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3月29日(水) 旧閏暦2月8日
「ふらんす堂さ~ん、ふらんす堂さ~ん」という遠くから聞こえる声ではっと目がさめた。 今日の銀行の窓口でのこと。 ソファに座ったらすっかり眠り込んでしまった。 春はどうしても眠くなるわね。 (yamaokaの場合は、ちがうだろ)っていう突っ込みがきこえて来る。 そ、そうなのよ、どこでも眠くなるのはわたしの特技。 でも、春は特別よ。 今日は花散る道をあるいて来た。 わかるかなあ、チラホラと桜が散っているんだけど。 左手は中学校。その桜が散っている。 桜の花びらを身体に感じながら、歩くというのも悪くない。 テニスボールが転がっていた。 思潮社の創設者である小田久郎さん、そして齋藤愼爾さんが亡くなった。 小田久郎氏について言えば、「現代詩手帖」の四月号に訃報が載っていたらしい(いま確認)のだが、気付かなかった。 今朝の朝日新聞にて知った。 その業績については言うまでもない。 詩人たちによって追悼されていくだろう。 何度かお話をしたことがあるが、一度だけ小田さん自ら電話を下さったことがあった。 まだふらんす堂をはじめて4,5年のことだったと思う。 詩人の方たちとの新しい交流のなかで、わたしはコワイ物知らずにも「新しく夢みる詩人叢書 Collection《Poètes qui rêvent à nouveau》」という詩集のシリーズを始めたのだった。 第一回目が、有働薫詩集『ウラン体操』 ペーパーバックスタイルのシンプルな造本であるが、すべての詩集に詩人・清水昶さんの推薦の言葉をもらい、その上に栞の言葉も詩人からいただくというもの。有働さんの詩集には新井豊美さんだった。 装画は当時気鋭の画家・牛尾篤さんのエッチングによるもので、わたしが一番心躍らせたのは、本の天に天金ならぬ天色、つまり色(青)付けるというものだった。 製本屋さんに無理を言っておねがいしたのだった。 このシリーズを刊行しはじめたとき、小田さんから電話をもらった。 「この本の表紙の紙は何を使ってるの?」と聞かれる。 実は表紙の用紙もあれこれと思案した果てのもの。「それともナイショ?」って言われて、「いいえ、そんなことはありません」と申しあげて答えたのだった。こだわりの用紙のチョイスであったこと、そこに思潮社の小田社長が目を留めた、ということが内心嬉しかった。本作りをしてきた方であるからこその気づきである。多くの人は気づかない一見普通の白の厚い用紙である。でも、わたしにはこの用紙でなくてはならいという思いがあった。共に本作りの現場にいるんだということが嬉しかった。 いまでもその電話のお声をはっきりと覚えている。 齋藤愼爾さんは、評論、出版、編集活動(「アート・オルガナイザー)」において優れた仕事をされ、また俳人としても先日その業績を評価されて「第23回現代俳句大賞」を受賞されたばかりである。授賞式にはお出にならなかったと伺っていた。 素晴らしい業績の方であるのに、その有り様はどこかいつも恥ずかしそうで可憐だった。 忘れられない思い出がある。 詳しくは語れないが、ある二人の女性俳人とわたしとで新宿で齋藤愼爾さんにお目にかかったことがあった。齋藤愼爾さんは、お二人の俳人の方とお話をされたかったのである。わたしはおまけのようなものだった。しかし、お会いして10分もしないうちに、ちょっと行き違いがあってお二人の俳人が席を立って帰ってしまわれたのだ。熱心に話をされていた齋藤愼爾さんは、一瞬鳩が豆鉄砲をくらったような顔をされ、それから俯いて、黙って、わたしがいることに気づいてふたたび話をはじめられたのだが、なんと言ったらいいか、(わたしだって帰りたい気分、でもここで帰ったら……)で、悲しい顔の愼爾さんのお話にひたすら頷くばかり。そのあとは予定どおり新宿のゴールデン街に行って、何をはなしたかは全然覚えておらず、ただただ齋藤愼爾さんの悲しみに向き合ったのだった。ああ、いま思い出しても悲しい。。。 その後、なんどかお会いすることはあったけれど、そのことを思い出してしまう。齋藤愼爾さん、覚えておられたのかなあ。できることなら忘れしまって欲しかったけれど。いつも悲しそうな横顔でしたね。 小田久郎さま 齋藤愼爾さま ご冥福をこころよりお祈り申し上げます。 春の沖汽船はとわによこむきに 齋藤愼爾
by fragie777
| 2023-03-29 19:04
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