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10月7日(金) 旧暦9月12日
大きな蜂が止まった男郎花(おとこえし) 今日はむちゃくちゃ忙しかった。 その上にむちゃくちゃ寒い。 ふらんす堂ではすでに床暖房をつけて仕事をしている。 髪が総毛立っている。 「編集室から」「編集後記」を書き上げ、「石川桂郎の百句」の初句索引、季語索引の読み合わせを文己さんとリモートでし、メールの返事をかき、ゲラを送り、ああ、忙しかった。 さあ、すこし気持を落ち着けて、、、、 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 198ページ 二句組 令和俳句叢書 俳誌「絵硝子」を主宰する俳人・和田順子氏の第6句集となる。令和俳句叢書の一巻として刊行。初句索引、季語索引付き。 まず、「あとがき」の一節を紹介したい。 『皆既月蝕』は私の六番目の句集になります。三百八句と少ない句数ですが、今読んでみて、その時の心がわからない句は入れないことにしました。 平成三十年一月三十一日、私は突然夫を亡くしました。感染症で入院し退院間近であったのに「ありがとう」も「さようなら」も言うことが出来ず心臓は止まってしまったのです。家族が呼ばれてお別れをした後、体から器具を外す間病院の窓からこの日最大の皆既月蝕を見ていました。満月が徐々に欠けて暗闇の宙になるまで皆無言でした。私は夫に、子どもたちは父親にそれぞれお別れをしたのでした。句集名を「皆既月蝕」と決めました。 句集名を「皆既月蝕」とした由来が記されているが、あまりにも悲しい思い出の刻印である。本句集は、そういう文脈から言えば、亡き夫への挽歌でもある。二章の三句目に「夫、一月三十一日皆既月蝕と共に命終る」という詞書きが付され、夫恋いの句が数句つづく。抜粋して紹介したい。 夫尽きて新しき月冬空に ひとりとはとなりに居ない寒さかな 寒夜鳴る風にも夫を待ちゐたり ひとりとはとなりに居ない寒さかな ふたりで過ごしてきたこの冬のこれからをひとりで過ごさなくてはならない寂寞感を「寒さ」という季感でとらえた一句。心情的なさびしさを肉体的な実感で表現することにより、読者によりリアルな共感を呼ぶ。そして「ひとりとはとなりに居ない」と中7でいったん切ることによって「寒さ」が肉体へなだれこんでくるようだ。その「寒さ」とは単なる寒さではなくひしひしとした寂しさをともなったひとしおの「寒さ」なのだ。「さびしい」という言葉をどこにも用いずに、夫をうしなったその寂寥感を実体のみで言い止めているのが巧みだと思った。 本句集には、この箇所のみならず、ところどころ「夫恋(つまごい)」の句が散見する。 炎昼の孤独たとへば深海魚 夫無くも海に遊びて日焼けして 応へなきものへ語りぬ夜の秋 父母の亡く夫亡く杏子酸つぱいよ ご夫君との日々がよほど充実しておられたのだと思う。夫のいない欠落感をいだきながら日々をやり過ごしている作者である。 夫無くも海に遊びて日焼けして そんな句のなかでわたしの好きな一句である。「夫無くも」の措辞がけっこうな夫恋いだと思った。いいじゃないですか、夏の明るい太陽の暉りつける海原、大いに遊んでおのれを解放してあげて、そしてたっぷり日焼けして楽しむ。日焼けするのも生きている人間の特権である。亡き夫のことなんて忘れて生きていることを謳歌しなくちゃ。作者はそんな風に割り切れないのだ。遊んで日焼けした顔を鏡でみつめながら、生きることを楽しんでいる自身をちょっぴりうしろめたく思っているのだ。「夫無くも」のこの「も」から解放される日はやってくるのだろうか。 皆が居るやうに蜜柑を盛りにけり この「皆」はたぶん家族のことだろう。不特定多数の「皆」ではなく、それぞれ顔のうかぶ「皆」なのだおろうと思う。で、作者はきっと一人で住んでいるのだ。そしてその一人であるということがいつも意識の底にあって、その意識から解放されていないのである。蜜柑を買うときって、たいてい纏めて買う。一個二個を買うことはない。そして大皿や籠にもりつけておく。蜜柑の明るいオレンジ色は見ているだけでも楽しいし、部屋をあかるくしてくれる。しかし、この句の作者にとって、「皆が居る」ということと「蜜柑を盛る」ということが日常風景であって、「ひとりである」ということと「蜜柑を盛る」ことはある意味まだ非日常的な感覚なのだ。きっと盛られた蜜柑を食べるときも、不在の誰彼をおもいながら蜜柑食べるのであると思う。寂寞感をともなう一句である。 靴脱ぎて入る教会の涼しさよ この一句も好きな句である。なぜかというとわたしの実感がともなうから。この教会はキリスト教の教会であると思う。それも多分プロテスタントの小さな教会かもしれない。わたしの母教会(ぼきょうかい)つまりは洗礼を受けた教会のこと、もそうであるけれど、靴をぬいで入る教会だ。概して小さな教会はそうだと思う。靴のまま入ること、と、靴を脱いではいることは、そこに集う人たちの意識がやや違ってくるそんな思いがするのである。靴をぬぐことによって、やや剥き出しになった自身がおり、社会的な鎧をつけていたなにかを解く、その上での共同体である。そんな感情をもたないでもない。イエスが弟子たちひとりひとりの足を洗ったように、靴をぬいで神の前に足をさらすことって大切って、書いてきて、ちょっとこじつけかも、って思った。イカン、イカン、だってヨーロッパやアメリカなどの教会ではおよそ考えられないから。作者は夏のある日、小さな教会をおとずれた。扉を押しひらいてそこで靴を脱いだのである。靴から解放された足はほっとし、一瞬、身体は涼しさにつつまれた。その瞬間を一句にしたのである。涼しさが立ち上がってくるような一句だ。いずれにしても、靴をぬいで入る教会、わたしは好きである。 校正のみおさんは、〈行く春をひとりの音に慣れにけり〉の句が好きとのこと。「この『慣れ』は淋しくて切ない『慣れ』ですね」と。 ほかにたくさんの好きな句があったが抜粋して紹介したい。 小豆粥母は生涯京ことば ヨットハーバー真白き夏の繋がれて 特高を逃れし父の墓洗ふ 葛湯吹きおのれほどけてゆく時間 海光の明るさに住み年迎ふ 孤独になる勇気を求めてもがくなか、作り続けた俳句はやや主観の強いものになりましたが、迷わず掲載することにいたしました。 そして令和二年一月一日、日本の新聞に中国で原因不明の肺炎が流行っていることが載ります。これをきっかけに新型コロナウイルスの感染が広まり、私たちの暮らし方も変わってしまいました。行動も活動も制限を受けて句会を開くことも旅をすることも叶わなくなりました。しかし、結社誌だけは毎月発行し続けられたことは大きな喜びになりました。苦境にある方がよい作品が生まれるのかもしれません。深く考え模索する時代になりましたが、これも一つの試練であると思っています。 「あとがき」である。 「孤独になる勇気を求めてもがくなか」という一節が切実である。 本句集の装釘は和兎さん。 用紙は、月面のクレータのような感触のあるものを用いた。(この写真でわかるかしら) 表紙は美しい紫いろの布クロスである。 金箔が映える。 見返しは淡いむらさき。 花切れは金。 栞紐はむらさき。 この「あとがき」を書いている令和四年三月十一日、新聞のニュースやテレビの映像はウクライナの惨状を伝えています。戦争体験を思い出させる出来事がこの二十一世紀に起こるなんて信じられないことです。悲しみと憤りの日日の中で句集を出していいのか悩みもありましたが、生きていることが好きな私、俳句を作ることの好きな私の来し方として残すことにいたしました。(「あとがき」) 和田順子氏より、句集上梓後のお気持ちをうかがった。 〇句集を上梓されて今のお気持ちは。 良かったと思っています。自分の出来事や時代の中の出来事を気持ちのままに詠んで、理解していただけた嬉しさです。芸術性や上手さとは程遠い「私の喪失感」がテーマになっていて、個人的な句集ですがよかったと思います。 父が亡くなる寸前の母の耳元に「ありがとう。いい人生だったよ」と繰り返すのをみて、私もそう言えなかった気持ちが、句に詠んで吹っ切れました。 〇これからの方向性は。 楽しい句、上手な句、ウイットのある句、いろいろ見せてもらいましたが、「鶴」十月号に鈴木しげをさんが波郷の言葉として書かれている「俳句は人間の行そのものである。生そのものである。」の言葉通り、人生や生き方が垣間見えるような俳句を作っていきたいと思います。 〇改めて俳句に思うこと 俳句とは良い関係で仲良くしていきたい。殿村菟絲子師が「俳句に嘘はありません」とよく言われたが、自分には嘘のつけない文芸とおもう。 和田順子氏 人を待つ蜜柑の籠を明日へ置く 本句集の掉尾におかれた一句である。 こちらの蜜柑は、未来に向けて解放感にみちた輝きをしている。 今日はこれから出かけます。 では、皆さま、よき連休をお過ごしくださいませ。
by fragie777
| 2022-10-07 18:14
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