カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
6月19日(月) 旧暦5月2日
令法(りょうぶ)の花。 朝、でかける時に咲いていることに気づいたのだった。 白がきわやかな清楚な花である。 令法も二本ほど枯らしてしまい、これが三本目である。 が、なんとか生きていてくれる。 好きな花である。 「はたつもり」という古名をもつらしい。「幾千の白旗が積もるように白い花が群れ咲く姿をいう」と歳時記にある。 今よりは深山がくれのはたつもり我がうちはらふ床の名なれや 能 因 すこし前のことであるが、小野市で行われた「小野市詩歌文学賞」の授賞式などのすべてがYouTubeでみられことになっている。 当日は大雨のために新幹線がとまって選者の方が来られなかったりして、当初の予定がだいぶ変更になったようである。(ふらんす堂のスタッフも伺えなかった)そこで急遽、選者の永田和宏さん、受賞者の小川軽舟さん、おなじく受賞者の大辻隆弘さんの三人による鼎談が行われた。 それがとてもおもしろく好評であった小野市詩歌文学賞の係のかたからうかがったのである。 以下にリンクをはっておきます。 興味のある方は是非に。 17日づけの讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、梶原さい子著『落合直文の百首』より。 子等は皆貝を拾ふといで行て磯のはたごや昼静かなり 落合直文 「明治の新時代、和歌はどうあるべきか。四十二年の最晩年、直文は流れ去る水のような境地を開いた」と長谷川櫂さん。近代短歌の創始者である落合直文の歌を「流れ去る水ような」とはまさに言い得ているのではないだろうか。 人の心にすーっとしみこんで何かを刷新していく。そんな歌であるとわたしは思った。もっともっと評価されていい歌人だ。 藤本美和子さんが、記事のPDFをおくってくださったのだが、「ウエッブ俳句通信」134号の「特集 このごろいいとおもった句について」で、対中いずみさんが、「若者の句・シニアの句」という題で寄稿しておられる。そこに千葉皓史句集『家族』について誌面を半分ほどつかって評をよせている。抜粋して紹介をしたい。 ひとところ摘んで蓬の籠となる 千葉皓史 何の事件も起こらない。夾雑物もない。蓬籠だけがゆったりと詠まれている。そこに春の気配が横溢している。余白の美である。 現代の俳句は、意外なもの同士の二物衝撃や離れた季語の取合わせに果敢に挑戦している。また、リズムを崩したり字余り字足らず、口語調など変則的な語法にも挑戦している。それらの試みも楽しいが、掲句はオーソドックスである。しかし、平凡ではない。単純であることの価値を再認識する思いだ。(略) 春を待つ母はひとりにして置かれ 灯ともさず母のをりたる白芙蓉 雪解風そのとき母を失ひぬ 母を詠みつづけてきた流れのなかで、最後の「雪解風」には胸を突かれる。いずれは送る人とわかってはいてもやはり別れは唐突である。この句あるために句集を上梓したと言われても得心できる一句である。「そのとき」が決定的な語である。石田勝彦の〈妻ふつとも見えずなりたる千草かな〉が偲ばれた。(略) 『家族』からは、状況説明ではなく、状況把握なのだということ、把握を粘り腰で句に定着させることを学んだ。もとより澄んだ詩心あってこその話だが、俳壇的な喧噪を離れたところで懇ろに詠まれた上質な句群はまぎれもなく私を幸福にしてくれた。 なお、「若者の句」としては、岩田奎さんの〈青写真この世の鳥は遊ぶなり〉、山口遼也さんの〈ひしめきて黴は汀をなしてをり〉〈にはとりの舌のみじかき時雨かな〉をとりあげて評している。師である田中裕明の句にふれながらの評である。「俳句という短詩定型の力は、若い心に恩寵のように降り立つことがある」と。一読をおすすめしたい。 今日はおやつに相向かいにある「ミスタードーナツ」の「ポン・デ・リング黒糖」というドーナツをスタッフたちにおごった。 目に見えるところにあるのに五年に一度くらいしか行かないのだ。 人気店で人が列をつくって待っている。 ドーナツもお手頃価格でおいしい。 「今日のおやつよ」って「ミスタードーナツ」の袋を掲げたら、 「わたし、ちょうどそこのドーナッツのこと考えてました」ってうれしそうに文己さん。 三時にみなで食べたのだが、好評だった。 そうか、 美味しかったか。。 じゃ、こんどは新製品の「白いポン・デ・リング」を買ってみんなにふるまって喜んでもらおうかなあ。。。 今朝、玄関にいた蜘蛛。 ドアをしめた隙間から家のなかに侵入していった。 調べたところ「アシダカグモ」かもしれない。
by fragie777
| 2023-06-19 19:37
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||