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6月12日(月) 旧暦4月24日
神代水生植物園の半夏生草(はんげしょうそう)。 別名片白草(かたしろくさ)。三白草(みつしろくさ)。 ここにはたくさんの半夏生が茂っている。 葉が白くなるのは虫を呼ぶためらしい。 この日は梅雨曇りの日だったので、この木の枠にすわってここでもぼんやりとしていた。 家族連れや二人連れや大きなカメラを下げた人などがポツリポツリと通っていく。 三白草(さんぱくそう)二白(にはく)のときを剪られけり 山田弘子 白い葉を眺めていると、愛猫・日向子のことを思い出したりもする。 やはり日々衰えていくことはどうしようもない。 最近はお風呂場で洗面容器に満ちた水をじいっと長い間みつめていたりする。 わたしには見えないものが見えるようだ。 「俳壇」七月号の記事をすこし紹介したい。 関悦史さんの「俳壇時評」、小川軽舟句集『無辺』と千葉皓史句集『家族』が取り上げられて評されている。 抜粋では言葉たらずのものになってしまうが、抜粋して紹介したい。 小川軽舟句集『無辺』について、 様式を自走させることで人間中心主義(ヒューマニズム)の鈍重さからクールに身をかわしつつユートビアとしての花鳥諷詠をリメイクし続けるとき、そこから〈生活〉はこぼれ落ち、作家の老成、成熟の相は見せにくくなる。賞は指標のひとつに過ぎないのだが、一見際立った特質を持たない作家として出発した小川軽舟は、逆にいつの間にか境涯詠の暑苦しさとも、また薄暗い耽美性とも無縁な境地で、〈生活〉を審美化することに成功してしまったといえる。句集『無辺』の〈雪になりさうと二階の妻降り来〉〈こほろぎや夜を怖がらぬ子どもたち〉などには生活の中心をなす家族を通して、かえってそれを押し包む自然への感覚も研ぎ済まされる機微があらわれている。 関悦史さんは、千葉皓史句集『家族』について、「そこで際立つのが家族、ことに母の句なのである」と記し、句集中の「母の句」をとりあげている。 病む母の見下ろされをる秋の暮 いちにちを母老いたまふ春の雨 秋風や母の怒りのいづこより 雪解風そのとき母を失ひぬ 老境との永訣が句集に入ってくるだけならば、ある年齢層以上の俳人の作には珍しくもないことなのだが、『家族』はそれらとはやや趣が異なるようだ。千葉皓史が亡師石田勝彦から第一句集の序文に「どうやら千葉君の演技は『家族』にまで達したらしい」と書かれたことがあとがきに記されている。演技とは嘘ということではなく、生活を作品化し、舞台に載せるにあたってある注意がはたらいているということである。老いや病により人は自己の統制を失ってゆく。それは存在の大きなる連鎖を次第に下ってゆき自然化、物化する過程ともいえる。これらの句の季語はそうした自然に還る母を哀しみつつ、そこで見出された壊乱する物としての人を、再び言語でできた象徴秩序のなかへと回復させるべくあらわれている。私小説と俳句との親近性が云々されることは珍しくないが、実際に私小説の佳品に通じる読後感をもたらす句集はまれで、『家族」はそのまれな一冊となっている。 ほかに井出野浩貴句集『孤島』(朔出版刊)がとりあげられている。 千葉皓史と並べてしまうと人間中心主義的な分、親しみやすい作品となっている。と。 そしておなじ「俳壇」七月号の「本の庭」コーナーでは望月周さんによって、千葉皓史句集『家族』がとりあげられている。 本著は、俳人協会新人賞受賞後の第一句集『郊外』から実に三十年ぶりとなる二冊目の句集です。 泥水を吸ひたる雪の氷りけり 日面に一輪ひそむ野菊かな 極月や厨の母を訪ね当て すぐそこを煙のとほる海鼠かな 青とかげ蛇籠の中を走りけり 切字の多用や心地よい定型感には、俳句の韻文としての性格を重んじる姿勢が如実に表れているでしょう。著書は石田勝彦氏、綾部仁喜氏に師事しており、師系は韻文精神の徹底を唱えた石田波郷に行き着きます。(略) 〈老母の座り働き鳥曇〉〈亡き母のわれを想へる辛夷咲く〉。子どもの句が目を引く前句集に比べ、本著では老母の句が胸を打ちます。「家族」という表題の湛える哀しみに思い至りました。 わたしはどうやらこれまでの人生において、右足を左足よりもやや重んじてあつかってきたらしい。 だから、いま左足が抗議の反乱をおこしているのである。(左膝の痛みね) もうあと数ミリリットル(これがどれほど量であるか具体的にはわからないけど)の愛情を日々左足に注いできたら、こんなに左膝を痛めることもなかったのだ、 ということが整骨医院で判明された。 左足はやや大股に足を出してあるく、いまんとこそれが鉄則。。。 神代水生植物園。
by fragie777
| 2023-06-12 19:34
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