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11月2日(水) 旧暦10月9日
歯医者の予約がはいっていたので、大急ぎで10時15分までにかけつける。 受付をして待っていると、 「yamaokaさん、予約11時15分からですよ」って言われる。 ガーン! 「また来ます」と言って仕事場にもどり、仕事のノルマをこなし、また行く。 診察をうけている合間に、歯科医のA先生がわたしに尋ねてきた。 「出版って、今の時代大変でしょ」 ご近所のよしみで、私の仕事をお調べになったらしい。 「ええ、大変です」 「僕も何冊か本をだしてきたけどね、今は大変だとおもうよ」とA先生。 A先生は、歯医者さんとしては有名らしく海外で講演などもされている様子。遠くからも患者さんがやってくる。だから当然著書も多い。わたしは読んだことないけど。。。 『最初の本のときはね、編集者の人に真っ赤になるほと赤を入れられたよ」って。 「ああ、きっとそれは優秀な編集者だったのですね」と言うと 「有名な編集者だったよ。その人に育てられたようなものだけどね」としみじみとA先生。 患者と医者がこんな風なやりとりをするって、最近はあまりないかもしれない。 町医者のよいところだが、こういうやりとりも最近は聞かない。 A先生がそもそもわたしの仕事に興味をもったのは、わたしの噛む力がつよすぎて歯をいためるという心配からだった。 どんな仕事をしているんだろうか。そうか、出版か、ストレスが多いよな、そんな感じ。 R体を鞭打って頑張っているんです。とアッピールしておけば良かったな。 俳誌「鷹」11月号を送っていただく。 「俳句時評」で兼城雄さんが、「季重なりと季語の過剰」と題して季重なりについて触れている。 岸本尚毅句集『雲は友』について語りながら、論をすすめていて、興味深く拝読した。たいへん優れた『雲は友』評ともなっていると思った。一読に値する書評である。抜粋では言葉足らずになってしまうことを覚悟しつつ、紹介をしておきたい。 兼城雄さんは、句集『雲は友』に多く見られる季重なりを深い読みをもって積極的に評価している。 蜘蛛は蛾をねぶり溶かしぬ夕野分 青柿が土にめり込み黴を噴き 一句目は蜘蛛が蛾を舐めて溶かしながら食っている様子である。その様子は夕野分の最中に描かれる。強い風が吹き、だんだんと周囲が暗くなる中で、野分に吹かれて揺れ動く蜘蛛の巣にしがみつきながら蜘蛛は蛾を食らっている。なんとも壮絶な場面である。「夕」という夜への移行時間を描いているために「死」や「静」を感じさせる。しかし同時に蜘蛛の生や野分の力強さに「生」と「動」も感じる。ニ句目は土にのめり込んでいる青柿の重さが感じられるが、そこから黴が噴出される。これから青柿は腐って朽ちていくわけだ。そこに死とも生とも言える黴のエネルギーが溢れ出す。季重なりという季節の過剰さを利用して、岸本氏は「生と死との対立」という陳腐な構図ではなく、その両者が混然一体となった複雑な詩的世界を詠みあげている。 本来、季重なりは主題が分裂して不明瞭になりやすいために避けられることが多いと言われる。しかし、岸本氏はむしろこの「主題の分裂」という力動を逆手に取って、一句内に生じる緊張関係を利用し、ダイナミックな句を産み出す。 さらに、「蜘蛛の囲に銅なき蜂や聖五月」などを例句として、「一句のなかに春の生き物の死とそれを捕食する夏の生き物が詠まれていることに面白さがあると思える」といい、「聖五月」が「聖母マリアを連想させる季語と弱肉強食の世界が微妙な緊張関係を生んでいる」と読みを深めていく。 「俳句では無季俳句が議論されることが多い。しかしその反対を行くように見える季重なりについての議論は少ない。岸本氏が季重なりに生まれる分裂や緊張関係を使って新しい俳句の表情を見せてくれたことは、現代の俳句について考える上でも多くの示唆を与えてくれる。 (略) 句集『雲は友』は確かに季重なりが多い。それを言うひともいる。 この「季重なり」をどう考えるか。 兼城雄さんの論考は、そうか、そういう見方もあったのかと、刺激的である。 そして単なる季語論にとどまらず、わたしたちをさらなる俳句の地平へと導いてくれるものであるかもしれない。 俳誌「靜かな場所」№29を送っていただいた。 森賀まり句集『しみづあたたかをふくむ』について特集が組まれているので紹介をしておきたい。 依光陽子さんと西村麒麟さんがそれぞれ2頁にわたって評を寄せている。抜粋して紹介をしておきたい。 依光陽子さんのタイトルは「このさびしさをきみは」。 凍りたる柿の木あれば仰ぎけり しみづあたたかをふくむ「水泉銅」。この玄冬の語の底にはその背景に控えた春が滲んでいる。ひらがなにひらかれた一音一音は波紋となって身のうちへ、そして誰かのこころへと届くだろう。〈何か思へと冬菊の影ありぬ まり〉もう何も思わなくていいのだ。支えは人だけではない。実を落とし人との接点を断ち切って凍った柿の木と呼応するのは、孤独を覚悟したものだけが持つ温もりなのではないか。(略) 西村麒麟さんのタイトルは「新しい歌」 第1句集『ねむる手』 第2句集『瞬く』にもふれ、その微妙な違いを繊細に書き記しながら「しみづあたたかをふくむ」の特徴をとらえていく。 今回の句集では他者(小さな生き物も含む)を好ましく感じている句が多く入集しています。あとがきに記された作者の「身のそばにあるもの、また失われたものの温みに気づかされた時間でもある」の想いが作品によく表れています。 白桃や過去のよき日のみな晴れて 歌ひつつ歩けど遠し芒原 この句集は白桃のように懐かしく、芒原のように美しい。作者の心もまた。 そして「靜かな場所」のメンバーである対中いずみさん、満田晴日さん、藤本夕衣さんが、それぞれ鑑賞をよせておられる。 こうして拝読すると、森賀まりさんへのそれを取り囲むひとたちのあたたかなまなざしを感じるのみである。 すごく余談(こんな言い方ってある)なのだけど、先日行われた「第13回田中裕明賞」の吟行会のときに、なにかの句で森賀まりさんが選評をされる時だったろうか、まりさん、にこにこと笑いながら、 「わたしは小さなおばあさんになりたいっておもってるんです」っておっしゃったのが、とても印象的だった。 その時はそのままその言葉が過ぎてしまったけれど、「小さなおばあさん」というのがまりさんらしいような、意外なような、さらにまりさん理解をふかめるような、そんな感じがして、「そのこころは?」って聞きたかった。 再来週にお目にかかる約束があるので、その「小さなおばあさん」への思いをぜったいうかがってみたいと想っている。 明日は予定をしていなかったのだが、どういうわけか、ちょっと遠出をして遊ぶことになってしまった。 あまり気がすすまないのだけれど、行けばきっと楽しむと想う。 朝早く起きるのがねえ。。。
by fragie777
| 2022-11-02 19:58
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Comments(2)
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