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12月1日(木) 映画の日 旧暦11月8日
今日から12月。 少女のころは、12月という月がなんとなく好きだった。 R女となった今は、こころ浮き立つ部分とそうでない感じがあって、ちょっと複雑。 みなさんは、いかがですか。。。 仙川にやって来たヒドリガモの番。 こちらは雄。 軽鴨となかよく平和的にすごしているようだ。 車の窓を開けっ放しにしていたことに気づかず、助手席が水浸しになってしまった。 あーあ、なんということ。 ここ数日、たぶん開けたままにしておいたんだと思う。 人を乗せて気づいたのだった。 新刊紹介をしたい。 菊判変型小口折カバー装函入り。200頁 二句組。 著者の小山玄紀(こやま・げんき)さんは、平成9年(1997)大阪生まれ。平成28年(2016)「群青」同人。櫂未知子、佐藤郁良に師事。俳人協会会員である。本句集は第1句集であり、序を櫂未知子氏、跋を佐藤郁良氏が寄せている。句集名「ぼうぶら」は、南瓜の別名であるということ、わたしも始めて知ったのであるが、かぼちゃを意味するポルトガル語「abobora」が由来であるらしい。 小山玄紀さんは、小山玄黙という名前で「群青」に作品を多く掲載してこられたが、この度句集を上梓するにあたって「玄紀」という俳号によるものとした。そして本句集には、有季定型の句のみならず無季俳句をすくなからず収録するという決断をされたのだった。 このことについて、櫂未知子氏は弟子を愛するがゆえの苦渋にみちた序文をよせている。 さて。率直なところ、筆者は無季俳句をこれほど入れることに反対した。大反対した。著書名にも反対した。一冊目の句集をどうしてこうまで厳しいものにするのか。 しかし、小山玄紀はわざわざ選んだ。それが吉と出るか凶と出るかを考慮せず、本当に「あえて選んだ」。それが何によるかは、筆者には想像できないけれど、思えば、俳号の「玄黙」から本名の「玄紀」に変えた頃から、この道は始まったように思う。 今でも、筆者(つまり私)は、この第一句集のあり方に反対している。せっかく一冊目を出すなら、これまで評価されてきた数々の作品を並べたらよいではないか。玄黙の名で載り、皆が愛唱してきた句を載せたらいいではないか。 しかしながら、小山玄黙改め小山玄紀は、それをよしとしない。周囲の人々、そして筆者を含むさまざまな人間の焦りや「惜しい」と思う気持ちを全て超え、わが道をゆく決意をこの『ぼうぶら』で示そうとしている。 普通ならここで、「第一句集おめでとう」と書くべきなのだろうが、さて、どういうべきか。あらゆる軛を振り切って、一冊目の句集を出そうとしている彼に、私はどんな言葉を掛けるべきか。(略) 本当は、有季定型句だけで第一句集を構成してほしかった。泣きたくなるほど、そうしてほしかった。しかしこれは、紛れもなく彼自身の選択である。自分で選ぶこと、あらゆる非難を受け止めること。それをじゅうぶん覚悟しているであろう彼に、あらためていいたい、そう、断腸の思いで「第一句集おめでとう」と。 あまりにも真率な思いにあふれた序文である。大いに期待し指導してこられた弟子ゆえにこのような序文となったのであるが、しかし、櫂さんは、この弟子を十分に愛しておられるのである。それは、跋文を書かれた佐藤郁良氏についても同じである。 私は今まで多くの若者を育ててきたが、その中でも玄紀君はとびきり優秀な青年である。編集などの実務能力が高いばかりでなく、俳句に対する姿勢も誰よりも真摯であるし、さまざまな場面で他者への気遣いもできる。この春からは医師として第一歩を踏み出し、幸せな結婚も決まった。何ひとつ不自由のない順風満帆な人生を歩んでいるのである。 その一方で、玄紀君は、どこか現実の世界に馴染み切れない「渇き」のようなものを感じているのではないかと思うことがある。あるいは彼は、それまで自覚していなかったそうした「渇き」に、俳句を作り続ける中で気づいたのではないだろうか。「小山玄黙」時代の作品は、もっと調和的で世界と折り合いをつけていた。だが、それは彼の本来の姿ではなかったのであろう。そう考えれば、『ぼうぶら』を通して見えてくる複雑な作者像こそ、玄紀君の本当の姿であると言える。読者は、この厄介で複雑な作者とその作品を、そのままの形で楽しめればよいのだ。小山玄紀、この若くて優秀な才能が、今後どのような道筋をたどって大成してゆくのか、私にも全く想像がつかない。彼にとって、『ぼうぶら』は壮大な寄り道になるかもしれないし、このままさらに斬新な冒険に突き進むのかもしれない。いずれにせよ、私の中にはいささかの心配もない。彼の才能と俳句への真摯な姿勢は、必ず大きな果実につながると信じられるからだ。 『ぼうぶら』、この一集が私の心に与えてくれた揺さぶりを忘れずに、玄紀君の行く末を静かに見守ってゆきたいと思っている。 わたしはこのお二人の小山玄紀さんへの言葉を読んで、小山さんが本当に愛されているんだなあと思った次第である。 さて、俳句をすこし紹介していきたい。 本句集の担当はPさんである。Pさんの好きな句を紹介したい。 竹馬のまま見送りてくれにけり 花時の眼毳立ちゐたりけり 手の平当てて手の甲当てて箒草 眼鏡よりかすかな音のしてゐたり 自分まで続きて冬の水たひら 悴みて湖の面は緻密なり 春水に近づけるだけ近づきぬ 百合のある方と狐のゐる方と 茸山怒分厚くなりにけり 旅せむと胸の柱をばらしておく 受験生より電話来る渚かな 風信子夜の種類に関らず 歯を百合の色に寄せゆく月日かな 竜胆を見付けるたびに母老いぬ いつも好きな句は五句くらいにと限定してもらっているのだが、今回はそのまま紹介した。 実はわたしの好きな句とかなりダブっている。 手の平当てて手の甲当てて箒草 この一句は、跋文で佐藤郁良氏がふれている。「青々とした「箒草」を目にしたとき、俳人がつい取ってしまいそうな行動を、的確に描いている。ある意味で、「箒草」という植物の本質を、今まで言葉にされていない形で言い当てているとも言えよう」と。この一句を読んだとき、わたしは自分の手が箒草にふれているような感覚にとらえられた、まず手のひらが感じた箒草の感触、そしてそれから手を裏返すようにして手の甲でそっと箒草にふれる。手のひらと手の甲ではややことなる感触。箒草とわたしの手が出会ったのである。この一句における比重は箒草とわたしの手のひらと手の甲はおなじであり、わたしの手のひらと手の甲の残っている箒草の感触がいつまでも長引くようにある。箒草を詠んだというよりも、その一連の行為を詠んで、物と物との出会いが時間の経過のなかで詠まれている、そんな感じ。わたしの右手の皮膚感覚。わたしはいま右手で箒草に触れたのであった。 竹馬のまま見送りてくれにけり 櫂未知子氏は序文のなかで、「もちろん、『ぼうぶら』には有季の作品が多く見られる。ただ、その多くは、季語そのものに正面から取り組んだというより、むしろ、「ついでに季語感」が強いかもしれない。いやいや、そうではなくて、俳人にとって(おそらくは)不可欠な季語を捨て、素のまま、あるいは素を超えた自分の世界で勝負しようとする思いのあらわれだと見ることも可能である。これはとても難しい問題であり、筆者は句集のゲラを読んで以来、深く悩んできた。また、句の中で取り合わされたものやことをどう考えるべきか、長いこと悩んできた。」と思いを率直に述べられている。小山玄紀さんの作品世界を理解しようとする思いにあふれた序文である。この「竹馬」の一句は、とても素直に情景が浮かんできて好きな一句である。小山さんの意図としては、「季語を詠んだ」という意識で詠んでもらいたくない一句なのかもしれないが、わたしは好きな一句である。竹馬から下りもせずに礼儀知らずななどとは決しておもわずに、そのことをとても好意的にとらえていることが、「見送りてくれにけり」という表現でよくわかる。 春水に近づけるだけ近づきぬ この句を読んだとき、小島健さんの「指を入れ手をいれにけり春の水」やふけとしこさんの「春の水とはこどもの手待つてゐる」を思い浮かべたりした。ここで詠まれている春の水は人を招いている春の水だ。それに人は素直に順応している。しかし、この一句については、春の水にたいして作者のかまえのようなものを感じてしまう。屈託といったものかもしれない。きっと作者は春水に手をいれてみたりはしないのだろう。春水とわれと間には相容れない永遠のへだたりがあって、だから「近づけるだけ近づ」くのであるが、その距離が交じり合うことはないのだ。そして、なにゆえ春水かとその心を問うなかれなのだろうか。それはこの季語の必然性を問うことになってしまうから。。。それでも、わたしはここは、「秋水」でもなく「冬の水」であっては一句にならないと思う。やはり春の水こそはかぎりなき誘惑者であると。それに向かっていく作者の心の深淵のようなものを感じてしまう一句である。 百合のある方と狐のゐる方と なんかへんな一句だ。だけど立ち止まってしまった。作者にそのこころは?って聞いてみたい一句だ。百合と狐が登場し、その背後に人間がいる。百合は季語としての働きをなしていないし、狐もまたそうである。「百合のある方」っていったいどんなお方よ、そして「狐のゐる方」って。作者は目の前の人間をみて、そんな風に思い分類してみたのだろうか。ここに登場する「百合」は、わたしのイメージでは、植物の百合そのものというよりも「百合」という言葉とその植物が支配しているあらゆるもの、「百合の文化」とでも言ってもいいのかしら、そして、「狐」も動物のみならず、「狐の文化」の領域、つまり物語で語られてきた「狐」であったり、人を化かしたりするあの、狐だったり、わたしのなかに埋め込まれている狐の情報すべての「狐」、そういう季語としての領域をこえたものとして「百合」と「狐」をこの一句に潜ませているのではないか。そんな風におもうとなんとなくわかってきた。とんちんかんだったらごめんなさいませね。 父母に真赤な廊下続きをり フルートの向うの母へ糸進めむ 曽祖母の埃つぽくなる時間かな 父の枠内を落花の片寄りぬ みんな帰ると都忘になる母よ 睡蓮のやや傾きぬ姉の部屋 妹は瀧の扉を恣 句の後半には家族のことが多く詠まれている。家族たちをわすれないために、作者は自身の周りにあるもの、それは季語であったり、ものであったり、ことがらであったりあるいは情報であったりを総動員して、一句のかたちのとどめておこうとしているかのようだ。そういうこともできるのが俳句という短詩型のもつ可能性であるとも。 櫂未知子先生、いつも私の味方になってくださり有難う御座います。佐藤郁良先生、私を「群青」の仲間に迎えてくださり有難う御座います。そして私の最初の師である小野あらたさん、自作を記録する習慣のない私に資料を提供くださった田中冬生さん、慶大俳句の大先輩である行方克巳先生他多くの句友に御礼申し上げたいと思います。 そしてこの句集は家族への感謝の印であり、そのようなごく個人的な一冊を読んでくださった皆様にもまた感謝致します。 私自身の脆さや弱さを恥じずに晒すことが出来たならば、「ぼうぶら」という名前に適った句集になったと、胸を張って言えます。 「あとがき」を紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 おもいっきり「ぼうぶら」らしい美味しそうな色の一冊となった。 函は背のない筒状のスタイル。 ぼうぶらの装画がちいさく配されている。 本体を取り出す。 明るいぼうぶらの中味があらわれる。 カバーは小口下り表紙に掛けられている。 表紙本体。 見返し。 扉。 本文。 天アンカット。 ちょっと遊んでみた。 わたしはこういう造本がすきである。 本の材質やそのつくりを楽しみながら、本の世界へと分け入っていく。 そういう段取りのある一冊。 この一冊にそんな複雑な段取りがあるとは感じさせずに澄まして立っている句集『ぼうぶら』。 本句集について、小山玄紀さんにその思いを伺ってみた。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? すっかり自分の体を離れた一句一句が、うっすら光りながら、ばいばーいと嬉しそうに走り去っていくような感じがしました。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 新しい家庭を持ったことでこれから減ってゆくであろう、両親と妹にかかわる句をなるべくたくさん入れようと頑張りました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 例えば蝶の無季句を作ることが今の課題です。 まずは蝶の本意をいかに一句の中から消すかというところから考えています。 これも元はと言えば有季俳句の範囲を曖昧にしないための取り組みのつもりです。 「有季俳句の範囲を曖昧にしないための取り組みのつもりです」という言葉に、小山玄紀さんのおおいなるヴィジョンを思います。 一人一個ぼうぶら持つて前進す 小山玄紀さん。 たくさんのぼうぶらを前にして。 小山さんがメールをくださった。 私のピアノの師匠(ちなみにこの方は行方克巳先生の慶應中等部での教え子でもあるのですが)から、「無季の句というのは、無調音楽のようなものかしら」という感想をもらいました。 季題のかわりに何か題や核となるべき言葉、イメージや象徴性の豊かな言葉を置く方法は、無季俳句の中でも調性音楽寄りだと思います。一方で、核とすべき言葉をもたせない作り方は、無季俳句の中でも無調音楽に近いのではないかと思いました。どちらも良いと思うのですが、私はいま後者の方に、掘り下げ甲斐を感じています。 いろいろと挑戦されていくというその姿勢。 いいではないですか。 長いスパンで考えていきましょう。 第1句集のご上梓、おめでとうございます。
by fragie777
| 2022-12-01 20:19
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