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7月26日(火) 旧暦6月28日
鬼野老はヤマイモにそっくりであるそうだが、食べると毒があるとのこと。 だから「鬼」を冠しているのかな。 朝出社すると机の上に何かおいてある。 マンゴーのドライフルーツである。 昨日まで夏休みをとって、友人とタイ旅行をしていたスタッフPさんのお土産である。 全員の机にひとつずつ、ハンドクリームなどと一緒においてある。 ほかにも、 キャラメルのお土産。 フルーツキャラメルであり、ココナッツやパイン、マンゴーなどといっしょにドリアンもあるらしい。 「どれがドリアン?」って言いながら、わたしたちはドリアンを狙ったのであるけれど、わたしはドリアンそのものを食べたことがないので、よくわからない。。。 いくつか食べてみたがどれも美味しかった。 Pさん、タイ旅行はとても楽しかったようねっ。 新刊紹介をしたい。 凍蝶の棲む石かぎりなく硬し 本句集の最後に一句のみでおかれた句であり、タイトルとなった一句である。 四六判ソフトカバー装帯あり、クータ―バインディング製本 192頁 二句組 著者の片山一行(かたやま・いっこう)さんは、1953年愛媛県宇和島市生まれ、現在も愛媛県伊予郡にお住まいである。詩から出発された片山さんにはすでに三冊の詩集がある。俳句は、2009年「湯島句会」に参加、2011年「銀漢」同人、2018年「麦」入会、2019年「麦」同人。2020年には「麦」新人賞を受賞。日本詩人クラブ、日本現代詩人会、俳人協会、現代俳句協会のそれぞれの会員である。本句集は、第1句集で、序を「銀漢」主宰の伊藤伊那男氏、跋を「麦」主宰の対馬康子氏が寄せている。 伊藤伊那男氏の序文の冒頭の3行が、片山一行さんについて端的に語っている。 片山一行氏は、従来の俳句の概念に囚われない独創性のある詩の世界を持った人である。もともとは近代詩、現代詩から出発し、すでに三冊の詩集を出している。短歌にも造詣が深い。 「短歌にも造詣が深い」とあるが、本句集は全体を四つにわけて構成されており、それぞれの小タイトルの裏には短歌が一首おかれている。たとえば、「Ⅱ 月蝕の土」と中扉のある裏側には「抽斗に古き切手の貼り付いて 時間の海が重くのたうつ」と短歌がおかれている。 片山一行さんは、俳人協会と現代俳句協会に所属し、俳誌「銀漢」と俳誌「麦」の同人である。俳句の方法論をことにするそれぞれの結社に所属しておられる。そして「銀漢」主宰の伊藤氏、「麦」主宰の対馬氏それぞれが片山一行という俳人のありようをあたたかく見つめその志向するものを深いところで理解しておられるということが、それぞれの序・跋を読むとよくわかる。お二人ともたくさんの句をあげながら、丁寧な鑑賞をよせておられるのでそれらを紹介したいところであるが、ここではほんの少しの抜粋になってしまうことをおゆるしいたたきたい。 飛ぶときは飴色になる蚊喰鳥 鮟鱇の鉤のみ残る魚市場 涅槃会にうすくらがりを呼び寄せる 虎落笛死者は生者を支へると 対象物を写生に立脚した独特の感覚で切り取り、読後に透明感のある詩情が残る。(略) 鋭い感性と抑制した鮮烈な抒情があり、片山一行俳句の真骨頂がここにある。写生と心象の「均衡と調和」があり、ストライクゾーンのまさに真ん中に位置する句群であると、私は思っている。(伊藤伊那男) 袖口の奥はまつくら月の雨 ふきのたう地球の底に海あると 星ひとつづつ消すやうに雛用意 くらやみの電車は花に吸ひ込まる ことばを伝統的に使いながら、常に超現実の世界に飛翔しようとするその微妙な均衡感覚が特徴的です。(略) 言葉を概念を表すものとして使うのではなく、作者の内面を具象化させる超言語のように使おうとする姿勢が見られます。創られた言語空間は成長を続け、閉じられないまま永遠に詩の謎を語りかけてくるのです。(対馬康子) 本句集には、著者によるながい「あとがき」が付いている。まずはその「あとがき」の一部を紹介しておきたい。 なぜ、傾向の異なる二つの結社に所属しているか。それは季語や写生を忘れたくないからであり、その基本の上に現代俳句もあると思っているからだ。また「詩的であること」を大切にしたいから、「詩語として季語を使う」ことも意識している。リズムも重要視し、無意味な破調は極力使わない。 著者の弁である。 とまれ、本句集はそういった予備知識なしにまずは俳句が読まれることを望んでいるとおもう。わたしたち読者は、俳句をたのしむ心で本書を開いていきたいと想う。 本句集の担当は、Pさん。 本棚の広き抜きあと春兆す 初蝶や海見るときの海の揺れ 人の死のあつまつてくる師走かな 波音は耳のうしろに髪洗ふ 角砂糖まるく崩れてゐる小春 鉄棒の光を舐めてゐる毛虫 Pさんの好きな句を抜粋した。 波音は耳のうしろに髪洗ふ 一見とてもわかりやすそうな一句である。「髪を洗っていると、耳のうしろの方で波音がした」とこう散文的に書いてしまうと、詩にならない。しかし、ほんとうにそういう感覚なんだろうかって、この一句をみつめていると、なんだか違うような落ち着かない気持になる。どうしてだろう。。まず冒頭に波音がするのだ。それは作者の後ろ側から聞こえてくる。海を背にしているのだろう。そして作者はいま髪を洗っている只中である。ふと想うのだ。水を存分に使いながら髪をあらっている作者にはたして波音が聞こえるのだろうかと。しかし、この一句、髪をあらっている水音よりもはるかに波音のほうが迫ってくるそんなことを感じさせる一句である。それは「耳のうしろに」という措辞であるゆえだと想うのだ。「波音を背(そびら)に」とかであれば、髪をあらう作者と海原の距離感は平穏であるが、この一句、「耳のうしろに」とあることで、恐竜のように海が作者のすぐ背後に迫ってきているそんな不穏感をよびおこし、読者を不安にさせるのである。読む度に落ち着かなくなってくる。。。そういえば、作者は「あとがき」でこんなことを書いていた。「そんな経緯もあり」私にとって海は明るくきらきらしたものではなく、「後悔」にも似た苦いものを含んでいた。」ここで詠まれている波音も決してやすらかなものではない、とわたしは想う。 鉄棒の光を舐めてゐる毛虫 この一句は私も面白いとおもった。「毛虫」が季語であるが、鉄棒にいる毛虫である。ただそれを描写している一句のように想えるが、「鉄棒の光を舐めて」で詩が生まれた。まだ新しい鉄棒なんだろうか、よく光っている。しかし、古いさびのある鉄棒でもいいかもしれない。こちらは鈍い光だ。いずれにしても、その鈍き光を放つ鉄棒のうえを毛虫が遅遅と進んでいるのだろう。毛虫はあまた俳句に詠まれてきたが、鉄棒の光を舐めている毛虫を詠んだのはこの一句がはじめてだと思う。毛虫が光を舐めるという発想は鉄棒の上にしてはじめて現実のものとなった。 朝寝して枕の深き窪みかな とてもわかりやすい一句である。この句集の作者にしては、ジャブのような一句かもしれない。実は今日わたしは大いなる朝寝坊をした。しまったと思ったときはすでに時計はわたしを置き去りにしていた。で、わたしは「枕の深き窪み」に見入ったかというと、とんでもない、枕などわたしの世界には存在していなかった。きっとベッドの片隅においやらていたであろう。くぼんでいたか、わたしにすっ飛ばされてひしゃげていたか、そんなことは知ったことでない。自分の寝あとなど一瞥もせずに「たいへんだ、寝坊しちゃったよ」って叫びながら飛び起きて三秒ほどぼんやりして階下に駆け下りたのだった。この一句、「朝寝して」とはじまりそれからがとてもいいではないですか。自身のつけた枕の窪みを眺めているのである。朝寝しても慌てることもなく、それによってできた窪みを「窪みかな」なんて詠嘆をして。なんとよき一日のはじまりだろか。人間はこうでなくっちゃ。俳句ってこういうことも感慨深く詠めちゃうからすき。作者にとっては枕の窪みも愛おしいものなんだろうなあ。 パリ祭の海をてのひらにて掬ふ これも面白い一句である。そして不思議な感慨を呼び起こす一句でもある。どこかへんだ。「海をてのひらにて掬ふ」といっても、つまりは海水を手で掬ったことであるが、「海」とあると掬っている人間の眼に青い海がひらけてくる。そしてそれがどんな海かというと、「パリ祭」の海であるという。「パリ祭」とはフランスの7月14日の革命井記念日を祝う祭りだ。だから「パリ祭の海」とは正確にいえば「パリ祭の日の海」ということだろうけれどそれじゃ詩にならない。「パリ祭の海」とすることによって、時と空間を一挙に自身の眼前によびこみ、そしてその海の水を素手てすくうのだ。パリ祭という作者に特別な感興をよびおこすものの日であり、その日に作者は海にやってきたのだろう。だから眼の前の海は単なる海ではなく、特別ななにか。なのだ。 三伏の鯉の背中の深き傷 対馬康子氏が跋文で、片山さんのことを、「常に超現実の世界に飛翔しようとするその微妙な均衡感覚がある」と書かれていて、よくその詩質を捉えておられるとおもったのだが、そういう句がおおいなかでこういう一句もに出会うとこの句集の幅のひろさを思う。というか、なんとなくホッとする。わたしは好きな一句だ。「三伏」がいいし、描写だけしているのもいいし、最後におかれたことによって「傷」がさらに痛々しい。しかし、鯉は極暑のなかでしぶとく生きているのだ。突き放すような叙法がいい。 第一句集である本書のタイトル─ 「凍蝶の石」は、 凍蝶の棲む石かぎりなく硬し に拠った。凍蝶は私の好きな季語のひとつである。 艶やかで自由な蝶も、自然の中では「弱者」に分類される。卵から成虫になる間にも、鳥や虫に襲われ続ける。そして凍蝶は、多くが越年できない。だが河原などの石でじっと動かない凍蝶も、蝶のひとつの〝姿〟である。 自然が少なくなった今でも、ごくまれに凍蝶を見かけることがある。それは決して美しくはないが、命を感じる一瞬である。じっとして動かなくても、蝶は確かに生きているのだ。暗く光る鱗粉。妖しさ。石を棲家としているがゆえの冷たさ。鋼鉄のように硬い石。そこに流れる悠久の時間。吹く風に抗う翅が揺れる─ 。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 著者の片山一行さんのこだわりを、さすが君嶋さんである。 とてもスタイリッシュに装幀化した。 カバーのタイトルは艶消し銀箔。 用紙はカバー、帯、見返し、すべて同じ用紙でシンプルにまとめた。 テーマ色は紺。 表紙。 紺色の用紙に銀色で印刷。 クータ-の色は赤。 赤色がほのかに見えるところがおしゃれである。 本文用紙は白系のもの。紺色に清潔にみせるため。 都会的かつスマートにして瀟洒な一冊となった。 蜃気楼その先海の落ちるらし 句集上梓後のお気持ちをうかがった。 片山一行氏。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? まず、シックな装幀に感動しました。 自分の俳句が活字になることの「重さ」も感じました。 そして、伊藤伊那男先生と対馬康子先生の序跋の豪華さ。まさに身に余る思い。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 何と言っても、俳句は「詩」であること! これを心がけました。 詩である以上、まず「抒情性」を大切にしたいと思っています。詩語として季語を使うこと、17音の韻律にも気をつけています。 また、俳人協会の「銀漢」、現代俳句協会の「麦」という真逆の結社に属していますので、両者の「いい点」を汲み上げるように心がけました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 「俳句は人生の上ずみ」(伊藤伊那男先生)と言われます。 俳人協会、現代俳句協会、そして長年続けている現代詩……さらに見よう見まねでやっている「短歌」――これらをミックスさせた片山一行ならではの独自の短詩型文学に向けて精進したいです。 もちろん、軸足は「俳句」に置きながら「表現者」を目指したい! 句集製作の途中、おけがをされて担当のPさんをはじめわたしたちは随分心配をしたのだった。 しかし、それもよくなられたご様子である。 片山一行さま 句集のご上梓、まことにおめでとうございます。 お身体ご無理をなさいませんように。 このブログを書いていたら、仁平勝さんより電話をいただいた。 執筆していただいた『永田耕衣の百句』についての反響などを聞きながらすこしおしゃべりをしたのだった。 「仁平さんに執筆をお願いして良かったでしょう。わたし自分を褒めてやりたい」って図図しくも言ってしまった。 電話をきるときに、仁平さん、 「特急乗り過ごしてはだめだよ」って笑いながら言うの。 「あらあ、もう、まったくお恥ずかしい」ってわたし。 石田郷子さんの家の玄関の蚊取り線香。
by fragie777
| 2022-07-26 21:13
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