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8月29日(月) 天地始粛(てんちはじめてさむし) 旧暦8月3日
黄花コスモス。 夕日をうけていっそうオレンジである。 この写真をみていたら、急に睡魔におそわれた。 すこし机につっぷして目を閉じていた。。。 しかし、バランスボールに乗っているので、気をつけなくてはいけない。 熟睡などしようものなら、あやうく落っこちそうになる。 油断は禁物。 人生もまた然りである。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 202頁 二句組 著者の山田澪(やまだ・みお)さんは、1935年岡山県美作市生まれ、現在は明石市にお住まいである。1987年俳誌「青」入会、波多野爽波に師事。「青」終刊により1991年「斧」入会、主宰吉本伊智朗逝去により1999年「文」(西野文代代表)入会、「文」終刊により2015年「椋」入会、石田郷子に師事。2020年第11回「椋年間賞」受賞。現在「椋」会員。俳人協会会員。本句集は、これまでの作品を精選収録した第1句集である。序文は石田郷子代表が寄せている。 抜粋して紹介したい。 里神楽指の太きが舞ひ上手 漁舟ぐいと入り来る五月かな 畳屋の土間に転がる梨の芯 藷掘りや先生の笛きらきらす これらの句を生み出すのは、たゆみない写生の実践であり、同時に多作多捨の結果だと思う。 澪さんのこの句集は、まさに大いに作り、大いに捨てた結果の三三五句だと言ってよい。そして、のびのびとした大らかな気質だからこそ、多作にも多捨にも易々と耐えられるのではないだろうか。 ちなみに「多作多捨」とは、澪さんの師であった波多野爽波氏が唱えた作句上の理念であり、遡れば、正岡子規の写生につながってゆくものだと思う。 足音にぱつと散る鮠柿の花 風薫るところ木の花降るところ 花桶のひと先頭に水の秋 豆撒きを待つ子に父の肩車 写生は報告とよく混同されるが、報告は俳句ではない。写生を俳句たらしめるのは、これらの句で言えば「柿の花」「風薫る」「水の秋」など、季語の働きであり、主格を巧みに省いた春鮒釣りの情景や、墓参の人物を「花桶のひと」とした、俳句ならではのレトリックであり、小さな生き物や子どもなどの対象に、作者が傾けた情だろう。これらの作品を見ると、それがよくわかる。 海鳥の声なく群るる彼岸かな 句集名となった一句である。序文にも書かれているように山田澪さんは、海の近くにお住まいである。作者の生活のなかに海はなくてはならないものとしてある。海鳥の声も海の色も海風もあゆるものが日々変化し一つとしておなじものはないのである。そういう暮らしのなかで生まれた俳句である。 この句集の担当は、文己(あやき)さん。 蛇口みな上を向きたる暑さかな 母の日やいちばん小さき母の靴 先生は年下のかた花ユッカ 風薫るところ木の花降るところ 島行きの船に自転車明易し ソーダ水運河の町を見つくして あぢさゐの藍に心のほどけゆく 先生は年下のかた花ユッカ 「花ユッカ」の季語がいい。夏の季語である。なかなか詠むに難しい季語かもしれない。中七下五の調べのリズムがよく、少し硬さのある響きが丁寧なもの言いとなっていて句の内容を自然に裏付ける。「花ユッカ」という季語の用い方が巧みだと思うが、きっとこれは意図的というよりも巧まずしてうまれてきた一句とみた。今ネット上で調べてみたところ、花ユッカの花言葉には、「偉大」とか「颯爽」という意味があって、そう思うとちょっと出来すぎっていうくらい決まっている。年下の先生をこころから尊重・尊敬しているそんな作者の思いが嫌味なく読者につたわる一句だと思う。略歴をみると何人かの師に学んだ山田澪さんである。このたびはじめて年下の師に学ぶその新鮮な思いも籠めての師への挨拶句であるとも思った。 風薫るところ木の花降るところ 初夏の清々しい景をものに即して詠み止めた一句である。風薫る季節には、あちこちで初夏の白い花が咲き出す。えごの花、山法師の花、水木の花など。この句を読んでいるとそれらの木々の葉が風に揺れそこにハラハラと白い花が散る、そんな景が立ち上がってくる。それを多くの言葉を費やさず簡潔に詠みとめた。「ところ」の繰り返しも自然でそして巧みである。「風薫る」という臭覚を呼び起こす季語から、「木の花降る」という視覚的な景へと変換し、それをある一点に集約し映像化させてみせる。しかもたいへんさりげない叙法で詠んでいる。石田郷子代表が「俳句ならではのレトリック」と書いているがほんとうにその通りであると思う。 投函に行くだけの春日傘かな これはわたしの好きな一句である。どうして好きなんだろう。思うにそんなに遠くにポストがあるわけではなく、きっと歩けばよいところにあるのだろう。それでも日傘をさしていく。夏の盛りだったらまあわずかな距離でも日傘をさすっていうことはある。しかし、春日傘である。この一句には、春のうららかな日差しを喜ぶ作者の心が見え隠れしている。日傘をさすということのやや改まった気持ち、そして日傘をさすことによって日常の延長ではない日常を抜け出るような気持があって、そんな気持を大切にしている作者像がみえてきてわたしはそれがとても好きなのかもしれない。春日傘であればこそ、心もあかるくそしてちょっとウキウキするのよねえ。山田澪さま、お気持ちよくわかります。 かたかごの花やいまでもはにかみ屋 この一句も好きだな。「かたかごの花」がとてもいい。「片栗の花」のことだけど、「片栗の花」では「はにかみ屋」が生きてこない。って思う、どうしてかしら。「かたかごのはな」という堅い響きとちょっとつかえるような感じでなめらかにいかない発声に萎縮感があって、「はにかみ屋」さんにはよく合っているんじゃないかなあ。しかも「かたかごの花」って小さな花でいつも俯くように咲いている。そんな花の風情もはにかみに通じるものがある。じつはわたしも「はにかみ屋」なのね。だからこの句すごく好き。ええつ、誰よ、わたしが「はにかみ屋」なんてぜったい信じられない!なんて言っているヤツは。。。そういうお方は人間観察がいま一つですね、って言っておきます。 いささかの梅干して寺しんとあり 「いささかの」が上手いと思う。「家」では普通となってしまうが、「寺」であることによってこの「しんとあり」が一層深い静寂を獲得したと思う。寺ながら梅を干すというその生活感も面白い。しかし、「いささか」であることによって仏門にあることの清潔さのようなものも見えてくる。一句には人の姿は見えず、あくまでも静寂が支配している。 傷の手にものふれやすき時雨かな 校正者のみおさんの好きな句である。手にふれる何もかもに敏感になっている様子が伝わってき ます。 冬菜畑鳥居の影をのせてゐる 校正者の幸香さんの好きな一句。特に惹かれました。 『海鳥』は初めての句集で三三五句を纏めました。 今まで句集のことなど考えていなかったのですが私よりはるかにお若い石田郷子先生にご指導頂くことにより新しい感覚を受け、遅まきながら句集を編む事を考えるようになりました。 郷子先生にお会い出来ました事を大変うれしく思っています。 そして選句と身に余る序文を賜り厚く御礼申し上げます。これからも郷子先生のご指導のもとに俳句を学んでいきたいと思います。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 あの「花ユッカ」の句にあるように、「年下の師」を心から敬愛しておられるのだ。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 海の要素たっぷりの装幀となった。 タイトルはツヤあり金箔。 表紙。 鮮やかな青の見返し。 扉。 まなかひに鰆の頃の海の色 俳句は私たちの拠り所であり、ふるさとである。(序より) 句集上梓後のお気持ちを送ってくださった。 所感 改めて句集『海鳥』の一句一句に目を通すと句の生まれた場所が鮮明に蘇る。 俳句に携わるようになったのは明石に住むようになってからだ。初めての恩師 は「多読多憶」「多作多捨」「写生」を力説されたが、当時の私にはなかなか実 行できなかった。いまだに捨てるほどの俳句は作れないがこの句集を糧に俳句と 向き合って行きたいと思っている。 山田 澪さん 明石丸住吉丸に寒明くる 山田 澪 明石丸も住吉丸もきっと山田澪さんにとっては日常の親しい漁船なのでしょうね。 風船葛の花。
by fragie777
| 2022-08-29 19:15
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