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9月6日(火) 旧暦8月11日
井の頭公園の翡翠。 今年生まれた幼鳥だとおもう。 嘴の先が白く、足などもまだ色が薄い。 もう一羽いたのだが、それもまた幼鳥だと思う。 こちらはお父さんの翡翠だ。 そしてこちらがお母さん。 お互いに仲良く向き合っていた。 二羽一緒のところを写真に撮ったのだが、すべてピンボケだった。(残念) 4日付けの毎日新聞の坪内稔典氏による「季語刻々」に、中村雅樹句集『晨風』より一句とりあげられていた。 露の玉一気に走るときのあり 中村雅樹 坪内さんは、この句を読んで「里芋畑で葉をそっと揺すって露を走らせた」子どもの頃を思い出されたそうである。 いい時間を過ごされたのですね。土の匂いが立ち上ってくるようである。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 212頁 2句組 著者の柏木博(かしわぎ・ひろし)さんは、1937年神戸市須磨区生まれ、現在は奈良県北葛城郡にお住まいである。2004年から朝日新聞の投稿欄で俳句をはじめ、「運河」、「狩」、「幡」を経て、2020年「鷹」に入会、小川軽舟に師事、現在にいたる。 俳人協会会員、奈良県俳句協会会員。本句集は第1句集で2002年から2020年までの18年間の作品を二章にわけて収録、各章を四季別で編集したものである。序文を小川軽舟主宰が寄せている。柏木博さんは、目下闘病中である。そして入会されてすぐにコロナウィルス蔓延の世となってしまい、軽舟主宰はいまだに柏木さんにはお会いすることが叶わずにいる。しかし、軽舟主宰は、作品をとおして知るばかりの著者である柏木博さんへ、エールをこめた懇切なるこころあたたまる序文を寄せておられる。抜粋となるが紹介したい。 二・二六の翌年春に生まれけり 巻頭に置かれた印象的な句である。この句集は戦中戦後の厳しい時代に生まれ育って今日まで生きてきた柏木さんの人生史でもあるのだ。なかでも父が戦争の犠牲になったことは、柏木さんにとって生涯忘れられないことなのだと思う。 雲の峰父の最後の肩車 絶望の白き輝き雲の峰 付いて行く少年の日の銀やんま 父の最後の肩車が、そこから仰いだ雲の峰とともに記憶に焼き付いている。次の絶望の句と合わせ読むと、柏木さんの胸に湧き上がる無念が痛ましい。銀やんまの句は私の好きな句だ。柏木さんの心には今でも少年の日の自分がいるのである。(略) そして、締めくくりに挙げたいのが次の句である。 ざんと水突く寒暁の刀鍛冶 灼熱した刀を水に浸ける焼入れの瞬間だ。「ざんと」の擬音語は単純だが揺るぎない。寒暁の設定もよく、忽ち濛々と水が沸き立つ中に、爛々と目を輝かせた刀鍛冶が現れる。何より惹かれるのはこの句の厳しい声調だ。内容にふさわしいその韻律が、俳句を読む喜びを満喫させてくれる。 そして、「あとがき」に柏木博さんはこう記している。 退職後、大岡信などの著書を読み投句し始めた俳句だが、早や二十年になる。生来の不精で先送りしているうち、突然肝臓癌と宣告され、それも末期だと言われてうろたえた。小川軽舟主宰・先輩のご指導・ご助力により、何とか出版出来そうで心から感謝しています。 このような状況の下に編まれた句集である。担当はPさん。Pさんも柏木さんのお身体を心配しながら句集製作をすすめていたのだった。 Pさんの好きな句をあげてもらった。 二・二六の翌年春に生まれけり 屋根ぶち抜きしガジュマルの炎暑かな 海水帽ピンポン玉のやうに沖 寝ねがての雨ににほひや夜の秋 何を待つのか八月の人の列 老年や息白くもの言ふはかなし 青春はカーテンのなき西日部屋 渡り鳥ゆふぐれの空使ひきる 植木屋と木の話する小春かな 初声や珈琲の香の二階まで 「句集を作っているときに、検査でご入院されたりなど、心配も致しましたが、無事柏木さんに句集を手に取って貰えて喜んで頂けたことが何よりでした。」とPさん。 二・二六の翌年春に生まれけり 巻頭におかれた一句であり、軽舟主宰も序文で、「印象的な句」であり、「柏木さんの人生史」のはじまりの句として受け止めている。この一句は二・二六事件が象徴するそのような時代を背負って生まれたきた我としての認識をまず読者に促す、そういう一句としておかれている。二・二六事件が遠い過去の歴史上の一点ではなく、それが現実のものとしていまなおあり続けるそういう者の句集である、と宣言しているのだ。この認識をもってわたしたちは頁を繰っていくことになる。担当のPさんが、「思い出に骨格のある句集ですよね」といみじくも言っていたが、まさにそうであると思う。その骨格とは何か、それは、戦前の緊迫感や、父をうしない飢餓に苦しんだ戦争体験であり、それらは生の刻印として今をいきる柏木さんの心から消えることはないのである。だから、さりげなく詠んでいるような一句にもおのずとその骨格があらわれてくるのだ。わたしは好きな句が多かった。 何を待つのか八月の人の列 八月がこんなふうに詠まれたことはないのではないだろうか。この作者にとって八月は格別な思いがある。ひとが長い列をつくるのは何も八月にかぎったことではない。そして人は必要があって、長い列をつくるのである。たとえば美味なるものを求めて、あるいは何か必要に迫られて。列をつくって待つという行為には生きるための積極的な理由があるのだと思う。作者は列の理由には興味がないのだ。ただぼんやりとその列を眺めている。人が列をつくってなにかを「待つ」という行為を見ているのだ。八月は死の気配が濃厚な季節でもある。生存の欲求の先にやがて人におとずれるもの。「何を待つのか」という言葉に、作者は無意識に死の予感をかぎとっているのかもしれない。 老年や息白くもの言ふはかなし 「息白し」という季語を巧みに詠みこんだ一句だと思うが、作者の実感であり、作者の悲しみが白い息ととも伝わってくる。老いて生きることは悲しいのだ。誰でも冬の季節にはもの言えば息は白くなる。いわば当たり前のこと。そういうことにさえ、老いを思ってしまうのである。だから悲しいのだ。この句集全般について言えることだけど、「かなし」など感情表現の句においても生の重みがある句集だ。 寝ねがての雨ににほひや夜の秋 「寝ねがての」という上五の古語を活かした表現がとてもいい。しみじみとした情趣のある一句となって、この作者の奥行をおもわせる一句だと思う。こんなときの雨の匂い、それもまた、しっとりと作者をつつみこむ。 石蕗の花母に遠き眼させしこと 「石蕗の花」の黄色があざやかだ。そして「石蕗の花」には、毅然とした趣がある。そんな「石蕗の花」のような品格のあるお母さまだったのだろうと思った。そういう母だから、意にそわぬことをしても、きっと頭ごなしに叱ったりせずに、ふっと淋しげな様子をして遠くをみるのみ。語らない母であるがゆえにその遠き眼が語ったものをわすれずに覚えていたのだ。目の前の凜然として咲く石蕗の花をみて、かつての母の遠き眼が甦ったのだ。 日陰より日向つめたき桜かな この一句も好きである。桜ゆえに納得する。桜というものは本来冷たいものである。花びらも冷たい。そしてその冷たさがよく似合う花だ。日陰では感じられなかった桜の冷たさが、日向にきてふれてみてその冷たさを実感したのだ。この句、桜以外には考えられない一句だ。 句集の題名として二つ考えた。一つは「迦陵頻伽」であり、もう一つは「少国民」で、第二次世界大戦中の軍部が、小学生と下級中学生に軍国主義を徹底し、かつ、空襲に備えて都会の学生を田舎に強制疎開させ、作物栽培などにあたらせるために与えた称号である。 ちなみに、大人に対しては当時「徴用」と呼ばれた軍需産業などの強制労働への狩り出しがある。現に、ひ弱な薬剤師であった私の父などは、栄養不良と重労働に病み、一年もたたずに結核で死んでしまった。遺された私と弟は、母が住込み看護婦として働くため、島根県の海辺の小さな町の、祖母のもとへ預けられた。 飢えから解放され、終戦となり、その町の中学生になった私は、夏休みになると、ブリキで作った特製の水中眼鏡と手製の銛を下げ、一山越えて人気のない小さな浅海の湾にゆく。 銛を持ち、栄螺を入れる袋を腰に下げ海に入る。その、光の届く海底の、色とりどりの小魚や海藻、そして海牛や磯巾着の飽きることのない世界が開ける。『魏志』の「倭人の条」に、「倭は海中に沈没して魚貝をとる」という意の記述があるが、海の中での私の、興奮と安堵を考えれば、祖先ははるか東南アジアあたりから来た渡来人かも知れない。 そして、この対峙するような二語が、少年期の私を形成し、成人となった私を規制しているのかも知れない。 迦陵頻伽とは極楽に住む、美しい声で鳴く鳥とある。 言わば「少国民」の飢えや束縛が象徴する現実と、「迦陵頻伽」の「虚構」であり、「詩」であり、「現実逃避」でもある世界が。 少々退嬰的ではあるが、私は残る生を、この「夢」の世界ですごしたい。 ふたたび「あとがき」を抜粋した。 タイトルの候補の「少国民」と「迦陵頻伽」。 そして、柏木博さんは、「迦陵頻伽」を選ばれたのだった。 本句集の装釘は和兎さん。 「迦陵頻伽」というまぼろしの鳥をどうブックデザインするかはたと悩んだらしい。 そして羽を図案化したのだった。 タイトルはツヤなし金箔。 扉。 赤い花布とグレーの栞紐。 最近の医学の進歩で、私にもう一・二年の余裕があれば、これらの句よりもう少しましな句を数句、作りたいとも思うが、さてどうであろうか。(「あとがき」) 老醜の心な見せそ冬の菊 とても好きな一句である。 「生きてきたことの厚みのある句集でした」とPさん。 わたしもそう思います。
by fragie777
| 2022-09-06 20:01
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