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7月7日(木) 小暑 七夕 旧暦6月9日
昨夜の府中競馬場におけるローリング・ストーンズ結成60周年の花火大会。 府中競馬場駅前をおりるとそのまま競馬場へとつながる。 わたしはこの競馬場ははじめてである。 名馬オグリキャップの催展などをやっているようだ。 オグリキャップは葦毛の名馬だった。 たしか寺山修司が好きだったのではないかしら。 金色の馬に迎えられる。 さすが武蔵野である。 欅などをはじめとして大きな樹木が多い。 なかなか美しい建物だ。 はじまる前の空。 だんだんと人が集まってきた。 わたしたちはこの一角でケバブを食べビールを飲みながら、はじまりを待つ。 いよいよはじまる。 ローリング・ストーンズの曲にあわせて花火があがるのだ。 音楽と花火を満喫した夏の一夕となった。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 一句組 132頁 著者の小栗しづゑ(おぐり・しづえ)さんは、昭和17年(1942)生まれ、現在は東京豊島区在住。俳句歴は長く、40年余となられるという。結社には所属されず主にNHK学園が主催する通信講座やオープンスクールで学んで来られたが、平成15年(2003)よりは、ふらんす堂主催の「ふらんす堂句会片山由美子教室」に参加され熱心に俳句を学んで来られた。80歳になられるの機に句集を作りたいと思われた小栗しづゑさんは、句会担当のPさんに相談をされたのである。そして、いくつかのやりとりののち、講師である片山由美子氏の序文をいただくこともでき、祝福された第1句集の記念すべき刊行となった。最初は尻込みをされていた小栗しづゑさんであったが、出来上がった本を手にされたときは本当に喜ばれたのだった。 片山由美子氏は、本句集に心の籠もった丁寧な序文を寄せておられる。たくさんの句をとりあげて、一句一句に鑑賞をされているのであるが、ここではその一部の抜粋を紹介するにとどめることをおゆるしいただきたい。 小栗しづゑさんは、新宿の俳句文学館で行っている「ふらんす堂句会」に長年参加してくださっている。この句会がいつ始まったのか、選者を務める私の記憶が定かではないが、小栗さんの初参加は平成十五年というのだから、ほとんど二十年にわたるお付き合いということになる。もの静かで、余分なことは言わないが、メンバーと打ち解けて句会を楽しまれているようだ。(略) この度、長年にわたる作品を拝見して、俳句が小栗さんにぴったり寄り添っているのを感じた。 ひと雨ののち紅白の梅そろひ 咲き満ちて枝に余白や冬桜 噴水の一気に力抜きにけり 百段の最後に仰ぐ雲の峰 秋深し表札の無き両隣 アンとなりアリスとなりて冬籠 小栗さんの俳句の魅力は向日性にあると思う。表現が明快で、読む人の心を明るくしてくれる。 本句集の担当はPさん。 小栗さんに相談をいただいた時から、出来上がりまでを担当した。出来上がったときはPさんも感慨深かったようだ。 削除キー押し春愁と決別す 若竹や青の時代は一途にて 死に至るまで見てしまひ蟻地獄 蚯蚓鳴く出口の見えぬ暗さかな ふるさとのものを俎板始かな Pさんの好きな句をあげた。 削除キー押し春愁と決別す 面白い一句だ。多分というかきっとパソコンの削除キーのことだ。思い切って何かを消し去ったのだ。そこには文字が記されていて、それの内容と春愁が関わっていたのかそうでないのかはわからない。わたしが勝手に推測するに多分、春愁とはまったく関係ないことの内容ようにおもえる。しかし、作者はともかくパソコン上の画面に映し出されているものを削除したいと思ったのだ。まず、削除をするという決断があった。で、キイをつよくたたいて削除した。その行為をとおして「春愁と訣別」しようっと思ったのだ。あるいは、訣別するために、削除キーを思いっきり押したのか、その辺の経緯は微妙である。ともかくも、胸の鬱屈から解放されたいという思いがあったのである。それを「削除キー」を押すという行為と結びつけたことが面白いし、それで春愁から解放されるの?なんて思う人もいるかもしれないが、この一句を読むと、見事に立ち直った作者が見えてくる。とわたしは思うのだ。 若竹や青の時代は一途にて この句は片山由美子氏も序文でとりあげて鑑賞をしている。「「青の時代」がポイントである。ピカソを思わせ、生命力の象徴のような「若竹」と付き過ぎと感じさせなくもない。しかし、「青の時代は一途にて」といわれると、若竹のみずみずしさが決して邪魔にならない。」と。無駄な言葉はなくて、俳句の形式を十全に活かした作品だ。後半のイ音の重なりのひびきが俳句を引き締めながら余韻を与えている。 旧姓の母の名のある曝書かな なんと古い一冊であることか。つまり母上の結婚する前の名前が書かれた本を虫干ししているのである。お母さまが愛読をされた本をもらい受け、ずっと大事にしてきたものか。黄ばみかび臭くなっている本、久しぶりに手にとってそこに娘時代の母親が自身で名前を書き入れた字を見つけたのだ。懐かしさをとおりこした一種の感動のようなものに捉えられたと思う。自分の旧姓を一冊の本に見つけたときだって、ある懐かしさがこみ上げてくるのに、それが母親のものだとしたら、母に出会ったというよりも、自分の知らない一人の少女に出会ったという思いではないだろうか。その古びた本をとおして自分のしらない女性が立ち上がってくる。ふと思ったのだが、紙の本はふるびていく。それを読んだ人の痕跡を残しながら。しかし、電子書籍はバグることはあっても古びることはない。読んだ人の痕跡も残さない。古びていくものが語るもの、それが失われてしまう世界となったら、、、、ああ、いやだ。 アンとなりアリスとなりて冬籠 この一句、好きである。「文学少女だったに違いない小栗さんを想像させる楽しい作品。」と片山由美子氏。小栗しづゑさんは、寒いときに出かけられなくなってもすこしも退屈しないのである。少女時代に読んだ「赤毛のアン」や「不思議の国のアリス」はいまでも古びることなく友人のようにありつづけるのである。古びることのないのは、アンやアリスでなく、小栗しづゑさんの心なのかもしれない。わたしはこのブログによく書くようにわたしの中にに少女を飼っているので、この一句はものすごくわかる。(わたしの場合、ちょっとお行儀のよくない少女だけれど)。「子ども時代が幸せだった人間は一生幸せである」と言った哲学者がいたが、小栗しづゑさんは、きっと幸せで豊かな子ども時代をすごされたのだろう。と思った。 何事も三日坊主で長続きしなかった私が四十余年も継続しているものが俳句です。ある日、村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」に出会い、人生にも通じる深いものを詠むことも出来ると知りました。NHK学園通信講座受講の後、NHK学園オープンスクール鷹羽教室を受講し、益々、俳句に魅せられて行きました。鷹羽狩行先生の俳句を知るうちに一字一句変えられない完璧さに感心致しました。 その後、平成十五年十月、ふらんす堂句会に初参加しました。私などの来るべきレベルのところでは無いとあきらめかけましたが、片山由美子先生の優しいお手紙のお蔭で継続することが出来、現在に至っております。(略) 句集名「下枝」は、七人きょうだいの末っ子であり、本名が「しづえ」、そして、いつまで経っても下枝に咲く花という思いで決めました。 句集の編纂に関わりご尽力を賜りました全ての皆様に心より感謝申し上げます。 人生最大の記念となりました。厚く御礼を申し上げます。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 気品のある一冊となった。 扉。 一句組ですっきりとして読みやすい。 この八月で小栗さんは八十歳になられるという。句集の誕生と併せて、お祝いを申しあげたい。 どうぞこれからもお元気で句作を続けてください。(序文より) 下枝なほ蕾ひかへて夏椿 由美子 小栗しづゑさんに句集上梓後のお気持ちをうかがってみた。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 上品でお洒落で素敵な句集を心より気に入りました。沢山の人から上品という声が一番多かったです。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 人生の最晩年になって、自分が一番夢中になれたもの、輝けたものは、俳句なので、私の形見とするものは、これしか無いと思いました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 今まで通り、背伸びせず、自分らしい句作を心掛け、その中から誰かの心に残る一句が授かれば幸いです。 小栗しづゑさん。 短夜や王女と新聞記者の恋 しづゑ オードリー・ヘップバーンの映画「ローマの休日」がお好きなのですね。小栗しづゑさま。 わたしも好きです。
by fragie777
| 2022-07-07 19:09
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