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7月28日(木) 土潤溽書(つちるおうてむしあつし) 旧暦6月30日
(おお、まさに夏雲!」と思って運転中の信号待ちのときに撮った一枚。 朝の甲州街道である。 つくづくと夏雲である。 暑い一日となった。 昼食を買いに出かけただけでも、歩くのがつらいくらい。 そんな暑いなかを、今日は京都より詩人の河津聖恵さんがご来社くださった。 ここ数日国立にあるご実家にいらしたついでに、ふらんす堂にも立ち寄ってくださったのだ。 「うわー、素敵なお仕事場ですねー」とふらんす堂にいらっしゃるやいなやの河津さんのひと言。 「あれ、はじめてですか?」 「はい、ここははじめてです。」 そうか、前にご来社くださったときは、古い仕事場だったのだ。 河津聖恵さんは、ことしの2月にふらんす堂より詩集『綵歌』を上梓されている。 江戸の絵師・若冲の作品をモチーフに自身の詩のことばによって作品世界をつくりあげた詩集である。 若冲の生きた十八世紀と私の生きる二十一世紀が浸透し合うような、不思議な時空の感覚。それらをそのまま詩の言葉によって生捕りにしたい─ という「詩の欲望」によって書かれた詩集である。 いろいろと新聞や詩誌などで詩集はとりあげられ、ブログでも紹介をしてきたが、さらに今日はその一部をもってご来社くださった。 「私の絵について書け、私を書け」と彼女を誘ってやまなかった「若冲」とは、一体何なのか。個々の作品と対話する。個々の作品の時空を生きる、経験することが「詩」の根本にあり、そこから鮮やかな若冲の色と形が、美と生命の秘密が手繰り寄せられる。従って私自身も河津さんが触れている個々の作品を生き直さざるをえない。 今日ご持参くださった詩誌「潮流詩派」(実はふらんす堂にもご寄贈いただいている)で、『綵歌』評(「空虚と充溢ー河津聖恵詩集『綵歌』への注釈)を書いておられる水島英己氏の文章から抜粋した。。 今日は、この詩集刊行以後の詩人河津聖恵の今後のヴィジョンなども伺えたらと思っていた。 スタッフPさんは、河津聖恵さんのTwitterを読んでいるらしく、河津さんにお目にかかったら提案してみたいことがあるという。 河津さんにあるテーマにもとづいて、詩を書いていただけないか、ということらしい。 そのテーマとは、「他者」。 これは、Pさん自身においても目下大切なテーマであるということ。 「他者」とはなにか。 それを語り出すと、つきないらしいが、いまの文学的傾向としていや文学のみならず、「自己への収斂」がある。 しかし、「他者」を問題とすることは、当然自己へとかえっていくことだ。 わたしにとって「他者」とは何か、とは、つまり「自己」とは何か、につきあたることだ。 Pさんが河津さんに話し始めると、河津さんはたいへん興味深そうにうなずきながら聞いておられる。 若冲に出会った河津さんにはいま詩心をひかれるものが、いや人がいるという。 若冲の延長戦上にみえてきたひとりの俳人に興味をおぼえているという。 こう書けば、この俳人が誰か察しがつくひともおられると思う。 その俳人をテーマにしながら、この「他者」という問題に向き会えないだろうか、、、 ふっと、河津さんは、そんな言葉を口にされた。 河津聖恵さん。 「今日来てよかったです。詩を書くことの新しい方向性があるのではないか、そんなことも見えてきました」と河津聖恵さん。 そして、「わたしは俳句は作りませんが、俳句には興味があります」と。 俳人の八田木枯が好きな河津聖恵さんである。 すこし前の「ふらんす堂通信164号」誌上にて、「八田木枯論」を書いていただいた。 「二重の空虚、未曾有の自由」と題したそれは、河津さんでなければ書けない秀逸な「木枯論」だったと思う。 仙川のおむすび屋さんの壁にあった絵。 おもしろい。。。。
by fragie777
| 2022-07-28 19:39
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