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11月24日(木) 旧暦11月1日
仙川の白鷺。 こちらは青鷺。 昨夜はあまり熟睡できず、今日はいささか寝不足である。 昼食後、眠気がおそってきて、どうにもならず、校了にしなくてはならないものがあったりで、珈琲をいれて飲んだがダメ。 友人が仙川に寄ったというので、ちょっと会いに行っておしゃべりを10分ほどしてもどったら、眠気はなくなっていた。 ブログを書き始めたらふたたび眠くなったので、目の前にあるいただきものの美味そうな「どら焼き」を食べることにするか。。。 うむ。 目が覚めた。。 さて、 新刊紹介をしたい。 四六判上製フレキシブルバック装カバー掛け帯有り。 244頁 二句組 著者の塙誠一郎(はなわ・せいいちろう)さんは、1941(昭和16)年東京・本郷生まれ。現在は千葉県市川市在住。2001(平成13)年より俳句をはじめ、2006(平成18)年に「沖」入会。能村研三に師事。現在「沖」同人、俳人協会会員、国際俳句交流協会会員、千葉県俳句作家協会会員、市川市俳句協会幹事、「沖」同人会副会長。本句集は、第1句集で「沖」の能村研三主宰が序文を、森岡正作副主宰が跋文を寄せている。おふたりとも懇切なる文章を寄せておられるのであるが、ここでは抜粋となってしまうことをおゆるしいだだきたい。 余生でも晩年でもなし去年今年 晩成と言はれて成らずちやんちやんこ いつよりと言へぬ晩年さるすべり 水戸つぽ気質ときに現れ青あらし 曝す書に朱線・疑問符・感嘆符 ここに掲げた句は、いずれも塙さんの人生の生き方の在り様を述べた句であるが、その時々の瞬間を大切にしながらも何事にも真摯に取り組んでいこうとする姿勢がうかがえる。会社の仕事を終えた後もそれを余生として捉えるのではなく前向きに全力を尽くされている生き方はすばらしい。「水戸つぽ」の思い込んだらそれをとことん貫き通す一本気な性格なのである。 作者をよく表しているところを抜粋した。能村研三主宰は、目下「沖」の同人副会長としての塙誠一郎さんをたいへん信頼しておられるようだ。 森岡正作副主宰は、各章ごとに数句とりあげ丹念に鑑賞をほどこしている。やはりここでも一部のみ紹介をしておきたい。 菜の花やレール曲がりて海に落つ 電車よりホーム短し蟲すだく 細長き嬰のあくびや日の永し 一句目は、一面の菜の花畑を分けて伸びるレールが、海が見える辺りで急に曲がって消えるように見えなくなったのである。そのレールの喪失感を「海に落つ」と捉えたのは見事である。二句目は、鄙びた駅などではよくあることで、きっと作者は最後尾の車輛に乗っていたのであろう。周囲や地の底から虫の音が湧いてくるという景がよくわかる句で、読者にも虫の音が聞こえてくるようである。三句目は、お孫さんである女の子の誕生を詠んだもので、その嬰の欠伸を「細長き」とは、可愛らしさを感じさせるに抜群の表現である。 このように森岡副主宰は一句一句を丁寧に鑑賞している。 担当はPさん。 もくれんや分厚き白の錆びてをり 梅雨晴や身を逆しまに風呂洗ふ 余生でも晩年でもなし去年今年 噴水のくたんと止まる夕ごころ ふんわりと佳きこと包み雪柳 塩飴一顆残る暑さをなだめをり 好きな句をあげてもらったが、わたしの好きな句とだぶるなあ。 もくれんや分厚き白の錆びてをり 白木蓮のことを詠んだ一句である。はくれんが盛りをすぎると花びらに錆色が加わってくる。大ぶりな花びらなのでその色は痛々しいまでに目にとまる。「もくれんや」とまず上五においてから、一挙に花びらの様子を描写している。巧みであるとおもったのは、花が錆びているとか花の色が錆びているとか言わず、「白の錆びて」という措辞である。白木蓮を、二つに分解(?)して詠んだところが上手いと思う。「白の錆びて」でわたしたちはこの花がはくれんであることを知るのだ。しかもすでに錆色となった分厚き花びらをもったはくれんであることを。ただただはくれんを描写しており、無駄な言葉はいっさい用いず衰えていくはくれんをまさに言い止めている。「花びら」という言葉をいっさい使わずに、はくれんならではのその花びらのさまを詠んだ一句であることを思う。 梅雨晴や身を逆しまに風呂洗ふ 「身を逆しまに」というところが面白い。景がよくみえてくる一句だ。序文でも跋文でも取り上げられている一句だ。跋文では、森岡副主宰が「「身を逆しまに」という動的描写が、梅雨が明けたという気分的な軽さを上手く表し」と書かれているが、わたしは其角の「鶯の身をさかしまに初音かな」を思い出して、たぶん、作者のこころの何処かにはこの其角の「身をさかしまに」という措辞があって、自身が風呂釜に身をさかさにしている状態のときにこの一節を用いようと思われたのではないか。などと勝手に思ってしまった。あるいは、梅雨が明けたことを心から喜んで風呂を洗っている作者は、春のよろこびを感じている鶯のようであると一瞬おもったかもしれない、などと。 噴水のくたんと止まる夕ごころ この句も立ち止まった一句である。「くたん」という措辞がなんともいい。「くたん」よ「くたん」。なかなかつかえない副詞である。「くたっ」というのと近い感じかもしれないが、噴水ならば「くたっと」ではいけない。やはり「くたんと」でなくては。そう思いません。想像してみて、水が噴き上げていたのが急に勢いをなくし止まってしまったわけだけど、くたっとでは、噴水が止まったところまではいいけれど、その後の様子が見えない。しかし、「くたんと」と表現することによって、水がやわらかく折れて止まったという感じがみえてくるのだ。さらにこの一句の好きなところは下五の「夕ごころ」である。なかなか「夕ごころ」まではたどりつけない、噴水との距離がある。「夕べかな」だったら誰でもつくれる。しかし、「夕ごころ」としたことによって、その噴水の水が突然とまってしまったことの終息感が、わが身にも及んでいるのだ。夕暮れのなかにたたずむ我のこころがその噴水の終息をひっそりと受け止めいるのだ、そんなややものさびしさをもてあましているような作者の心情もみえてくる。「夕ごころ」を見出した作者の手柄だとおもう。 遠足の子が来て河馬も薄目開け これはわたしの好きな一句である。いいなあ、遠足の子どもたちと河馬の交流。季語は「遠足」だ。上手いなとおもったのは、「遠足の子」と言っただけでもうその子どもたちの賑やかな風景がみえてくる。たくさんの子どもたちがやってきて、河馬に目をとめた。「おっ、カバだあ!」なんて叫びながら。そしてパラパラと駆け寄ってくる。河馬はいつものごとく半身を水のなかにおいて動ずることもなくいるのだが、子どもたちの嬌声に、その重たそうなまぶたを半分ほどあげて薄目で子どもたちに対応したのだ。まあ、はるばる遠足でやってきた子どもたちへの河馬のこころから(?)の挨拶である。「遠足」という季語を巧みにもちいつつ、子どもたちと河馬との交流をさりげなく一句にした。なんといっても「遠足の子」がさすがである。 家系図のはじめは分家蝌蚪の紐 句集名となった一句である。能村研三主宰がつけられたものだ。 本書は私の第一句集です。平成十三年(二〇〇一年)頃から中断期間も含めて、二十年余りに詠んだ俳句で、能村研三主宰の選を受けた約千二百句の中から三百五十句にまとめました。〔略) サラリーマン時代に興味がなかった俳句に興味を持つようになったのは、無意識の内にも祖父や父親の影響があったのかも知れません。祖父は俳句が趣味で子規派に属し、『春夏秋冬』に数句載っており、高浜虚子の『俳句はかく解しかく味ふ』にも引用されています。また父親も、加藤紫舟(加藤郁乎氏の父)の「黎明」の編集同人でした。終戦直後のざら紙の薄っぺらな「黎明」誌(現在は廃刊)と、柱に掛かっていた短冊を今でも鮮やかに思い出します。〔略) 昨年後半から急に句集を上梓したいという気持ちが起こったのは、高校時代からの畏友、伊藤アキラ君(作詞家、日立CMソング「この木なんの木」、渡辺真知子の「もめが翔んだ日」等で知られる)が、二〇二一年五月に急逝したことに因ります。ぼやぼやしてはいられない、いつお迎えが来るか分からないと言う気持ちになり、あと幾つやり残したことはあるかを、数えるようになりました。 本年二月、主宰に思い切って句集を出したいという希望を申し上げたところ、快諾を頂き句集編集の準備を開始しました。 この度、極めてスピーディに句集を上梓出来ましたのも、能村研三主宰はじめ沖俳句会の皆様の激励の賜物と深く感謝しております。〔略) 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は、和兎さん。 「家系図」という句集名をどうデザイン化するか、いろいろと試みたようである。 出来上がったものはすっきりとしてスマートだ。 タイトルは黒メタル箔。 カバーとった表紙。 深い緑に銀刷り。 見返しも同じ用紙。 扉。 フレキシブルバック造本なので、ひらきがとても良い。 しかも美しい。 青ぶだう旧約聖書のインディア紙 平成二十六年の十月号で「沖作品」の巻頭を取った句。「青ぶだう」「旧約聖書」「インディア紙」という三つの素材を旨く響き合わせている。(略)聖書は最初羊皮紙を使用していたが、重く嵩ばることが問題で、これを解決するためインドからロンドンヘ送ったインディア紙が使われるようになった。別名バイブルペーパーとも呼ばれている。(序・能村研三) フレキシブルバックの装幀をとても気に入って下さいました。 きっちりとした性格でいらっしゃる塙さんにはとてもぴったりな造本だったと思います。 ご提案してよかったです。 とは担当スタッフのPさん。 そうか、ご来社のときにフレキシブルバックをお見せして、気に入っていただいたのだった。 着ぶくれてジェネリックでと答へけり 「次の方」と呼ばれてやをら納税期 さりげない句であるが、こういう句もわたしは好きである。 季語の用い方が上手い方だ。 午後にひとりお客さまが見えられた。 井上青軸(いのうえ・せいじく)さん。 俳誌「秋麗」(藤田直子主宰)に所属する俳人の方である。 「秋麗」に長い期間にわたって連載してこられたものを一冊に纏めるご相談に来社されたのだ。 タイトルは「つれづれ風物詩」、写真をふんだんに用いて楽しいエッセイである。 井上青軸さんは、某大手新聞社に勤務されていた方である。 さすが、原稿データをきちんとわかるように保存され、校閲のための資料まで持ってきてくださった。 担当スタッフの文己さんが感激していた。 「今日は担当者がどんな方かと思って会いにきましたが、とても丁寧な人なので安心しました」と井上青軸さん。 井上青軸氏。 俳句をつくるきっかけとなったのは新聞社勤務時代に、小澤實著『万太郎の一句』を読んだことからという。 「ふらんす堂で是非に本をつくろうって思いました」とも。 嬉しいお言葉である。 インディアペーパーがふんだんに使われて。。
by fragie777
| 2022-11-24 19:39
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