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8月24日(水) 旧暦7月27日
稲の花。 谷保の里山である。 今年見られたのが嬉しい。 稲穂の匂いがあたりを支配していた。 あたたかな懐かしいような匂い。。。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 170頁 二句組 俳人・岸本尚毅さんの第六句集となる。 前句集『小』以後の作品を収録した新句集である。巻末の初句索引を付している。 句集名は「雲は友」。 風は歌雲は友なる墓洗ふ に拠るが、本句集には雲を詠んだ句もおおく、句集のカバーの裏には雲を詠みこんだ俳句が15句紹介されていて、さまざまな雲が詠まれていることがわかり、雲がいかにこの俳人にとって親しいものであるか、わたしたち読者はおのずと知るところとなる。岸本さんって背の高い方なので、雲にいちだんと親しさを覚えるのかも知れないなんてわたしは思った。へんかな。。。 本句集の担当は文己さん。 何淋しとてにほどりの淋しさは きよらかに茶の塵浮かぶ新茶かな ひねもすや好きで眺めて小判草 椅子と人友の如くに日向ぼこ 吹けば飛ぶやうなる犬と初詣 絵の外に我立つてゐる涅槃かな 埼玉は草餅うまし雲白し 緑蔭や音が聞こえて風が来る 大切な黄な粉飛ばすな扇風機 文己さんの好きな句であるが、最初随分たくさんの句を選んでいてしぼってもらったのだった。 絵の外に我立つてゐる涅槃かな 涅槃図をながめている状況か。この句の面白さというか不思議さは、「絵の外に」という上5である。「絵の前に」とか「絵の横に」とかだったらわかる。「絵の外」とはどういうことだろう。ということは作者の意識のなかに「絵の内」があるということだ。それは目の前の絵が「涅槃」というものであることに起因するのだろう。涅槃図というのは釈迦入滅に際して、生あるものたちがそこに集い嘆き悲しむさまを描いたものである。この俳句の作者にとって、その涅槃図はそこに参加し得ないものとしてあり、さらにいえば「外に立つ」ものとしての我がいるということである。しかも、涅槃図に対して「外に立つ」という意識をもっている我がいて、さらにその場面を見つめているもう一人の我が見えてくるのである。「涅槃」というものへの時空的な距離以上に意識的な距離をどこかに感じている作者がみえてくる。それは複雑な感情を伴っているようにわたしには思えるのだ。「外」は、永遠にそこに入り込めないものとしてある。 埼玉は草餅うまし雲白し これってわたしも好きな一句である。なぜって高校性まで埼玉県人だったからね。埼玉って関東地方の県のなかで一番特徴がない面白みのない県って言われてきた。たしかにそう言われてみるとこれって特徴がない。しかし、この一句は埼玉という地名が抜群に効いていると思う。たしかに草餅は美味い。郷里の秩父でもよく食べた。作者もたまたま埼玉県のある土地にいって草餅を食べたのだろう。そして美味さにびっくりした。そこで上五を「埼玉は」とおおきく括ったところがところがさすがである。この句「雲白し」がいい。草餅のうまさを俄然引き立てる。埼玉といえば「草餅」というくらい決定的な一句となった。この句によって「草餅の埼玉」として、埼玉県もグレードを上げてほしいな。草餅でというところがいいじゃないですか。 顔焦げしこの鯛焼に消費税 これはわたしの好きな一句。たくさんの良い句があるなかで食べ物の句ばかりをとりあげて恐縮であるが、笑ってしまった一句である。「顔焦げし」とあってちょっと惨めなかわいそうな鯛焼である。鯛焼を買ったところ、そんな鯛焼きを手渡された。そしてしっかり「消費税」も払わされた。鯛焼きにしっぽがあるごとく、消費税もしっかり付いてくる。岸本尚毅さんの句にはこんな風に俳諧味たっぷりの俳句もあるが、そのユーモアも文体のリズムの良さで嫌味なく爽やかに笑えるものが多い。全体たのしく拝読したが、「佐川の女ヤマトの男春の風」にも笑った。さらりとこんな句を一句つくってみせる、まさに岸本さんならではと思う。 秋の雲子供の上を行く途中 この句もいい。「春の雲」でも「夏雲」でも「冬の雲」でもなく、やはりここは「秋の雲」だ。よく晴れた青空と白い雲がみえてくる。空も澄んで高い。そうなると秋しかない。子どもたちと秋の雲との距離、それも爽やかで清々しい。なんとしてもいいのが、下五の「行く途中」である。子ども(たち)も大手を振ってあるいていく、そのはるか上を子どもに歩調を合わせるがごとく雲も動いている。雲も子どももどこかをめざしていることを楽しんでいるようだ。その雲と子どもを眺めている作者のまた秋の爽やかさを心から楽しんでいるのだ。 校正のみおさんは、「日向ぼこって確かにこんな感じとも思うのですが、呼んでいるうちに不思議なおかしみも湧いてきます。何度でも味わいたい句です。」と次の一句を。 立つてゐる人を眺めて日向ぼこ 校正の幸香さんが特に惹かれた句は、 水澄むや日暮に似たる雨あがり 本句集をつらぬくものは写生の現場にたつ人間の存在である。 わたしはかつて出版社勤務のときに岸本尚毅さんの第1句集『鶏頭』を編集担当したのであるが、今回たまたまその第1句集の「あとがき」を読む機会があった。当時は夢中で、書かれていることを味わうこともできなかったのであるが、今回読んで驚いたのだった。 それを抜粋して紹介したい。 人間はいつも意味の世界に安住している。意味の世界の中では、人間は主人公であり神である。しかし、人間も死んだら灰になり土になる。意味の世界から物の世界へ連れ戻されるのだ。だから、物の世界は怖い。物の世界では、地位も名誉も何も無い。人間はただの有機体だ。宇宙と時間の中に漂う塵のようなものだ。 動物や植物は、この物の世界の只中にあって実に生き生きと存在している。その生まれ滅ぶ姿は切ないほど美しい。 私の俳句はいま述べたような意味で、生命への讃歌であると同時に、意味の世界から物の世界を覗いてみようとする試みである。 俳句を作っているときも作らぬときも、自然に対して謙虚でありたい。究極的には神への畏敬を忘れてはならないと思う。 この「あとがき」が書かれたのが岸本さん25歳のとき、1986年であるからすでに36年の年月が経っている。驚くべきことは、岸本尚毅さんの作句姿勢が一貫して変わっていないということだ。「物の世界は怖い。」というこの一節に岸本尚毅の俳句への思いが集約されているように思う。だから、岸本さんは俳句をつくるとき必ず物の世界の現場に立って俳句をつくるのだ。 この句集の装釘は、和兎さん。 タイトルは金色のインク。 金箔を用いてというのが初案だったが、わたしは金箔にしたくなく、金のインクで刷ってもらうことを和兎さんに納得してもらった。 金箔では普通になってしまう、なぜかそんな風に思えたのだった。 わたしの一方的なこだわりなのだけど。。(わかってもらえなくてもいいわ。) 背もタイトルは金刷り。 表紙。 還暦を過ぎた。遠からず「高齢者」となる。 「老人」という言葉がある。何となく突き放したような感じがする。そのため、これまではその言葉を避けてきた。 今回の句集では、自分が老人に近づいたので、いくばくかの親しみを込めて「老人」という言葉を使ってみた。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 「老人」(?)になられてもフットワークよく、岸本尚毅さんは俳句を作りつづけていかれるだろう。 ほかに 歩く人月の光が手に膝に 沈む日のいつまでもある冬木かな 石鹸玉寝そべる人に当りもし いつまでも末の子いとし武具飾る D A N G E R と描くT シヤツや老涼し 行く道は帰る道なり芋嵐 夜の花のその枝長し雲に沿ふ 指ひろげ一切を知る守宮かな 這ふ蟻に熟柿の皮の裂目あり ・1冊をおまとめになってみて改めて感じたこと、見えてきたもの 馬齢を重ねるにつれて、句の読み手としての能力が徐々に向上する。 その結果、作者としての自分に対して、読者としての自分がますますワガマ マになる。 ・これからの俳句活動、方向性について 句の出来不出来を気にせずに、引き続き、ノホホンと句を作る。 ・この句集に込めた思い 制作途中に父が亡くなり、納骨のため、父が生前に自ら用意していた墓の掃除をしました。 「風は歌雲は友なる墓洗ふ」という句で思い描いた場面が現実のものとなりました。 お父さまが亡くなられたのですね。大変ななかでの句集上梓となられたのでした。 「句の出来不出来を気にせずに、引き続き、ノホホンと句を作る。」すごくいいですね。 「雲は友」という句集名は、妻である俳人岩田由美さんの最新句集『雲なつかし』とも響き合っている。 すこし前に飯能駅でみあげた雲。
by fragie777
| 2022-08-24 20:34
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