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6月28日(火) 旧暦5月30日
葉の影が幹の裏よりまはり来て樟(くす)の木は夏の午後となりたり 大辻隆弘 今日これから紹介する大辻隆弘歌集『樟の窓』に収録されている一首である。「8月18日 休暇明け」とある。 今日の写真は、この歌集のために「樟」の写真をアップ。 これは6月はじめの風景。 ご近所の丸池公園にある大きな樟(くすのき)の林。 樟は常緑樹であるので、いつも緑を絶やすことはない。 こちらは6月末の樟。 なかにはいると冷たくてしいんとしている。 そしてときどき鳥がやってくる。 むかって左側には大きな芝生がひろがっていて、冬はあたたかな日差しに満ち、春夏秋冬をとわず恰好の遊び場である。 こんな風に人間も鴨も樟の下が大好きである。 新刊紹介をしたい。 四六判変型ハードカバー装帯り 392頁 歌集『樟の窓』は、歌人・大辻隆弘(おおつじ・たかひろ)(1960年生)の第9歌集である。 本歌集は、2021年1月1日から12月31日までふらんす堂のホームページの「短歌日記」に連載されたものを1冊にしたものである。 「短歌日記」であるので、文章との取り合わせとして読ませる「短歌日記」もあるのだが、本書は文章に当たる部分はメモ書き(詞書き?)程度にとどめ、あくまで短歌によって日々を読んでいくという意図のもとに編集されたものである。わたしは始めから終わりまで読んでそう思った。そしてその日々の短歌を読むことによって、わたしたち読者は十分に大辻隆弘という歌人の豊かな日常生活を知ることができるのである。それほど、短歌という形式が大辻隆弘の肉体のすみずみまで浸透し、日常の微細な部分がごく自然に短歌の韻律をとおしてわたしたちの心に届くのである。 わたしはこの歌集を読みながらおもわず笑ってしまったことがなんべんもある。というのは、生活のある場面のある瞬間をみごとに短歌にしてしまうのである。 ひえっ、こんなことまで短歌にしちゃうのかって。たとえば、たくさんある中からいくつか例をあげると、 わが髪はもしや夏草、ドライヤーのターボボタンを押せば靡きて 「二月四日 浴後」 わが腕の臂から下がわが膝のうへに落ちたり午後の電車に 「七月二十二日 微睡」 おそらくは長月半ば、垂らしたるわが腕(ただむき)を打つ銀の針 「七月二十九日 一回目の接種予約」 ダルビッシュ、即ち修道僧の謂(いひ)にして貧せる者といふに由来す 「九月四日 連敗」 曲率を帯びたるは美(は )し灯(ともしび)の下にかがよふ匙も白磁も 「十月十四日 卓」 やはらかなお湯が根こそぎ毛根を洗つてくれると言はれて買ひぬ 「十一月十二日 シャワーヘッドを換へた」 指とゆび組みあはせ目を閉ぢてをり歯科医の椅子のうへにわれは死者 「十二月十五日 佐藤歯科」 日常の些事をかくも格調高く短歌のしらべにのせて作品化する。ユーモラスにかつ大まじめでなんだって短歌にしちゃうのである。そこには言語表現者としてのすぐれた技量もつ詩人としての大辻隆弘がいる。この歌人の世界は清潔な詩情にみち、複眼的な視点によって構築されたゆたかな世界をわたしたちに見せてくれる。さりげなく詠まれた一首一首は細心なレトリックによって生み出されたものだ。 担当のPさんが、月ごとに好きな短歌をあげているので、紹介したい。(詞書きは省略します) 01.01 夢のなかを歩める鷺がひとつづつ夜明けの夢を滅ぼしてゆく 02.26 眠いよなあとつぶやくだらう樹に言葉が、仮に言葉があつたとしたら 03.18 膝下りて夜半の湯舟に坐るときふたつ海嶺のごときわが膝 05.23 水でさへしづかに水に濡れてゆく雨だ、けさから降りやまぬのは 06.08 湖が内湖を捨ててゆつくりと北上をするやうな別れだ 07.10 過去が詩を呼ぶのだ、不意に開かれた郵便受けがずぶ濡れてゐる 08.14 大いなる手があらはれて緘黙の声のミュートを解(ほど)かむとせり 09.17 クリスティンどこにゐるのといふ声がフードコートに響く夕どき 10.17 深秋の空は暗むとおもふまで青の彩度のきはまる午前 11.01 蘖の穂に射すひかりうつくしく十一月は死者多き月 12.19 衰へてゆくのならそれもよからむに玄帝といふ昏き皇(すめろぎ) 眠いよなあとつぶやくだらう樹に言葉が、仮に言葉があつたとしたら 「芽吹き」という詞書きがある。芽吹きの季節は、「水温む」という季語もあるごとく、森羅万象が冬の緊張感から解き放たれてゆるんでくる季節だ。人間の体も緩んできて、この季節、やたらと眠くなる。木々も寒さの呪縛から解かれて芽吹きがはじまる。大辻さんの短歌にはいろんな木が登場する。タイトルとなった樟のみならず、欅、水楢、柿の木、櫨、無花果、朴、くろだも、等々、きっと大辻さんの身近にある木々なのだろう。そして大辻さんという歌人は木がすきな人であるとみた。わたしも木が好き。好きな木は触ったり頬を寄せたり、ある時は言葉をかけたりしちゃう、人がそばにいないときだけど。。きっと大辻さんもそれに近い人なんだろうっておもった。芽吹きはじめた木々をみて風景の一点景としてやり過ごす人ではなく、木がそこにあることににシンパシーを感じる人だ。そして、それらの木は単なる木としてのひとくくりではなく、樟であり、欅であり、水楢などそれぞれ固有の木であるのだ。その木が大辻さんをしばし立ち止まらせたのである。自身の肉体と木が感応しているのだ。そして、ふと言葉があれば、と思ったのである。ええっと、こんなときは木肌に耳をあててこころ静かにしていると、ふっと言葉が聞こえてくるかもしれませんことよ。大辻さま。 膝下りて夜半の湯舟に坐るときふたつ海嶺のごときわが膝 この短歌も実はちょっと笑ってしまった。つまりは、湯船につかるために膝を折って腰をおろしたときに膝小僧が目にとまった、ということでしょ。それを丁寧に詠んでこんな風に短歌にしてしまったのである。しかし、「海嶺」でこうぐっと目が開かれた、とどめを刺されたという感じ。わたしは仕事柄、短歌をよむことより俳句の作品を詠むことが多いので、たとえば、「柚子風呂に浸す五体の蝶番」という川崎展宏の俳句があってそれを思いだしたのだけれど、こちらもお風呂にはいっている自身の身体のひとつの発見を詠んでいる場面である。川崎展宏の俳句が、やや突き放すような感じがあるのに対して、大辻さんのこの一首は、わが膝と言い止めることによって自身の肉体への愛おしさを感じさせる。そうしてこの歌をなんどか繰り返して読んでみると、やはり短歌というのは韻律によって成立している定型詩なのだと思う。無理のないしらべによってここに組み込まれたことばひとつひとつが読み手のこころにたたみかけるように届いてそして「やわらかに「わが膝」で着地する。お風呂にはいってみつめた裸の膝小僧がなんと詩情ふかく立ち上がってくることよ。その韻律情報が大辻隆弘の肉体には、埋め込まれていてあらゆることが無理なく(みえるのだが)短歌となるのである。それをつよく思う。 新たなる職場は樟(くす)が風に鳴る下影にわが車を駐めて 「4月6日 再任用、週三日勤務」と詞書きがある一首。そして「樟」を読んだ一首である。いままでの職場を定年退職をされて、新しい職場が決まった。そこには大きな樟がありそれに心が止まった。その樟を読んだのである、。好きな歌である。樟は大樹が多い。その下影に車をとめるくらだから大きな木だろう。白洲正子さんの著書によれば「霊木として古くから尊ばれていた」とあり「日本書紀にも樟で創った船のことが記してあり」「縄文遺跡からも丸き船が発掘されることがある」ということだ。語源は「奇(くす)しき」なんですと。そうなのか。しかし、そういうことはこの短歌を読むにはあまり必要でなくて、樟が風に鳴るというのがとても気持よさそうであり、その下に車が止められるというのも、広々とした場所のある新しい職場で、なんとも環境がよさそうである。なにより木が好きな(?)大辻さんには嬉しい職場であるのではないか。そんなやや心躍る気持が、この一首から感じられる。あたらしい職場について、まず樟の葉騒に耳を澄ますというのも素敵である。この一首のあとに「樟(くす)の葉の濃き影ゆれてそのひだり欅(けやき)のあはき翳がさはやぐ」という短歌もあり、なんと進路指導室からは樟だけでなく、欅も見えるのである。それらの木々の様も目に入ってくる。樟の常緑樹の影は濃く、欅の落葉樹の葉影はまだ淡い。そんな木々の違いをするどく捉え、かつ目にたのしみながら一首にする。 たくさん好きな歌はあるのだけれど、やはり木に関する短歌一首を。 櫨(はぜ)の木の木下に揺るるはつなつの陽の斑(ふ )を踏んで逢ひにゆきけり 「6月18日 思慕」とある。恋歌か。そして登場するのが、「櫨の木」である。「櫨」ってとどんな木だっけって一瞬おもったが、秋に真っ赤に紅葉する「櫨紅葉」の櫨である。「逢ひにゆきけり」までの措辞がすべて「櫨」にかかわることというのが、いい。「陽の斑を踏んで」というところにひたむきな眼差しが見えてくる。恋歌にも、木を登場させる大辻さんである。「思慕」とあるが、それも暗く重たい感情ではなく、ストイックに秘めた思いなのかもしれない。ここんとこは私ごのみかな。。。 この歌集は、二〇二一年の一年間、「ふらんす堂」のホームページに連載した「短歌日記」をもとにして編んだものです。私にとって九冊目の歌集になります。 二〇二一年三月三十一日、私は三十六年間つとめた三重県の県立学校の教諭を定年退職しました。その四月から自宅近くの高校で週三日間、再任用の教諭として働いています。居室の進路指導室の前にどっしりした古い樟の木があり、重く鳴る葉の音やしたたり落ちる雨音を聞きながら日々をすごしました。「樟の窓」という歌集の題名はそこからつけたものです。 新型コロナウイルスの猛威はこの年もおさまらず、日本は第三波から第五波まで三度にわたる感染拡大に襲われました。この歌集の歌々は第六波がやってくる直前で終わっています。短歌関連の集まりの多くが中止になり、こころ塞ぐことも多い日々でしたが、私自身について言えば、案外静かな日々であったような気もします。今まで読めなかった長い小説を読む楽しみも知りました。 この一年、毎日一首以上の歌を作ろうと思い、自分を励ましてきました。すぐやってくる締め切りを意識しながら、深夜、その日起こった出来事を反芻する。その体験はとても豊かで楽しいものでした。私はつくづく歌が好きなのだと再確認しました。 「あとがき」である。 「私はつくづく歌が好きなのだ」という一文に出会って、ああ、やっぱりとおおいに納得した。だってこんな風になんでも短歌にしてしまうということ、そうできてしまうということの根幹にあるものは、「短歌が好き」ということ以外にはなにもない。この歌集を読みはじめて、この方は短歌をつくることがきっとすきなんだろうなあって実は思いながら読んだのだった。そうしてこの「あとがき」に出会ってやはり!って膝を叩いた。 短歌を読む楽しさを存分に味わえる1冊である。とわたしは思う。 本歌集の装釘は和兎さん。 シックな一冊になった。 グレーのマーブル模様の用紙を扉以外にすべて用いた。 樟の模様は、ツヤ消しの銀箔。 花布は緑と白のツートン。 スビンは、白。 カバーをとった表紙。 角背。 表紙にも樟の模様。 見返し。 扉。 見出し。 本文レイアウトの細部に至るまで、 大辻先生の細やかな神経が行き届いた一冊です。 フォントの太さ、位置、大きさ、曜日の有無、前書き、そして作品すべてに「大辻隆弘」という歌人の息づかいを感じていただけます。 静かで豊かな365日です。 と担当のPさん。 大辻隆弘さんは、岡井隆を師とする歌人である。本歌集にも岡井隆が出て来る。 わたしが好きなのは次の一首。「夢」とある「11月13日」のもの。 死んだのに、死んでゐるのに売店で烏賊さうめんを購(か )ふ岡井さん 大辻さんは、歌集の評も短歌でしてしまう。12月18日づけの「土屋文明全歌集」とある一首。 大甘に見ても「自流泉」あたりまで文明の史的意義をいふなら ときどきクスリって笑いながら詠んだ歌集であると書いたら大辻さんに叱られてしまうかしら。しかし、その笑いも歌人・大辻隆弘のすべては計らいのうちにあるって思っている。 本歌集には、翡翠も何度か登場する。嬉しい。。大辻さんが住まわれている近くにも翡翠がいるらしい。そのうちの一首。「9月23日 祓川」 背の筋の青あたらしき翡翠(かはせみ) はこの夏巣立ちしたるわかもの この一首は、わたしの翡翠のための一首でもある。
by fragie777
| 2022-06-28 21:42
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