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3月10日(金) 旧暦2月19日 木瓜(ぼけ)の花。 今日はあたたかな春の一日だった・ すでに白木蓮などが咲き出している。 この季節、毎年かならず見上げる辛夷がある。 仕事場へ向かう途中だ。 はやる心でいってみたところ、なんと家も庭もあとかたもなく取り壊されていた。 もちろん辛夷の木ははない。 信じられない思いでしばし茫然とたちすくんでいた。 新しい家が建つのだ。 昨年だっただろうか、この辛夷の家の家主さんと立ち話をしたのに。 咲いているはずの辛夷を思い描きながら、わたしはその場をあとにしたのだった。 そうか。。。もうあの辛夷には会えないのだ。 新刊紹介をしたい。 A5判ソフトカバー装 246頁 この共著をどう言ったらいいだろうか。 俳人・朝吹英和(あさぶき・ひでかず 1946年生まれ)と画家・勝間田弘幸(かつまだ・ひろゆき 1947年生まれ)の作品を通しての対話集とも呼ぶべきものか。 朝吹英和さんは、すでに句集4冊のほか、評論集、エッセイ集を上梓しておられる俳人である。勝間田弘幸さんは、国際的な美術の賞などを数多く受賞されておられる画家である。本書の末尾にある経歴を紹介するとブログの多くの部分を占めてしまうことになるのでここでは省かせていただく。 お二人をむすびつけたそもそもの始まりは、何か。それは、おふたりが「日本モーツァルト愛好会」の会員であったことだ。 勝間田さんによる「まえがき」を紹介しよう。 朝吹英和氏から「芸術のコラボレーションを中心とした共著を刊行しませんか」という提案を頂いて、喜んで引き受けました。原稿も揃ってきた頃にタイトルをどうするのかと話し合った時、私は、朝吹氏の書かれた第Ⅳ章の「両極を究めたオットー・クレンペラー」の中の 「『魔笛』の終幕でのパパゲーノのアリアは自殺寸前の絶望の淵から一転して生の喜びに反転する高揚感に溢れ、喜びの頂点を駆け抜けるフルートの楽句は、僅か1秒程度の短さにも拘わらず、清流の中で陽光を浴びて魚が反転した時の一瞬の光にも似て、生命の力を感じる。瞬間が永遠に繋がるモーツァルトの音楽の素晴らしさである」 というところが心の琴線に触れたという話をしました。そこで幾つか候補は出たのですが、結局書名は「瞬・遠」に落ちつく事になりました。赤丸点は太陽であり、私の作品の〝花ふふむ(蕾)〟であり、命の象徴なのです。そして打ち合わせをしている中でこの本は精神のビッグバンに繋がるという思いに至り、「精神のビッグバン」も副題として加えることになりました。 この本をつくろうと思ったいきさつとタイトルの所以が記されている。 ここには勝間田さんの30点以上の作品がふたりによって語られているのみならず、ほかにも葛飾北斎、宮本武蔵、レヴィターンの作品なども登場する。 このブログでは宮本武蔵の『枯木鳴鵙図』について、勝間田さんの解説を抜粋して紹介したい。 (略) 縄文人が「生と死」を「赤と黒の点」に収斂させて表現した事は、物事の本質を見抜いたものとその慧眼に感銘しました。更に私の脳裏には、宮本武蔵(1584頃~1645)の描いた『枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)』のことが過りました。墨で描いた一本の枯木の上部には鵙が辺りを睥睨している一方、枯木の中程を尺取虫が這い上がってゆきます。このまま時間が経過して尺取虫が鵙の近くに行けばその鋭い嘴で一瞬にして食べられてしまうでしょう。正に「静と動」、「生と死」の鬩ぎ合う緊迫したドラマチックな場面で、「一寸先は闇」であるという事を表しているとも考えられます。剣豪だからこそ表現し得た世界が息づいています。 この絵を見て私が一番心惹かれたのは、尺取虫の頭と身が分離していることでした。私が幼少の頃、「どんな虫にも五分の魂があるんだよ」と母が教えてくれましたが、子供心にはこの「魂」が良く解りません。でした。『枯木鳴鵙図』の原画は縦の長さが125 ・5㎝です。尺取の頭と胴体の間に、実際に何㎜程の空隙があるのかは正確には分かりませんが、最近になって、この空隙部分は目には見えない心や魂が宿っていることを暗示するために、武蔵が敢えて「空くう」の状態にしたのではないかと思えて来ました。(略) 構図には絶妙なバランスを感じます。枯木の筆致は、上の線と下の線が合わさる寸前の空隙が残されており、まるで二刀流の刀で上下からサーッと振り抜いたような筆跡です。良くピタリと描線が一致したものだと驚きます。剣術を究めることで体幹も鍛えられ、ブレることのない正確無比な筆運びとなっているのでしょう。 そうしてさらに勝間田さんは絵の細部へと眼をこらしていき、武蔵が描きたかったものに迫っていくのだが、これは画家の目をとおしての一種の絵解きであって、この絵を食い入るようにみつめる画家の興奮が伝わってくる。全文を紹介したいが、抜粋で一部のみを紹介する。 (略)画面の左下部から右上に伸びている草木の枝も、枯木の空隙の辺りでは完全に切り離されて、かなりの空隙がありますが、絵としては確かに繋がっています。左下部の草木の右側から太筆で一気に右へ水平に引かれた線も画面中程で掠れて消えています。この水平に引かれた太線とその下の逞しさを感じさせる太い草木によってここに描かれている全ての重量を支えているように見えます。そのバランス感覚は正に一分の隙もない程で、例えば左下部の草木からの左斜め上に伸びる枝、その右上に伸びてゆくYの字形の左の垂直線、更に枯木の右側斜め上に伸びてゆく枝(因みにこの枝にも左上方を向いた小鳥が2羽いるようにも見えます)が右下へと下降してピラミッド形を造っていること。また、枯木の上部に止まっている鵙の下部から右上に分かれてゆく枝のような形、そして鵙の鋭い嘴と反対方向にある枯木の刺、刺は鵙の直ぐ下と枝分かれした下と3か所ありますが、この刺の意味する所は不明とは云うものの、鵙の尾は枯木の枝分かれした左上部に伸びてゆく線とほぼ一致しています。このように嘴と刺が団子の串のように途中が団子で見えなくても串の両端が見え、確かに繋がっていることで両端が引き合いより強いパワーを生むことを利用して、全体を力強く揺るぎない構図にしています。そして、いつ何時、尺取虫を見付け鵙が急降下して来るかも知れないという緊迫感を孕んだ枯木右側の場面に対して、鵙の窺い知れない背中側の領域も気になります。とらえ方によっては、尺取虫も一歩一歩鍛錬を積み重ねて高みを目指して来た武蔵自身のように見えますし、枯木の高みに鎮座している鵙も武蔵自身に見えなくもないと思います。 さらに勝間田さんは、この絵にはもう一羽の鵙がひそんでいるという鑑賞を展開していく。武蔵の絵のまえにたつ画家の興奮した息遣いが伝わってくるようである。 朝吹英和さんもこの絵について、感想をよせているのだが、朝吹さんの文章では、『月下美人Ⅰ』と題した勝間田さんの作品に触れたものを抜粋して紹介したい。 月下美人の開くへわれも息合はす 海野弘子 渾身の一夜の月下美人かな 暁闇や容おとろふ女王花 「強い芳香とともに下垂していた花柄は上向きとなりあまりの自己陶酔に震えつつ花弁を離してゆく。一瞬の生命の叫びとも思えるその様は植物というよりもまさに羽化する蝶に似て動物的である」。(海野弘子) (略)海野弘子さんが感じられた「植物というよりもまさに羽化する蝶に似て動物的である」との指摘の通り私が勝間田氏の『月下美人Ⅰ』に出逢った時の第一印象は「花」のイメージよりは眼を閉じた猫の貌のようにも又狐の貌のようにも見えた。そして作品を凝視している内にそのイメージは正しく白い狐の貌として私の脳裏に鮮明にその姿を現した。勝間田氏は後掲の通り、ご自身で作画の過程で女性の横顔を発見され、姪御さんには別の場所に女性の顔が見えると指摘されたという。意識の奥底に内在するものが形となって出現する不思議。(略) 海野さんが月下美人の開花に感じられた「動物的なるもの」を勝間田氏も感知されたのであろうか。ロールシャッハ・テストではないが、深層心理下に蓄積されたイメージが無意識の内に別のものの姿になって表出したものかも知れない。儚い生命への共感や自然界の不思議な現象に触れた時の感動が伝わって来る。(略) この朝吹さんの文章をうけてこの作品(1990年作)の⒓年後の2022年に勝間田さんは、『月下美人Ⅰ-2』の作品を描く。 それがこれである。 一見、おなじ絵にみえるがよく見ると違うのである。(この写真ではわかりにくいと思うが) 勝間田さんは、語る。 朝吹氏の「血の池を跳び越す白き狐かな」という謎を湛えたこの世を跳び越すような摩訶不思議な句に出逢った時、モノクロのこの絵に温かな血が通い出すように感じられてきて、とても驚きました。この絵の新たな世界に出逢うことが出来た気持ちです。そして、後から気が付いたのですが、画面下方を横切るように流れる三本の白い線が、まるで横たわる女性ヌードのような象(丁度、左側下方に垂れ下がっている蕾の右手側がヒップに当たる後向きの姿)に見えてきました。更にこのヒップに重なるように画面中程からナスのような、涙の一雫のような、見方によっては子宮のような象が見えてきて、この現場にも命が重層しているように感じたのです。この三本の白い線を赤色に染めてみたくなり着色したところ、ほんとうに文字通り血の通った絵に生まれ変わったのです。 そうこうしている内に今度はもうひとつの世界が立ち現れてきたのです。その風景はこの赤い三本川の線が三途の川にも見えてきたのです。女体を渡り切り、先ほどの一雫を伝って昇り切り、天界の大輪の花芯の中へと誘われ、そこに永住できる魂はなんと素敵なことかと……。茎と一緒に持ち上がってくるような蕾がやがて一夜しか開花しない大輪の花芯へと変化します。それは正に花を超えての両性具有というか一輪二役の植物とも動物とも分け難い、この世の両極を超越してしまったかのような振る舞いであり、その感無量の存在にただただ恋焦がれてしまう今日この頃です。 「月下美人」から俳人によって動物(狐)が想起されたはてには、画家によって、赤い線がそこに加えられて女体へとあるいは天上の花の花芯へとさらには動物と植物を超えた両性具有なるものへと変容していく、そして画家はその「振る舞い」に「恋い焦がれてしまう」という。 と、本著のほんの一部を紹介できただけであるが、本著の魅力の一端に触れていただけだろうか。 日本モーツァルト愛好会を通じてご厚誼に与っている勝間田弘幸さんと音楽や絵画、そして俳句と芸術についての対話を重ねているうちに偶々喫茶店で見せて頂いた氏の絵画作品に触発されて、芸術相互のコラボレーションをテーマとしての論考を文章化しておきたいという願望が湧き上がり、勝間田さんと意見の一致を見たことが本著上梓の切っ掛けであった。埴谷雄高の提唱する「先達の精神を共有して次に繋げてゆく精神のリレー」に微力ながらも参画したいとの思いもあっての事である。 本著の内容は目次のタイトルに集約されており、古今東西の先達の遺した存在の本質を象徴する「梵我一如」、「万物同根」、「輪廻転生」、「色即是空 空即是色」、「不易流行」、「自同律の不快」、「両極の往還」といった哲理に貫かれて瞬間が永遠に繋がる芸術の素晴らしさについての勝間田さんとの対話や夫々の著作がベースとなっている。 現実と仮想現実が混在する社会において事物の本質を探究し、豊かな想像力や直観を駆使して異次元の時空に飛翔し精神的に豊かな時空を体験し他者と共有することこそ人生の醍醐味ではないか。 朝吹英和さんの「あとがき」を抜粋して紹介した。 本著の装丁は君嶋真理子さん。 まずは外側を紹介しておきたい。 『瞬・遠 精神のビッグバン』 (瞬と遠の間の・の赤がおおいなる意味をもつ) お二人から上梓にあたっての言葉をいただいているので紹介をしたい。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 朝吹:勝間田さんとの共著を発案したのは2021年12月でした。勝間田さんとは毎週のように「茶話会」と称して喫茶店で意見交換したり、ご相談しながら企画を進めて来ました。君嶋真理子さんの装幀は本書のコンセプトを見事にビジュアル化して頂き、デザイン案を拝見した時、勝間田さんと感動致しました。永年に亘って積み重ねてきた経験に基づいて共著を上梓する事が出来た事を有難く思い、感激しております。一冊の本を共著の形で上梓することは初めての体験でしたが、相互に触発されて貴重な体験をする事が出来ました。 勝間田:いつの日か画集を作ることができたらと漠然と思っていました。2021年に出版された朝吹英和さんの第四句集『光陰の矢』に絵画作品を掲載して頂くという幸運を得ました。その後、朝吹氏にお見せしたかった絵があり、カフェで見て貰ったところ、「音楽と俳句、俳句と絵画、音楽と絵画などの芸術相互のコラボレーションを中心とした内容の共著を作らないか」という提案があり、こんな嬉しいことはないとまるで夢を見ているような気持ちで即決致しました。俳句についての鑑賞文や俳句から受ける印象を絵にすることや、音楽の調性からくるイメージを絵にするとか、更には他の画家達の作品についても鑑賞文を書きたいという欲求があり、いつか本のような形で実現できたら素晴らしいだろうと思っていたからです。この本の完成は憧れを抱いていた芸術に対する熱き思いが「実現」した瞬間で、日々心の奥底に沈殿してゆくドロドロしたダークグレイの色素が一気に光の虹に引き上げられるような感動を覚えました。 (2)この御本に込めた「魂」をお聞かせください。 朝吹:芸術相互のコラボレーション、自然と芸術、科学と芸術との関係などについて自らの経験をベースとして勝間田さんの絵画に触発されつつ執筆、内容が相互に関係していますので、章立てや文章の配列を考慮しました。芸術と科学との関係、人間の魂の問題は奥が深く本著の上梓によってやっとスタートラインに立てた気持ちです。 勝間田:幼い頃から絵を描くのが好きで、サラリーマンをしながらの画家気分でしたが、段々と描く内に無作為、無心、願わくば無意識という方向で描くことに恋こがれるようになり、無意識に近いところで描いたものの形象の中に逆探知として魂と云えるのではないかと思える現象を感じるようになりました。それは俳句にも、音楽にも、あらゆる芸術作品に共通に存在する何ものかであると確信を深めています。例えば俳句の言魂が生み出す形象の奥に作者の魂が垣間見えた時は感動します。全ての物質が生まれ、増え、宇宙が膨張してゆく為には、各々を引き合わせて一緒にさせるエネルギーが必要です。この結び付けをしているのが愛という名のエネルギーなのだと思います。感動すると涙が溢れてきて下界はぼやけて見えず、自己の内側に眼差しは向けられます。それは眼球が凸レンズで涙は凹面鏡のようになります。そこで心の奥深いところを見ると、愛と云う名のエネルギーが誘起していることに気付かされます。正に感動とは愛のエネルギーが生まれる現状なのだと思います。 縄文時代の人々が作った人型の土器には肩などに赤点と黒点が描かれている。これは血を表していると考えます。生きている時は赤色で死ぬと酸化して黒になるという生と死を極めてシンプルに切り分けている表現であり、驚嘆します。神話の時代になると三種の神器として、「八咫鏡」「八重垣剣」は鉄で出来ていて、後に「八咫鏡」は銅製となり今日まで残ったのだと思われます。鉄は地球のあらゆるところで躍してきましたが、私にとっては宮本武蔵の描いた「古木鳴鵙図」まで辿り着くことになりました。直感・直観・閃き・霊感・第六感などの瞬間芸の最たるものが俳句ではないのかと思います。私もこれからも直観・奇蹟・感動・感謝をスローガンにして生きてゆきたいと念じております。 朝吹英和氏(左)と勝間田弘幸氏。 去年の10月4日にご来社くださったときのもの。 担当のPさんに聞くと、画家の勝間田さんについては、文章に関してちょっとわかりにくいところなどあって、いろいろと指摘をさせてもらったらしい。 そういう指摘を勝間田さんは、これもコラボレーションであると喜ばれたとか。 Pさん曰く、「勝間田さんという方は、かぎりなく意味を消していくところから生まれてくるものの何かを求めておられるのではないか」と。 どうお思いですか。 勝間田さま。 そして朝吹さま。 本書は、性急に読んでいくのではなくて、一項目ごと筆者の興奮に身をそわせて味わいながら楽しんでいく一書だとわたしは思った。 そんなに早く頁をめっくったらもったいない。。。
by fragie777
| 2023-03-10 19:47
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