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3月26日(日) 桜始開(さくらはじめてひらく) 旧閏暦2月5日
名栗ではまだ山茱萸が咲いていた。 早春に咲く黄色の花がいっせいにその色を競っていた。 これは万作(まんさく)。 東京では2月に春を魁けて咲く花だ。 こちらは土佐水木。 手前のピンクはミツバツツジ。 連翹の黄がひときわ華やかだった。 こんな風になっているんだ。 連翹って。。。 今日は田中裕明・森賀まり共著『癒しの一句』より。3月26日の日付のもので鑑賞は田中裕明さん。 吾を容れて羽ばたくごとし春の山 波多野爽波 冬の間は枯れた色の山々であるが、春になれば草木の芽もいっせいに吹いてくる。わやらかい緑色がすこしずつ広がって、生命力を感じさせるのもこの時期。霞もたなびいていよう。「春山淡冶にして笑ふが如く」という中国宋代の画家の言葉から、「山笑ふ」という季語も生れている。 春浅い山に遊びに来て、明るい日のひかりを浴びていると、気分まで明るくなってくるようだ。仕事のことや家族のことで思い屈していたのが嘘のようである。もともと遊山や野遊びというは、日常と違う場所に身をおいて、いい空気を吸って、大いに英気を養う古人の知恵かもしれない。また明日からはそこへ戻っていくのだけれど、下界の町が小さく見える。 作者波多野爽波は大正一二年(1923)東京生れ。高浜虚子の弟子の中でも最も遅い弟子の一人である。虚子の唱えた客観写生のもっとも忠実な実践者の一人だった。第一句集『舗道の花』の扉には「写生の世界は自由闊達の世界である」というエピグラムが書かれている。 掲出句は昭和四三年代、句集『湯浴』所収。(春の山・春) わたしはここに記されているとおりの「野遊び」を昨日はしたのだった。 考えてみれば、贅沢な時間である。 今日の吉川宏志さんの「短歌日記」の短歌の「いちごのなかの白をひらきぬ」という一節に驚く。(一節という言い方でいいのかしらん) そう、苺は白の透きとおるような果肉をもっていたのだ、って。 苺をみるときっとこの一節がかならず甦ってくるような気がする。 昨日の山里でしきりに啼いていたセグロセキレイ。 ああ、そういえば燕も見たわ! 初燕だった。 勇気こそ欲し今日以後を飛ぶ燕 秋元不死男
by fragie777
| 2023-03-26 19:14
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