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11月8日(火) 山茶始開(つばきはじめてひらく) 旧暦10月15日
数珠玉。 わたしの目の前をよこぎる鴨たち。 今日は、山崎佑子さんが来社された。 仙川にある白百合女子大学のに専門の民俗学を教えにいらしているその帰り道に立ち寄ってくださった。 「細見綾子の百句」の初校ゲラをもって。 山崎祐子さんは綾子晩年の弟子である。 多くの先輩たちが細見綾子について書いてきた。 どういう視点で書くか、それに苦労されたようだ。 百句という数は、名句の多い綾子の俳句ではなかなか選びにくい数かもしれない。 できるだけ鑑賞などが同じようなものにならないように腐心されたようだ。 山崎祐子さん。 専門の民俗学のお仕事でも出版をひかえているものがたくさんあり、また、所属する俳誌「りいの」の編集もされていて本当にご多忙の様子だった。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 198頁 二句組 小川軽舟(おがわ・けいしゅう)さんの第6句集となる。 この句集を目の前にして、わたしはまだ句集を開いていない。 出来上がってきた句集の表紙を見つめながら、すこしドキドキしている。 小川さんのこれまでの句集とはなんだか趣がちがうようで。だってそうでしょう。これまでの句集のタイトルは、「近所」「手帖」「呼鈴」「掌をかざす」「朝晩」、どれもとても親しみやすい表情をしている。手にとってさっと頁をひらいて読み進むことができそうな、気さくさがある。 ところが、今回の句集名は「無辺」。ああ、これまでとちょっと違うぞ、そんな思いがして、すこし緊張する。 ただ、句集の佇まいはとても静かだ。 文字を配したのみの極めてシンプルな意匠である。背後にある文様は、白磁を撮影したものでその肌の色と風合いが、見る側によびおこすものはさまざまだが、あくまで静謐である。 この句集をひらくまえに、その静かさにしばし心がとらえられる。 じっと見つめていると日常の匂いが消えて、なにか異空間へと導かれていくような、果てしなさがあり、はるけさへ旅をするような気持になってくるが、まずは頁をひらいて読み進もう。 かつ丼の蓋の雫や春浅き はじめから九番目におかれたこの句をみて、わたしはうれしくなった。〈レタス買へば毎朝レタスわが四月〉と前句集『朝晩』で詠んだように、日々の生活を愛する健康的な小川軽舟さんが、やっぱりいる。好きな一句だ。かつ丼はもとより「蓋の雫」さえも美味そうである。あつあつのかつ丼を喜んでいる作者がもろにいる。背すじに感じる春の寒さも、どうってことはない。目の前にはとびきり美味そうなかつ丼があるのだから。 本句集の担当は、pさん。好きな句は、 水彩に下書きの透く五月かな 椋鳥にガラスは光あるいは朝 春の家消え二百坪六区画 耳遠き父を木の芽の囃すなり 狛犬の胸盛り上がる淑気かな 春の家消え二百坪六区画 この一句、「春の家」の「春」が季語。そして、それは「夏」「秋」「冬」としても一句としては成立するものだ。だけどやはり「春の家」でなくてはならないと思う。作者はこの場所をよく知っている、大きなお屋敷があって庭をふくめて二百坪ほどのものだったのだろう。ある春の日に、そこを訪れたら、その家の姿はなく、なんと不動産業者によってその土地が六区画に分割されていたのだ。このまま売りにだされるのか、建売住宅が建てられて売られるのか、よくある風景である。この句は「春の家消え」の「消え」が作者の心情を物語っている。家はそこに建っていたことがまるで幻想であったかのように忽然と消え失せたのである。夢のように消え失せるのは「春の家」にふさわしい。やわらかな日差しの下にきっかりと区切られた六区画のみが、現実のものとして目の前にあるのみ。 わが磨きわが履く靴に花の雨 この一句も好きである。この靴は都会ではたらく人の靴である。スニーカーなどでなく黒の革靴だろう。作者は毎日それを履いて出勤するのだ。その会社づとめも大変かも知れないが、きっちりと靴をみがいて気合いをいれて出勤する。上五中七でそんな作者のはりつめた気持ちが伝わってくる。自分で磨いた靴をはいて出勤することへのささやかな誇りさえわたしは感じる。「花の雨」とはなんと優しくて美しい雨だろう。黒の革靴にピンクの花びらが雨とともに降りかかってくるそんな景が見えてくる。ア行の頭韻が効果的だ。仕事人間のみではない、花の雨に心をよせる詩心をもった作者がここにいるのである。靴を詠んだもので、〈古靴に慕ひ寄るなり蟾蜍〉という句もあって、これも好きな句である。古靴と蟾蜍の交流(?)がなんともいいじゃないですか。靴は小川軽舟さんにとって、とても大切なもの、そんな風にわたしには思えてくるのです、、、、 歯並びのよき人とゐる寒さかな ちょっと笑ってしまった一句。そしてその場面を想像すると、なんとなく寒さがわたしにも伝わってくる一句。この一句、下五の「寒さかな」で、上五中七を裏切ってみせる面白さがある。この歯の持ち主は、白くてきれいな歯並びをしているのだろう。歯並びのいい人ってそうはたくさんいない。わたしも歯並びがわるくて小学生のときに歯の矯正をしたけれど、それでも歯並びがいいなんていえやしない。この句、作者の着眼点がおもしろい。寒さの理屈づけにしてはすこし飛躍があるのだけれど、でもわかる。そして作者は、この歯並びのいい人といて、ふっと寒さを実感したのだ。白い硬質なきれいに並んだ歯が圧倒的すぎて、まさに歯並び以外には見えなくなってしまったのか。その人をそんな風にみて、寒がっている作者の茶目っ気のようなものも伝わってくる一句だ。 かあさんと墓を呼ぶ父冬日差す これはなんと言ったらいいのだろうか。ちょっと絶句をしてしまう、そんな一句だ。妻を亡くしてすでに年月が経っている。「母十三回忌」という前書きの句もすこし前にあるので。きっと父は13年間墓にむかってそう呼びつづけてきたのだろう。息子である作者は、改めてそのことに思い至ったのか。生者と死者はすでに作者には明確だ。だが、父は墓石の向こうに妻の存在を感じているのか、妻は決して死者ではなく、生前に呼ばれていたように「かあさん」なのだ。そんな父の心情にあらためて心をとめた作者か。その気づきは作者にとってはやるせなくそして悲しく笑ってしまう。母の墓とそのまえの父と子、それらを冬の日差しがなぐさめるように包んでいる。好きな句というには、あまりにも切なく複雑な感情が引き起こされる一句だ。 ほかにたくさんの良き句があるのだけれど、いくつか。 バーベキュー薫風汚すこと楽し 睡蓮に日の差すやうに忘れけり スナック数軒昼顔の咲く路地とほる 草ひばり手紙のやうに日記書く かたまりより仔猫の形摑み出す 五月雨や抽斗引けば母にほふ サルビアや終着駅に降りる旅 この句集に収めた三五七句は、この世でひととき私の前に現われ、それを書き留めておきたいと思った事どもの蒐集である。私たちは果てを知らない無辺世界に危うく浮かぶように日常を営んでいる。無辺より来たって今在るものは、いつか無辺に消え去る。その過程で偶々出会えた物や心の端正な姿を、俳句の形に残しておきたい。そう願って私は俳句を作り続けている。 「あとがき」を抜粋した。 句集名を「無辺」と命名したその心が語られている。 本句集の装釘は、前句集『朝晩』とおなじく、山口信博さんと玉井一平さんによるものである。 担当のPさんによると、山口信博さんは、 早速、原稿を味わっております。 俳句形式に負担を掛けず、品格と古格がありいいですね。 句集名『無辺』いいですね。イメージが拡がります。 とメールを下さったということ。 カバーは、黒田泰蔵の白磁の皿を、写真家の大友洋祐さんが撮影したものを印刷。 偶然であったが、小川軽舟さんは、黒田泰蔵がお好きであるという。 文字がはっきりせずにごめんなさい。 カバーをとった表紙。 見返し。 扉。 花布もスビンも白。 ちょっと遠くから撮影してみた。 水底に欠茶碗あり蜷の道 『朝晩』に引き続き装幀をお願いした山口信博さんには、黒田泰蔵の静謐な白磁の皿から「無辺」の印象を引き出していただいた。端正に佇むと見えるものも、実は無辺の渾沌を孕んでいるのだ。(あとがき) デザイナーの山口信博さんは、お電話でお打ち合わせをするたびに、軽舟先生の句の姿を味わうように楽しんでいらっしゃるのが分かりました。 静かな時間を味わっていますと仰っていたのが印象的でした。 と担当のPさん。 上梓後の思いを伺うと、 これまでの身近で平俗な言葉を用いてきた句集とはやや異質に「俳句で行き着ける世界の果て」を見てみたいとの思いをこめました。 日常を大切にしつつ、さらに小舟のような日常を浮かべる無辺の海原に思いを凝らしたいと思います。 電脳界曼荼羅無辺空海忌 句集のうしろの方に収録されている一句だ。この一句は、小川軽舟さんの俳句による空海論と思った。唐より日本に密教をもちかえりそれを独自の観念論で構築した天才的僧侶、空海。この一句、漢字のみというのが面白い。そして「無辺」の語が入っているではないか。 余談で申し訳ないのだが、たまたまちょうど昨晩、司馬遼太郎の『空海の風景』を読み終えたばかりだったので、思わず目に入ってしまった一句である。空海をこの一句でしかも漢字のみで語って、すごいなーって感心してしまいました。。。 今日の皆既月蝕。 ブログを書いていたら、Pさんが電話をよこして、「見ておくといいよ」っていうので、外にでて撮ったもの。 あんまりうまく撮れなかった。
by fragie777
| 2022-11-08 21:08
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