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5月12日(金) 旧暦3月23日
桔梗酢漿草(キキョウカタバミ) 酢漿草の花の一種である。 すこし前にわが家の駐車場のかたすみに咲いていた。 こんなふうに水道の蛇口のところに。 うすピンクの花びらにツヤがあって、佇まいが綺麗なので心惹かれておもわず写真に撮ってしまったのだ。 今日は新刊の『現代俳句文庫88金子敦句集』を紹介したいとおもう。 薔薇の写真をと思ったのだが、金子敦さんの俳句には、こんな風に可憐に咲いている可愛らしい酢漿草の花のほうが似合うのではと、思ったのだった。 俳人・金子敦(かねこ・あつし)さんの既刊句集6冊より精選400句を収録してある一冊である。既刊句集は、句集『猫』『砂糖壺』『冬夕焼』 『乗船券』 『音符』 『シーグラス』、『砂糖壺』を覗いた5冊はふらんす堂よりの刊行である。ずいぶん長いおつきあいである。『猫』が1996年の刊行であるから27年間にわたるおつきあいである。その間ずいぶんお話をする機会もあったが、実は一度もお会いしたことはない。金子敦さんは、人の会うことは苦手であるのかもしれない。しかし、今日もお電話でお話したのだが、いつももうずっと仲良しのように可愛らしい弟のようにお話をしてしまう。あらためてこの精選句集を拝読して、懐かしくしみじみとした。『冬夕焼』のときはお母さまを亡くされて編まれた句集だったのよねえ、とか思い起こされてくるのだ。解説は杉山久子さん、仲寒蟬さん。それぞれ句集に寄せた栞を再収録させていただいた。 収録作品400句を読んで、あらためて巧い方であるとおもった。ただ、巧さはあくまでさりげなく、一句一句が人の心に寄り添うようにふれてきて、しかも押しつけがましくない。作者の極めて繊細で優しい心根が、読者につたわってきて、おもわず、ああ、いいわねえって呟いてしまう。そんな一句一句である。好きな句がたくさんあるのだが、ほんの僅かを紹介したい。 明日逢ふ噴水のまへ通りけり 第1句集『猫』に収録。作者が20代のころの作品か。「逢ふ」に特別な思いがある。明日逢うことになっているその相手との場面を思い浮かべながら約束の場所の噴水の前をとおる。青春期のいろいろな思いがこめられた「噴水」でもある。目の前の噴水のみではなく、明日へのことをも想像させる噴水である。作者の思いは目の前の噴水を通り越して明日への噴水へと呼び起こされている。噴水という一瞬の噴き上げるもの、それは縦の動きであり、その前を通る作者はその縦の動きをさえぎるように横へと動いていく。縦と横とが交差しながら、さらに噴水の一瞬と明日の時間へとつながる時間が交差する。きわめてシンプルに叙しているのだが、重層的な読みも展開しうる一句である。作者の期待と不安がそのまま読者のこころにも忍び込んでくるようだ。しずかなドラマが潜んでいる。わたしは切なさも感じてしまうのだが、それは読み込みすぎだろうか。ほかに〈もう来ないかもマフラーを巻き直す〉 端居して付録のごとくゐたりけり 第2句集『砂糖壺』に収録。この「付録のごとく」の措辞におどろきつつ感動した。作者が人生に向き合うスタンスなのか。「端役」でもなく、物感がある「付録」である。端居をしているのは人間たちである。しかし、作者はここで人間であることの存在を主張せず、そこにいるのである。端居における自身のありようをどう言い表すかはいろいろとあるかもしれないが、「付録」という言葉は、ちょっと出てこないのではないか。しかし、作者にとって「付録のごとくゐ」るのが一番楽なのである。そして今日まで「付録」というものをけっしてないがしろにすることがなかった作者の生き方がみえてくる一句であるかもしれない。ほかに〈夕焼のはみ出してゐる水たまり〉 向日葵は亡き母の背と同じ丈 第3句集『冬夕焼』に収録。母への追悼句であり、母を恋う一句だ。ちょうどお母さまとおなじくらいの背丈の向日葵が咲いていたのだろう。その前にたつ作者。向日葵は顔がある花だ。その向日葵に対峙している作者、向日葵の明るい黄色が作者を照らしだしている。さびしいともかなしいとも心情はすこしも述べず、つきはなすように「母の背と同じ丈」と名詞どめにして言い切っている。それがいっそうに作者の孤独な心を浮き彫りにする。向日葵にすがって泣き出したいくらいだ。〈少年の吾に呼ばるる草いきれ〉 しやぼん玉弾けて僕がゐなくなる 第四句集『乗船券』収録。少年性をいつまでも失うことのない作者に「僕」という一人称はふさわしい。「僕がゐなくなる」ことへの喪失の驚き、それは「しやぼん玉」に映った自身の発見の喜びを知ったものでなければ見出し得ないものだ。まるでここの「僕」は童子のようである。社会的に武装し童心を失ってしまった心には「僕がゐなくなる」ことの驚きはおそらくやって来ないだろう。ほかに〈白息のはみ出してゐるかくれんぼ〉 半分に割り焼藷の湯気ふたつ 第五句集『音符』より。「焼藷」はたくさんの俳人によって詠まれている。好きな句も多い。掲句は、一見当たり前のことを詠んだようにおもえるがこの「湯気ふたつ」に発見がある。そう「湯気」が二つになるのよね、半分にすると、湯気が半分になるのではなくて、一つが二つになる。これを俳句にするなんて、なんともやるなあって。誰もが納得してしまう。焼藷ってその甘く焦げたような匂いも心惹かれるがなんといって湯気が命である。湯気の立っていない焼藷なんて、食べるに値しない。一句のなかに「焼藷」を真ん中に据えたところも巧みだと覆う。ほかに〈雛あられ盛ればざざざと波の音〉 紙皿の縁のさざなみ山桜 第六句集『シーグラス』より。「山桜」は、多くの俳人が一目おいている季語である。詩歌の伝統のなかで詠みつがれてきた「山桜」である。作者は、あの安手の紙皿を山桜にもってきた。しかも誰もきっとまだ詠んだことのない紙皿の縁のひだを「さざなみ」と叙し、山桜を呼び起こした。いやはやなんとも、である。山桜と紙皿。そして紙皿にあるこまやかなさざなみ。山桜の世界が更新された感がある。ほかに〈寒月とチェロを背負つて来る男〉〈返信の行間に降る秋の雨〉 本集には金子敦さんのエッセイも何編か収録されている。一部のみ抜粋して紹介したい。 夕立の匂ひのしたる葉書かな この句を書き留めた瞬間、それまでは固く閉じていた蕾が、いきなりぱっと開花したような感じがした。単なる写生ではなく、それに抒情を加えた句が詠みたかったのだということに気が付いた。もしかしたら、気付くのが少し遅かったかもしれない。 もちろん、写生が俳句の基本であることに異論は無いが、それに抒情を加えることによって、自分なりのオリジナリティーが出せるのではないかと思った。 この「夕立」の句を詠んだ頃は、友岡子郷先生の俳句に心酔していたので、その影響が大きい。清潔感があり抒情性に富む句風が魅力的で、僕もこのような句を詠みたいと憧れていた。友岡子郷先生が新しい句集を上梓される度に、何度も繰り返し読み、一句ずつノートに書き写して勉強した。「ターニングポイント」より。 解説部分の杉山久子さんは、「新しい音楽」と題して句集『音符』に栞を寄せている。抜粋したい。 ボールペンの先端は球鳥渡る 日常生活の中のとても些末なものを掬い上げて詩にしてしまうのは、敦さんの得意な作り方の一つだ。このような細やかなものたちに目を留めることにも驚くが、一句として世界を作り上げる季語の導きが絶妙だ。季語の働きによって手元にある小さな世界が、明るさと強さを伴ってもう少し大きな広い世界へと連れ出されるような心地がする。 おなじく解説の仲寒蟬さんは、「美しい渚」と題して句集『シーグラス』に栞を寄せている。その文章より。 ゆく夏の光閉ぢ込めシーグラス 『シーグラス』を読み通してこんなに「名は体を表わす」と言うに適う句集はないと感じた。実に様々な色がある。美しいけれども放つ光は原色ではなく年月を経た渋みが加わっている。丸みを帯びて誰の心にも寛ぎと和みを届けてくれる。 金子さんとはFB友達だ。彼は私より少しだけ若いはずだが俳句の世界では十年も先輩である。しかも『シーグラス』は『猫』『砂糖壺』『冬夕焼』『乗船券』『音符』に続く第六句集。人生の半分以上を俳句と関わってきて扱う題材も自家薬籠中の物となり句風も確立されている。それでも色々と新しい発見があるのが最新句集のいいところ。 以下は「あとがき」より。 初めて俳句を詠んだのは小学五年生の国語の授業の時。教室の後方の棚に鳳仙花の鉢植が置かれていた。「ほうせんか花が咲いてもまだ伸びる」という句を出したところ、担任教師からお褒めの言葉を頂いた。「金子君は、毎日よく花を観察していますね。じっくり観察するのは、俳句を詠む上でとても大切なことです。」と言われて感激した! この言葉が無ければ、俳句とは全く無縁だったかもしれない。不思議なものである。 中学生の頃から、日記を書くように毎日句作を続けてきた。今までに句集を六冊も上梓することが出来てとても幸せである。 金子敦さんは、大の猫好き。 表紙の写真の「猫じゃらし」をとても喜んでくださった。 いまは「すず」ちゃんという今年8歳になった猫を飼っておられる。 敬愛されている詩人・金子みすずの名前の「すず」からという。 おなじ金子同士である。 金子すずちゃん。 金子敦さんとは、今日お電話ですこしお話をした。 その時に、「俳句をつくる上で大切にしていることは何ですか」と伺ったところ、 「人の心を癒やすのが俳句だと思うんです」 というお答えがかえってきた。 たしかに金子敦さんの俳句を読んでいると、心が緊張から解き放たれて心地良くなぐさめられている感触があった。 「文芸とは癒しである、と僕はおもってます」と金子さん。 さらに、 「というのは、僕自身が俳句によって癒やされたいと思い、事実、癒やされてきているからです。自分から出発したものを普遍化したいと思っているのです」 と。 多くの人が金子敦さんの句によって癒やされているだろうということは、金子敦さんの俳句のファンが多いことでも実証されている。 薔薇一輪を、いつまでも少年性を失わない金子敦さんに。
by fragie777
| 2023-05-12 20:37
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