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6月9日(金) 旧暦4月21日
ふらんす堂ちかくの電信柱の落書き。 仕事場へ向かう途中に気づいた。 意味がわからないのだけれど、おもしろい。 ひと筆で描いているように見えるがいろんな色があって不思議。 わたしの目の高さより上。 宇宙人が描いた?! なんて。 わたし以外目をとめる人間はいないようだけど。。。 新しい時計が鳴る(音を流す)たびに、スタッフ同士で笑い合ってしまう。 まだ馴れない。 そのうち馴れると思うけど。。。。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 2句組 204頁 著者の小谷迪靖(こたに・みちのぶ)さんは、1939(昭和14)年東京生まれ、現在は東京・国分寺市在住。 2003(平成15)より俳誌「やぶれ傘」(大崎紀夫主宰)によって俳句をはじめ、2007(平成19)年、「會津」(榎本好宏選者)に入会、同人。「會津」終刊後、2014(平成26)、「航」(榎本好宏主宰)に創刊同人として参加、「航」編集長。2022(令和4)年「航」退会、「海棠」(矢野景一主宰)に入会。第1句集「こばしま」(2018)刊。現在「海棠」同人、俳人協会会員。 本句集に、矢野景一主宰が帯文を寄せている。 小谷さんの俳句は、自我をあらゆる制約から解放しようとするためのエスプリに満ちている。読者はおおいにたのしまれることを。 そして、著者の「あとがき」では、この句集について、作者はこう記している。 第一句集『こばしま』(二〇一八年四月)に続く第二句集です。二〇一七年から「航」榎本好宏主宰が亡くなられた二〇二二年二月までの三五六句を収めました。 集名「むかごの貌」は集中の「ひとつとて同じ貌なきむかごかな」から採りました。幼少時に疎開先で零余子に出会い、空腹だったこともあってか一口食べてえも言われぬ味のとりこになりました。今でも季節には毎日晩酌のあてに茹でた零余子を数粒頂いています。前句集にも「一粒の零余子のごとき漢にて」と自身を詠みましたが、いぶし銀のような零余子に心から惹かれています。 「むかご」とは渋い。わたしはあまり食べる機会がないが、田園歩きなどをしているとよく見かける。友人などは一所懸命取ったりして、ご飯に入れて炊くらしい。見た目も地味で、味も淡泊で、しかし、美味しさがわかるときっと小谷迪靖さんのように味をめでることになるのだろう。そうなるにはわたしなどまだまだである。 本句集の担当は、文己さん。 留守電に在りし日の声冬桜 山百合の一輪はさみ子と母と 大接近の火星に雹の降りゐたる 老いて母小鳥のごとく新米を 誰にあふわけでもなくて更衣 夜もなほ青葉いきれにつつまれて 今年またひと日おくれの鰻飯 食べ物の句が本当に美味しそうで、仙川にいらっしゃるたびに、ふらんす堂の向かいの鰻屋さんに通うのを楽しみにしていらっしゃった、グルメな小谷様です。と文己さん。 留守電に在りし日の声冬桜 わたしも心にとまった一句である。「冬桜」がいい。この声の主はもうこの世にはおられないのだ。なにかの拍子で留守電を聴いた、すると懐かしい声が聞こえてきたのだ。それはおもいもかけないものだった。思わず聴き入る。声は生きている。しかしすでにその声の主はいない。こういう体験ってわたしたちもしないではない。なんともどうすることもできない哀しみにおそわれる。「冬桜」とあることによって、この声の主の佇まいまでみえてくるようだ。声をとおしてかつての姿を彷彿とし、しばし思い出にひたる。「冬桜」はわたしも好きな花である。清らかななつめたさとは健気なうつくさ。しかし、思うに、わたしが死んでその声をとおして思いだしてもらって一句詠んで貰ったとしても(そんなことはないとおもうけど、もしもよ)絶対「冬桜」の季語では詠まれないと思う。これは自信を持って言える。どうしてって、ガサツすぎるのよ。わかるしょ。 山百合の一輪はさみ子と母と 文己さんの好きな句である。思うに著者の小谷さんは、花の季題を詠むのが上手い。それも華やかな花ではなく、「冬桜」であったり「山百合」であったり、どちらかというと地味な野趣のあるもの。花瓶に活ける花であるよりも野に咲く花がお好きかもしれない。いかにもそのへんが「「零余子(むかご)」を愛するお人らしい。この句も「山百合」がいい。これが「白百合」や「カサブランカ」などの華やかな百合だとしたら、「子」と「母」のいる風景が変わってくるし、二人の心情も変わってくるように思える。なぜだろう。なぜ「山百合」がいいのか。山百合を据えることによって日常の時間の手触りとは異なる手触りが立ちがある。白百合などだったら日常の延長のように思えるのだが、「山百合」によって子と母との関係がすがすがしいもの、そこを谷風がふきぬけていくような、何かが浄化されていく、と言ったら言い過ぎか。「子と母と」と突き放すように叙して、ここには人の言葉は介在しないのだ。山百合一輪と子と母、あとは静かさのみがある。ほかに草花を詠んだものに、〈待つといふよきこといまも草の花〉〈その先にはつかな望み冬すみれ〉「草の花」「冬すみれ」ともにいい。 吊革の三角形にある秋思 これは小谷さんも自選句にあげておられる一句である。電車の吊革はたしかに三角形のものもある。〇のものがかつては多かったような気がするけど昨今は三角形のものもある。こう詠まれてみると、丸型にはないかもしれないが、三角形にはあるのかも「秋思」が。これはどう理由付けをしてよいかわからないが、作者はそう感じそれを一句にしたのだ。「秋思」の季語の意味は「事に寄せてしみじみ秋を感じ、物を見てしみじみ秋を思うこと」とある。ゆえに、「吊革」をみてしみじみ秋をおもったとしても非難されるべきものじゃない。しかし、普通はあまりおもわないだろう、電車の吊革には。この句、さらに読んでいくと「吊革の三角形」を見て秋を感じたのではなく、そこに「秋思がある」と詠んでいるのだ。それがひとをくったようでおもしろい。その小さな三角形に「秋思」がちょこんと乗っているようで。しかし、やがてこう詠む作者の心の屈託が読者に伝わってくるのである。 歯ブラシを咥へてをりぬ初鏡 この句も笑ってしまった。好きな一句だ。句集のおしまいのほうにある一句だ。新年をむかえて清新なこころもちで洗顔にのぞむ。しかし、その心持ちをぶちこわすようなトンマの顔をした一句である。歯みがきという毎日すること、その行為の最中、歯ブラシをくわえた自分の顔に気づいた。それは、なんとも正月の粛々とした気分がぶっとばすようなゆるい間の抜けたわが顔である。磨くのではなく咥えてというのがいかにもマヌケだ。そこへもってきて「初鏡」である。弛緩した日常の顔を映し出している初鏡。こんな自身を俳句にしてしまう俳諧性がいい。たのしい一年がはじまりそうである。 校正スタッフのみおさんは、〈ヒヤシンスタバコやめればよきものを〉が好きですということ。「こう詠みつつも、やめられない自分をそれなりに肯定しているような感じもします。」確かに。ここでも「ヒヤシンス」の季語が巧みだ。 本書を上梓するきっかけは榎本好宏先生の謦咳に接する機会が無くなったことです。師の掲げられた「航」のこころざし「(前略)おのおのが持つ、無意識下のやわらかい自己の発現をめざす」を完全に理解し全うし得なかった不肖の弟子としては、道標を見失いました。しかしながら幸にして拙句「余生いましをりのやうに吾亦紅」と「天上の野がけの妻へ玉櫛笥」を褒めてくださいました。多少とも「こころざし」に適っていると激励してくださったとありがたく理解しています。合掌。 ふたたび「あとがき」を紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 渋いトーンがいい味をだしている一冊である。 タイトルの「むかごの貌」は黒メタル箔。 帯のモスグリーンもいい色である。 表紙のクロスがこれまた渋くていい。 この納戸鼠(なんどねず)の日本の伝統色がなんともいい色だ。 うっとりとしてしまう。 麻の風合いに型押し。 見返し。 というのもおしゃれ。 ひとつとて同じ貌なきむかごかな 句集上梓のご感想をうかがってみた。 このたびふらんす堂さまで拙い句集を出版させて頂きましたが、よくも向こう見ずなことをしたものだと恥じているのが正直な気持ちです。見渡せば錚々たる俳人の方々が立派な句集をお出しになっているのに云わば<雑魚の魚(とと)交じり>です。いかなるお叱りもあり難く頂戴し、それを糧に精進いたしますので宜しくお願いいたします。 あらまあ、なんと謙遜されたお言葉でしょうか。 いまはじめて拝読しました。 こちらこそご縁をいただき句集をおつくりさせていただきましたこと、感謝申しあげております。 あたらしい結社「海棠」のもとで更なるご健吟をなされますようお祈りもうしあげております。 小谷迪靖氏(右)と矢野景一氏。 ふらんす堂にご来社くださったときのお写真。 つぎの世は花野にあそぶ虫ならむ 小谷迪靖 どうして野に咲く花がお好きなのか、この一句に出会って、わかった気がする。 山風に吹かれる麦の穂。
by fragie777
| 2023-06-09 20:35
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