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5月13日(土) 旧暦3月24日
ご近所の薔薇。 家の近くのでは薔薇を育てている家が多い。 毎年、薔薇の旅と称して、それらの薔薇を眺めながら仕事場へと行くのだが、 今年はそれが出来ず、したがって薔薇の旅も断念した。 薔薇園でみる薔薇や花屋さんで切り売りされている薔薇などよりも、こうしてそれぞれの家で咲かせている薔薇をみるのが一番好き。 わたしの母も花好きで薔薇を育てていた。 かつて訪ねたイタリア・フィレンツェのサンタ・クロ-チェ教会の中庭に咲いていた薄紫色の薔薇が素晴らしかった。 教会の聖堂はすこぶる冷え冷えとしてミケランジェロの霊廟などがありなかなか陰気だったが、中庭は日当たりがよく猫たちがのんびりと昼寝をしていた。教会に日当たりの良い場所がある、ということは救いである。 舞踏の人薔薇(ソウビ )花前に語るかな 尾崎紅葉 BONNE・NUIT( おやすみ)といふ名の薔薇は散終り 京極杞陽 薔薇のアーチそこより胸に朱を点じ 鍵和田秞子 薔薇に雨とても死ぬとはおもへない 秦 夕美 恣生きてすなはち薔薇愛す 行方克巳 切薔薇をすくひ取りたる妻の指 千葉皓史 葡萄酒のわが血より濃し薔薇の卓 小澤 實 昨日のブログで、『現代俳句文庫 金子敦句集』を紹介したが、その紹介句のうちの一句について、フランス文学者で友人の高遠弘美さんが、メールをくださった。 一句によせる鑑賞の深さを、ここに紹介しておきたい。 * 俳句は短いだけにいろいろな解釈を可能にする伸びやかさがあるということを、今日のブログで教えて頂きました。
しゃぼん玉弾けて僕がゐなくなる 金子 敦
私がすぐに連想したのはシャルダンの絵です。 少年が窓辺でしゃぼん玉を吹いています。 この絵にもさまざまな解釈がありますが、有力な一つは、十六世紀から十九世紀のヨーロッパ絵画によく描かれるしゃぼん玉がそうであるように、ヴァニタスvanitas(虚無)の象徴と生の一瞬の輝きを描いたというものです。 私は上の俳句を読んで、やはり人生の虚しさをしゃぼん玉に仮託し、だからこそ「僕」はいっときの生を生きるという静かな決意を感じました。 繰り返して読めば読むほど深い句だと思いました。 作者の金子さんがどれほど意識していらしたかわかりませんが、そのような世界観の先にふと開いた愛らしい花のようだという気がしたのです。 * 参考までに。 この鑑賞に対して、金子敦さんから <人生の虚しさをしゃぼん玉に仮託し、だからこそ「僕」はいっときの生を生きるという静かな決意>を意識して詠んだ句です。それを前面に出してしまうと、俳句としては「言い過ぎ」になってしまいますので、句の裏側にそっと隠して、読者に委ねました。 でも、奥深くまで読み取れる方に読んでいただくと、やはり、僕の心情がはっきりと伝わるのですね。感激です~! というお返事をいただいた。 こんな風に「ブログ」に紹介した句に対して、さらに深い鑑賞やまったく別の視点からの感想などいただけると嬉しい。 今日は一日雨。 愛猫の日向子は落ち着いている。 なんともこんなに回復するとは。。。。 顔をみる度に、 「ひいちゃん、良かったねえ-」って撫でたり、声をかけている。 明日は観たかった映画を新宿に観に行くかもしれない。 そこはかと薔薇の溜息らしきもの 後藤夜半
by fragie777
| 2023-05-13 20:46
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Comments(2)
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