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9月12日(月) 立待月 旧暦8月17日
芙蓉の花。 神代水生植物園にて。 今日は立待月である。 あづま路の小夜の中山しげくともはやぬけ出でよ立ち待ちの月 源 仲正 あさがほのかげかすかなり十七夜 大江丸 立待やただ白雲の漠漠と 原コウ子 「旧暦八月一七日の夜の月のこと。十五夜の次の日の月を十六夜、そして次の月を立待月とよぶ。十五夜を過ぎて遅くなってきた月の出を、いまかいまかと立って待っているうちに出る、ということでこの名がついた。「たちまち(副詞)」という言葉はこの「立ち待ち」の意から派生したともいう。(藺草慶子)」(『新版 角川大歳時記 秋』より) 10日づけの毎日新聞の書評欄にて、ふらんす堂刊行の書籍が二冊、歌人の小島ゆかり氏によって書評されている。 「二人の奇才が見た世界と風景」と題し、藤原龍一郎著『寺山修司の百首』と仁平勝著『永田耕衣の百句』である。 抜粋して紹介したい。 小島ゆかり氏は、執筆者の藤原龍一郎、仁平勝について、「実作者として評者として短詩形を知りつくした二人である」と書き起こす。 藤原は、「寺山修司の表現行為は、すべてのジャンルのメインストリームに対する明確で意志的なカウンターであった」と言う。その多面体的な表現者寺山は、まず学生歌人として世に登場したのだ。(略) 一方仁平は「そもそも耕衣の俳句は、一般的に『俳句的』とされるパラダイムから外れている」と言う。耕衣は禅に傾倒して、「根源とは東洋的である」との独自の根源俳句論を掲げ、また「高邁(こうまい)さ」よりも人間生活の基底にあふれる『卑俗性』を大事とする態度を貫いた。 わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む 「初期詩篇」 父の遺産のなかに数えん夕焼はさむざむとどの畦よりも見ゆ 『空には本』 同じく「父」がキーワードの二首であるが、その詩的な役割がまるで異なる、表現者としての寺山、人間としての寺山が分かち難く、その作品のなかに在ることがよくわかる。 春の暮飯始まれば飯こぼるる 『吹毛集』 皆行方不明の春に我は在り 『冷位』 同じく「春」を季語とする二句。先の寺山の二首が、「父」の役割の振り幅を思わせるのに対して、耕衣の「春」の二句は、むしろ何周か回って 同じ地点に戻るようなおもしろさがある。二句目の「我」は、一句目の家族の食卓で飯をこぼしていた子どもであり、飯をこぼしていた年寄りでもあるのだ。 演劇人であった寺山修司と、禅に傾倒した永田耕衣の違いが反映されているようで興味深い。 いみじくも二つのジャンルの異なった詩歌の本を同時に評するということによって、かえってその表現者の詩質を際立たせた感があり、さらに言えば、藤原龍一郎、仁平勝両氏は、ともにほぼ世代をおなじくする歌人、俳人であるということも興味深いものがあるとわたしは思ったのだった。 今日は「第十三回田中裕明賞」のゲラを午後より読む。 先週のはじめに机の上に置かれて「目を通してください」と言われたまま、手つかずの状態であったのだが、いよいよタイムリミットとなり校正を兼ねて読みはじめた。読みはじめるとおもしろく、いつもながら4人の選考委員(佐藤郁良・関悦史・髙田正子・髙柳克弘)の方たちが句集を丹念に評していることを改めて思う。選考のために多くの時間を費やされたことをも思い、感謝するばかりである。明日中には読み終える予定であるが、雑用がいろいろと入ってくるので午前中はなかなか集中できないのである。 (わたしに時間をくれえー。) 相子智恵さんの受賞のことばがとても良かった。。。 最近購入した3分間の砂時計。
by fragie777
| 2022-09-12 18:41
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