。 日々凡にしてこだはりの黒ビール 行方克巳 「〇〇ビールの黒に限るよ。以上のように話す人物がこの句の主人公だ。」と坪内稔典さん。 生ビールはここ数年ほとんど飲んでいなかったが、この間、先日蛍を見にいくまえにほんとうに久しぶりに飲んだ。 (やばり美味いな……)と。 生ビールの写真、ないかなと探したがなかった。 これはすこし前にワインバーでわたしの連れが飲んでいたもの。 わたしはこの時飲んだのはマルガリータ。
by fragie777
| 2023-06-26 19:35
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