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6月23日(金) 旧暦5月6日
紫陽花の径。 紫陽花の種類のおおさにおどろく。 これなど星をまき散らしたごとく、である。 夏至をすぎて、6月ももう残すところ10日もない。 今日は燃えるゴミの日、ゴミをだしながら愛猫・日向子が残していったものがほとんどないことに気づき、さびしかった。 闘病中はすさまじいゴミの量だったのだ。 このところ、バッハのマタイ受難曲の47番ばかりを繰り返し聴いている。 これほどにかなしい響きのアリアなのに、すごく慰められるのだ。 音が聴ける生活であることがうれしい。 もちろん桑田佳祐やタイのお気に入りのボーイたちの歌も聴きますが、、、、 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 130頁 二句組 著者の赤松勝(あかまつ・まさる)さんは、昭和24(1949)年高知市生まれ。昭和58(1983)年俳誌「白燕」同人、「白燕」終刊を経て、平成22年「子燕」発足、現在に至る。著書に、句集『彷徨』(平成12年)、連句文集『風脈』(平成19年)、橋間石著『俳句史大要』編著(平成23年)。 句集名の「連用形」とは、すこし変わった句集名かもしれない。集中に、 春の雨連用形のまま止みぬ という句がある。「連用形」とは「活用形の一つ。用言につらなるときの形。「咲き散る」の「咲き」、「飛ぶ飛ぶ」の「高く」類。また、助動詞「き、けり、たり」(文語)「た」(口語)、接続助詞「て」などが接続するほか、「花が咲き、鳥がなく」のように文をいったん中止する用法もある。」(広辞苑)つまり、なかなか応用範囲のひろい活用形であるのだ。掲句については、春の雨という細くてやわらかでしずかな雨が音もなく降り続いて、いつのまにか止んでいる。いったいいつ止んだのだろうか、そんな人の心の趣を詠んだものか。 本句集の担当は、文己さん。 空梅雨の小さな鈴を鳴らしけり 青きままどんぐりの内部告発 蜘蛛の囲に抱きつかれたる地球かな ぶらんこを漕ぎ大空に合流す 美しき枯野となりて年を待つ 「思い切った表現の句が気持よく、一気に読了してしまいました」と文己さん。 青きままどんぐりの内部告発 この句は、著者の赤松勝さんも自選の十句のなかであげておられる。どんぐりは通常は褐色の実であり、木の実の代表格としてわたしたちにも親しい。作者は青い実のままのどんぐりを拾ったのだ。実が十分に熟してない段階ではどんぐりも青い色をしているけど、秋の収穫の季節になるとしっかりと褐色になる。しかし、青いヤツがあったのだ。あるいはこのどんぐり、思うところあって成熟を拒否したのかもしれない。青いどんぐりを手のひらにのせたまま、作者の想像は広がっていく。そして「どんぐりの内部告発」へと至ったのだ。この「内部告発」という人間社会のなまなましい言葉を青い実のどんぐりに言寄せたことがおもしろい。どんぐりをひろっていくらその実が青くても、「内部告発」までには至らないような気がするけれど。この言葉を得て、ちょっと面白がっている作者の童心がみえてくる一句。 パンゲアの亀裂つづくや枯岬 これはわたしが立ち止まった一句である、作者はこの句も自選十句にいれておられる。「パンゲア」って何だ?とまず最初におもった。知ってました?調べてみたところ、驚いてしまった。(いい歳してものを知らないyamaokaである)「パンゲア」とは、「約3億年前に、地球上に存在したと考えられる巨大な大陸。これが分裂・移動して現在の諸大陸になった現在の諸大陸になった」(広辞苑)とある。ひえー知らなかった。そして図があってその図によると、北アメリカ、ユーラシア、南アメリカ、アフリカ、アラビア半島、インド、オーストラリア、南極が地続きになっている。膨大な広さである、というか地上はほとんど繋がっていたのだ。作者はすでになき大陸を思い描きながら、それが億年の歳月をかけながら亀裂しつづけていることを思うのだ。決して完了することのない亀裂である。作者の頭の中には、すさまじい時空が展開されているのである。しかし、この一句を作者の頭の中の出来事として終わらせていないのが、下五の「枯岬」である。この枯岬が現実的なものとして作者の眼前にあり、そこから作者は「パンゲア」へと想念を行ったのだろう。この句「枯岬」がリアルの読者の心に残るのである。そして「枯岬」がこの一句の重石ともなっている。 落葉拾うさてあてもなき空白 この句も面白いとおもった。そしてこの感触、よくわかる。落葉を拾ってみた。落葉を踏んでいくことは多いが、落葉を拾うということは通常あえてしない。よほど美しい散紅葉などあったりすると、その美しさに惹かれて拾ったりもしてみるが。この句、思うにそういう心の感動とともに拾ったのではないような気がする。散歩などしていてふっと拾ってみたのだ。そして拾ってはみたものの、拾った自分をもてあましてしまったのだ。なにゆえ拾ったのか、拾ってどうするつもりなのか、捨てようか、捨てるために拾ったのか、そんな自問自答をが一瞬のうちにおこりすぎさり、あとは拾った落葉をみつめるのみ。その心情を中七下五が巧く言い止めている。「空白」と止めているところもそこから空白が流れ出しているようで、読者もその「空白」を引き受けることになる。人間のやることにすべて理由づけなんてできゃしない、のである。 頬杖を外せば朧ただの人 思うに赤松勝さんという方は、思索的なひとなのかもしれない。句集を拝読してきてそう思った。だからこの日の夜も「頬杖」をしながらいろいろと思索にふけっておられたのだ。春の季節なので「夢想」でもいいが、、そしてふっと頬杖を外したのである。あたりは春のあたたかな水気をふくんだ大気が取り囲んでいる。ものの輪郭も定かでない。やわらかな空気の感触、夢想からさめてはみたものの、ひとり春の夜の朧に取り残されて、ああ、つかの間の夢だったのかと、いつもの自身を見出すのだ。「頬杖を外す」という具体的な行為から朧夜をよびおこしそしてさらに自己認識へと帰着する、その過程の一句がやはり思索家としての作者像を立ち上がらせる。 傘さして傘捨てに行く花野かな 「しみじみとした淋しさがあって好きな句です。」と校正スタッフの幸香さん。わたしもこの句は引かれた一句である。この「花野」はきっと冷たい霧におおわれていると花野だ。「傘さして傘捨てに行く」は、行為として不思議だ。なにゆえに、と突っ込みたくなる。しかし、幸香さんが鑑賞するように、この一句にはやるせないような「淋しさ」がある。それにつきる。それを味わえれば十分なのだ。「傘さして傘捨てに行く」、やはりおもしろい。しかしなにゆえ。。。 本句集には、俳句作品のほかに、「一句爛読」と題した一句鑑賞の章と、ほかに「連句集」が三巻収録されている。 「一句爛読」には、師である橋間石の〈階段が無くて海鼠の日暮かな〉の独自な読みを展開させたものなどがあって、赤松勝さんの俳句鑑賞とエッセイを味わうことが出来るものである。 句集『連用形』は私の第二句集となる。一冊目の『彷徨』を上梓してから二十数年が経った。その二十数年の間、何度も書いては止めるを繰り返し、溜まった反故の嵩を見るたびうんざりしていた。 句集名は収録の俳句から引用したが、この言葉の含意する、しなやかさ、繋がり、可能性などという点に注目した結果である。ただ、そう言いながら、たぶんに連句への意識があったことは確かである。 これで、かの反故の束と縁が切れるのはすっきりして気持ちが良いのだが、ちょっと寂しかったりするのはどうしてであろう。 「あとがき」を抜粋して紹介した。なかなか味のあるあとがきである。 装釘は和兎さん。 「「連句」の連なっていく感じをイメージしたとのこと」 タイトルはツヤなしの金箔押し。 見返し 表紙。 すべてグリーン系の濃淡。 連句の頁。 「装釘のだんだん緑が濃くなっていくという点がとても気に入りました。」 と赤松さん。 万緑や透き通るまで手を洗う ご上梓後の所感をいただいた。 句集の体裁は「俳句・連句・エッセイ等」の3本立てとなっています。これは季刊誌『子燕』と同じ構成です。そもそも俳諧の発句が独立して俳句となったものであり、また、散文詩的文章が俳文として芭蕉の時代に確立している。この3つのジャンルは密接な関係にあり、お互いに触発し合っているのではと思うのです。複合的な文芸体験が文芸そのものを豊穣にする、と愚考している次第。 句集の編集もまた、ご自身の文芸への信念に基づくものである。 「春風」と題したエッセイの最後の部分を紹介したい。蕪村の句にふれたものである。 蕪村の出自については謎が多いとされるが、十七、八歳のころ毛馬を出て再び故郷に帰ることはなかったのだそうだ。春風馬堤曲後半に 故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく) の句があり、故郷へ帰ることのできない自らの境涯を切々と詠っている。 携帯で四枚ほど写真をとって、再び自転車に乗った。さてこれからどこへ向かおうかと思案しながら、まるでこれこそが「行き行きてまた行き行く」だ、などと嘯いていた。 ハンドルを南進の方向にとると、梅田の高層ビルがまるでおもちゃ箱のように林立しているのが見える。澱河はなにごともなかったように悠然と横たわっていた。
by fragie777
| 2023-06-23 20:39
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