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3月16日(木) 菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 旧暦2月25日
あまりにも綺麗なので。。。。 お客さまの正体を明かしてはいけないということなので、いただいたおはぎだけをこうして紹介。 仙川にはじめていらしたその方は、このおはぎを買うために桜新町まで行かれて、列にならんで買って来られたという。 しかもはじめての桜新町で迷われたりもされたらしい。 このおはぎは有名らしいが、わたしたちは初めて味わった。 とても上品で、わたしなんか三口くらいで食べてしまった。(食べようとおもったら二口くらいでも食べられちゃうけど、それではあんまりでしょ) 昨日のセブンイレブンのラスクといい、その前にいただいた栗の上品なお菓子といい、こうやってyamaokaは太っていくのである。 わたしに美味しいものを与えないで欲しい。。。 これはわたしの指。 ひとさし指を愛猫の日向子に今日はじめて噛まれてしまった。 わが愛猫(19歳)をお医者につれていったところ、ある処置をするために日向子の頭を抑えていたのだが、最初は大人しくしていたのであるがとうとう怒りだしてわたしの指をがぶりって、それから先生に向かっていった。(先生はかろうじて大丈夫だった)。そう痛くもなかったけれど初めて噛まれたのはちょっとショックだった。何をしてもわたしには怒らない優しい猫だったのに。処置がよほど苦しかったのだろう。出血しているわたしの指を先生がすぐに処置をしてくれたのだった。指をみるたびに、日向子、苦しかったんだろうなあって。。。。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 216頁 二句組 初句索引、季語索引付き 俳人・小野恵美子(おの・えみこ)(1942年生)さんの第5句集になるものである。昭和34年(1959)より「馬醉木」に投句を始め、平成9年(1997)「馬醉木賞」を受賞されている。既刊句集4冊のほか、自解句集や『水原秋櫻子 一句の風景』などがある。「馬醉木」同人、俳人協会幹事。 母没後十五年の句を選び『航路』を編んだ。 特に謂れはないが、第二句集以降海に因んだ集名を選んできたのでそれに拠った。 初投句以来六十余年になるが、俳句の難しさは増すばかりである。 とは、あとがきの言葉である。 そして、2008年の第4句集上梓より15年の歳月が流れている。 しかし、本句集を読んでいくと、そこには「父恋い、母恋い」の句が多くみられ、いまなお作者の心には折にふれては父、母が姿を現すことに気づくのだ。父母に愛されて幸せであった時間が作者を支えているかのように。 花ふぶけ小さくなつた母がゐる 風五月写真の母と海へ行く 母恋へば紅絹の袖より秋の声 篋底に余白涼しき父の文 新宿に出て父の忌の片時雨 日毎捲く父の時計よ小鳥来る 父母を詠んだたくさんの句のなかからいくつかを紹介したが、日々の生活のなかに父がいて、母がいるのだ。そんな父母の気配はいまもなお作者を幸せにする。 本句集の担当は、文己さん。 とりどりの旅装や春が着岸す 思ひ出の師に及びたる言涼し 風も刻もゆるやかに過ぐ更衣 師のひと世直情といふ涼しさよ あをあをと山河はありぬ草矢打つ 小走りに出でて秋意を投函す 好きな句をあげてもらった。 〈うつし世に置く絵燈籠〉、「旅愁を束ね」、「内気な秋」など、「情緒豊かな措辞に感銘を受けました。爪紅が鳳仙花のことと初めて知りました。」と文己さん。 思ひ出の師に及びたる言涼し 師とは水原秋櫻子。作者は師にもめぐまれていた。大きな師をまっすぐに見つめた小野恵美子さんの眼差しがある。敬愛してやまぬ師をもつ、ということもまた幸せなことである。本句集は父母への思いのみならず、師への畏敬が貫いている。素晴らしい師に巡り会えたという弟子としての矜持も思わせる句集だ。〈師のひと世直情といふ涼しさよ〉という句もあり、師の存在は「涼しさ」を呼びおこすのである。俳句史上においても重要な俳人である秋櫻子であるが、そのありようが「涼しい」と弟子に思わせることは、いかに秋櫻子が「風通し」のよい存在であったかを思わせるものだ。尊大さや威圧感からはほど遠い師。素敵な師だったのだろう。野球が好きで、明朗で洒脱な江戸っ子。粋ではからいは嫌い。まさに「直情といふ涼しさ」である。 小走りに出でて秋意を投函す おもしろい一句。「秋意」が季語である。あんまり見たことのない季語だ。「秋の気分。秋らしい趣、秋の風情をいう」と歳時記の解説はやや観念的。さらに「澄みわたった大気の中に、沈んだ情緒がある、そんな風情」とあって、そうか、ってすこし分かる。つまりは「春愁」に対しての「秋意」で、春ほどの愁いはないけれど、やや、物思いに沈む、そんな気配か。この句「小走りに出でて」という叙法によって、いかにも秋らしいきびきびした感じがある。春だったら「小走り」ではないだろう。もっと気だるい気分。小走りの元気さはあるが、投函した内容は、そんなに単純じゃない。わだかまりや鬱屈が記されているのかも。だから小走りにポストまで行って、えいっとばかりに投函して「秋意」から解放されたいのかもしれない。空はこんなに突き抜けるように青いのに、わたしのこの故ないさびしさはどこから来るのかしら。したためた文を身から放したことで解放されたいもの。して、作者は秋意から解放されたのだろうか。。。 新秋の玻璃拭くあをき海を拭く この句は作者が自選句にもあげているが、わたしも好きな一句である。「あをき海を拭く」がいい。青い海の映っているガラス戸を磨いているのだ。ひんやりとした秋の大気のなかに。視線は窓ガラスに集約されているが、身体は大きな景のなかの一点として見えてくる。「新秋」という季語がもたらすひんやりとした気配、そして窓ガラスに映る海のひろやかさとはるけさ。そんななかでせっせとガラス窓を拭いている作者。視点が一人にとどまらず、虫瞰図的視点から、鳥瞰図的視点へと見事に景をひろげていく、ひとえに「あをき海を拭く」の措辞の効果だ。本句集は、海にかんする句が多い。集名も「航路」である。そしてこの「航路」は海の航路であると気付かされるのだ。〈遠き帆に心を添はす秋はじめ〉も秋の海だ。 寒泳の左手に富士を搏ちてゆく 本句集には「寒泳」を読んだ句が4句あるが、この句の構図のおもしろさにこの句を選んでみた。ポスターにもなりそうな構図である。わたしは横尾忠則が描きそうな構図だと思ったりしたのだが、小野さんから「ちがうわよ」って言われるかもしれない。向こうに富士山が見え、クロールでその手前の海を泳いでいく。左手というのが具体的である。大きな左手が力強く富士を打つのだ。すごいな、やはり。富士という上に向かって立つものに鋭い抜き手がすすむ横の動き。緊迫感のある寒さと泳ぎ手のダイナミックな動き。熱量が伝わってくる。左手は「ゆんで」と読ませるのだろう。あるいは「ひだりて」か。ほかに〈沖の日を呼ぶ寒泳の白扇は〉など。 校正のみおさんは、「〈夕刊噛む露けきドアの一つ一つ〉が好きです。「玻璃拭く~」という句が多く、きれい好きなお方なのだろうなと思いました。」 おなじく校正の幸香さんは、「〈少しづつ披き師の句となる扇〉に特に惹かれました。」と。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 エレガントかつ瀟洒な一冊になった。 ブルーが差し色であるが、落ち着いたブルーである。 タイトルは金箔押し。 文字の書体は、宋朝体でシャープに。 見返しのみ青の用紙。 あとはすべて清潔な白。 扉。 春暁の拳ひらけば波のこゑ 頁をくれば、しずかな波の声がきこえてきそうな一冊である。 著者の小野恵美子さんに、本句集の上梓後の思いをいただいた。 索引を付けたのは第四句集からだが、その際以前のものもすべて調査した。結果としては、これは諸刃の剣であることを確認したに過ぎない。長年句を作っていると、同じ季語、同じような表現の繰り返しになることは言うまでもない。 今回もまたあまりの進歩のなさに忸怩たるものを感じている。かと言って年々新しい景に出会える訳でもなく、今までと違う表現を生み出すことも出来ない。 師・秋櫻子に「紅葉と松」という随筆がある。(『喜雨亭談』所載) 紅葉せり松その上に枝を垂れ 昭和十三年の作だが、「眼前にその景を見て詠んだものではなくて、紅葉と松とを出来るだけ完結に――つまり装飾的の日本画にあるように、青と紅とをはっきり対照させて見たいと考えて詠んだのである」。 その後も、三十四年、三十七年と同じテーマを追い続け、四十年六月に光悦寺を訪れた際、境内に楓の木が多く、その楓の中に赤松が立っているのを見て 紅葉せりつらぬき立てる松の幹 『殉教』 の句を得たという。その間二十三年。その飽くなき探究心を少しでも見習いたいと思う。 ご本人のお写真の代わり(?)に、師・秋櫻子の色紙を貸してくださった。 冬帽の父ありありとけふ忌日 本句集は、「父」の句で終わっている。 はくれんの空。
by fragie777
| 2023-03-16 20:12
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