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11月12日(土) 地始凍(ちはじめてこおる) 旧暦10月19日
小田急線で多摩川をわたる。 鳥の一群がいた。 電線のところの細かなもの。 わかるかしら。 反対側は人がいた。 今日も秋晴のよき一日となった。 用事があってほぼ一日出かけていた。 成城学園にある三省堂書店に立ち寄る。 ここは文庫本のそろえがすばらしい。 中公文庫で欲しかったのが二冊あって、手に取ったのであるが、実は今朝出かけるまえに電子書籍で本を二冊購入してしまっている。 (そっちを先に読むか。)ということで中公文庫を買うことを止めたのだが、あとで買っておけばよかったとひどく悔やむ。 先日の田中裕明さんの書籍購入日記などをみると、一日に10冊ちかく本を購入し、翌日も5冊、その翌日は7冊とか購入していて尋常じゃない。それがノートにきっちりと書き込まれいてる。ふっとそのノートのことがあたまを過ったりした。なんとしてもすごい読書量である。 わたしの場合ここ最近とみにであるが、いろいろと仕入れた知識や言葉が、前頭葉をするりとすべり落ちて行ってしまい、頭の中にすこしも浸透していかないのである。それはあきれるほどである。読むことに意味があるのか。って自分に突っ込みをいれたくなるのよ。 まっ、いいか。 すぐる11月10日に、ふらんす堂句会の講師である高柳克弘さんの「第71回小学館児童出版文化賞」の授賞式が如水会館にてあり、お招きをいただいたのでスタッフのPさんが出席した。 以下はPさんのレポートです。 第七十一回 小学館児童出版文化賞」の贈呈式が行われました。 髙柳克弘さんがポプラ社より出版された児童書、『そらのことばが降ってくる』が受賞され、ご案内をいただいたので授賞式に参加いたしました。 受賞された高柳克弘さん。 同時受賞の堀川理万子さん。 『海のアトリエ』という絵本です。 選考委員の方々と記念撮影。 選考委員のみなさんは、後列左より森絵都さん、富安陽子さん、今森光彦さん、荒井良二さん、鈴木のりたけさんという錚々たる顔触れです。 選評委員おひとりおひとりの選評を聞いて、『そらのことばが降ってくる』も『海のアトリエ』のどちらも共通して、SNSの発達で溢れくる言葉の海の中で溺れそうになっている現代の子供達にこそ読んで貰いたい作品であるということ伝わってきました。 言葉によって傷ついたコドモが言葉の清廉作業を通して自身を見つめ直す作品である『そらのことばが降ってくる』も学校では学ぶことができない「感性の栄養」がたっぷりと詰まっていて、めくる度に新しい経験をさせてもらえる『海のアトリエ』も現代に必要とされた本であると感じました。 以下は高柳さんの受賞のことばです。 私は普段俳人として活動していますが、元々はドストエフスキーが大好きだったので、大学は文学部に進みました。 ドストエフスキーのような壮大なものは無理かも知れないけれど、何か創作がしたいなと思って俳句サークルを覗いたところ、すごく人数が少なくてそれも僕の肌に合っていたのもあってたんですね。 初めて作った俳句を担当の先生が「君は寺山修司の再来だよ!」と言って褒めるもんですからその気になったりしてたんですが、後で先輩にきいたら「あの先生はみんなに同じ事を言ってるんだ」ということでガッカリしたりもしました。 でもこの頃にはもう俳句にハマっていたんですが、なぜそんなに取り憑かれていたのかと今思うと、2点あります。 1つは俳句というものは言葉を緻密につかうんですね。 夏目漱石が「俳句はレトリックを煮つめたようなものだ」と言っていますけれど、確かに助詞の位置にいたるまで緻密に考えている。 初めて芭蕉の句を読んですごいなと思ったのは、奥のほそ道の冒頭で見送りに来た弟子達にお別れの句を読んだものなのですが「行春や鳥啼魚の目は泪」という句です。別れを惜しんで鳥は鳴いて、水中の魚の眼にも涙が浮かんでいるという句なんですが、私は最初「目に泪」と覚えていたんです。 後で気がついたんですが「目は泪」なんですね。これに衝撃をうけました。「に」でも「は」でも同じようなもののような気がしますが、助詞の一字でかなしみの量が大きく変わるというんでしょうか。「目に泪」だと目の端にちょっとだけ涙が浮かんでいるようなイメージですが、芭蕉は「目は泪」としました。目=泪、というのは目全体が泪になってしまうくらい悲しみが溢れているという表現になります。これはすごいなと。意味やメッセージを伝えることでは変わりが無いのに、一字一句や呼吸に拘るのだろうと思いました。それが非常に新鮮でその考えが分かりたいとおもうようになって俳句にハマっていきました。 もうひとつは俳句というものは17音で短いのですが、人間を越えた他の世界につながるように思います。自然や宇宙、神のような大きな存在に繋がる気持ちになります。 例えば季語を読みますが、なぜ季語を読むのだろういつも考えているのですが、街の中に生きていると全てが人間中心になって作られています。 階段とかも人間の幅につくられていますが、一旦山や海に行ってみると人間ナイズされたものってないんですね。山を登ろうと思うと、岩や土といった自然に併せて自分の歩幅を考えていく。自然が主人公で人間はその中の一部であると考えるようになりました。今まで自分という人間が中心だった考えが覆されていくのがすごく新鮮だったんです。 私が書いた物語に出て来る登場人物はなにかしら誰かにかけられた言葉によって傷ついているところがあるんですね。 そのひとりに「ハセオ」という男の子がいて、私はハセオと似ているとことがあると思います。 私の父は全然文学に関心が無く「文学は役に立たない」と言われたことがあります。ハセオも同じ事を物語のなかで言われます。 この言葉は僕の中でも大きな問題であり、今の現代という時代においてもすぐに役に立つものが重んじられている世の中で芸術や文学が二の次になって まずはお金を稼ぐ力優先されるような世の中です。 こういう時代においても意味を持つ問いかけのように思います。果たして文学は役に立たないのだろうか。この父から与えられた問題は、すごく大事な問題になっています。 今現時点で出せる答えとしては、この資本が中心となる世界の中で17音に打ち込むというちょっと世俗から離れた位置から世の中を見たときに、どちらかというと人間側よりも自然の側に属している俳人という立場から人間社会を見てその時に何か言えることがあるんじゃないと思っています。 そのために文学に関わっているんだと思っています。 俳句の魅力に取り憑かれて20年くらいになりましたので、これからは新しい世代に俳句の魅力を伝えていきたいと思います。 扉開けすなわち小春日和かな 克弘 最後に自祝の一句を詠まれた高柳さんでした。 高柳克弘さま、おめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 屋根の上の青鷺。
by fragie777
| 2022-11-12 21:02
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Comments(4)
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at 2022-11-12 21:52
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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あ わ
at 2022-11-12 22:36
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いろいろ書きたくなる記事でした。
まず、文字起こしのPさん有難うございます。高柳さんのいいお話でした。 『文学は役に立つのか?』は、もちろんです、と今の私は申せます。 作り話であっても、作中人物の行動や心理は、自分の引き出しにしまわれて、何かの折に選択肢の一つになってくれます。また人と共感できる複眼も与えてくれます。 庄司薫さんの『白鳥の歌なんか聞こえない』は年老いて、万巻の書を読破した頭脳も衰えてしまう無常を描いていました。 無常であっても、文学に触れる時々の喜びはかけがえのないものです。 田中さんの本を買う話、『まだよまぬ詩おほしと霜にめざめけり』を思いました。 私の俳句の最初の師匠は一慶さんです。亡くなる少し前までショートメールで句を見て頂いておりました。 俳句は最期まで一慶さんに寄り添っていました。 文学は尊いです。
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fragie777 at 2022-11-13 11:38
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fragie777 at 2022-11-13 11:43
あわさま
すこし長いご紹介になるかな、と思ったのすが、そんなことはないとコメントをいただいて思いました。 「まだ読まぬ」の一句は、田中裕明さんを思う時かならずといって思い出される一句です。切なさとともに。 小島一慶さんでしたか! 句集『入口のやうに出口のやうに』は素晴らしい句集であると思います。 俳句の上手い方でした。 お目にかかることができませんでしたが、俳句のお話を伺いたかったと思います。 (yamaoka)
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