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6月26日(日) 菖蒲華(あやめはなさく) 旧暦5月28日
合歓の花にとまるクロアゲハ。 この合歓の花にはたくさんのクロアゲハがいた。 こちらば、風に吹かれる合歓の花。 大きくたわみ地にとどかんばかりであった。 それにしても暑い。 で、 わたしときたらなんてイカレタ女なのだろうと、笑ってしまった。 というのは、「暑中お見舞い」をはやばやと口にしたのはいいが、だいたい「暑中お見舞い」というのは梅雨があけてからのご挨拶である。 梅雨もあけていないのに、能天気に「暑中お見舞い」なんて、ね。 スゲー、恥ずかしい。 けど、 ブログに書いたものはこのままにしておこうと思った。 「恥を知れ!」って自戒のために。 ![]() でも厚顔無恥だから、おなじことを繰り返すと思う。 今日は昼過ぎより仕事場にて仕事をしている。 自転車でやってきて、途中で自転車屋さんに立ち寄って自転車に空気をいれて、それから「島忠」によって猫のグッズと日焼け止めクリームを購入。 図書新聞「7月2日発売)に掲載された書評を紹介しておきたい。 詩人かつ文筆家の奥間埜乃氏による河津聖恵詩集『綵歌』評である。 河津さんが「詩集のすがたを精緻に描きだしてくれた素晴らしい書評で、嬉しかったです。」とメールを下さったように、深く読み込んだ筆力のあるものだ。 タイトルは「ここにはない何かへ近づくアプローチ――『絵師の物語』を蘇らせようとする河津聖恵の〈かたり〉の力」。 抜粋となってしまうが、紹介したい。 「ここにはない何か(太字に傍点)についてかたることはむずかしい。詩人・河津聖恵の新書『綵歌』(ふらんす堂、2022・2)はここにはない何か(太字に傍点)へ向けた投壜として繊細に精巧につくられた詩集である。(略)なにより特筆したいのは、このように本書『綵歌』について語ろうとする者はおのずと若冲を語ることへシフトするという事実だ。詩集名や解説文に留まらず、若冲の作品名が明示される各詩篇タイトル、さらに若冲の作品図版や巻末の略年譜の掲載によって本詩集が強く浮かび上がらせようとするのは、やはり伊藤若冲の存在そのものである。(略)それは「絵師の物語」を甦らせようとする河津聖恵の〈かたり〉の力である。そう、この一冊の特徴そして最大の魅力は詩篇の〈かたり〉に立ち上る「絵師」の息遣いであり、その前面に押し出される河津の「絵師」の活写に魅了されるからこそ、伊藤若冲そしてその画がただの材にとどまっていないことがわかる。 そして奥間氏は、ここで「若冲」という名の由来を詩集『綵歌」のなかの詩篇「欠けることで盈ちる者の名」より言及し、「真に満ち足りているものは空虚に見えても、その働きは尽きることがない」という意のこの言はいわば詩集『綵歌』のありようを示しているかもしれない」と書く。また、若冲の数少ない情報から、「若冲が心血注いだ『神気』という概念は重要になる」と述べ、河津さんの本詩集における「解説」のそれについての部分「そこにはつねに、鮮やかな『神気』あふれる絵に詩を触発されようとする自分がいました。」を引用して、「神気」という言葉をキイワードに評をすすめていく。 (略)「神気」とは、動植物や無機質な岩石にいたるまで生き物が内に秘めているとされる、若冲が写生の核としたものである。透徹した観察を通して知りうるとされるその「神気」を表象の核と言い換えてみれば、河津が「鮮やかな『神気』あふれる絵に詩を触発されようとする自分がいました」と述べる箇所は、「神気」の体得に傾注した若冲自身の「神気」を今度は河津が詩篇の核として感じとろうとする二重性を思わせる。この二重性が『綵歌』の魅力ではないだろうか。それは言語作品の根源的なありかたである。 (略) 伊藤若冲の「神気」へマトリックスとしての「正絵」を敷いた「絵師の物語」を丁寧に辿る本書は、ここにはない何か(太字傍点)を描き出そうとする〈かたり〉の力そのものであり、かつ詩こそがここにはない何か(太字傍点)へ近づくアプローチであることを鮮やかに浮かび上がらせている。 丹念によまれた400字詰め原稿用紙7枚におよぶ書評である。乱暴な引用となってしまったことはお許しいただきたい。 今日は、ブログを早めにアップ。 これから家に戻ります。 ヨーグルトを買うことを忘れないようにしよう。 帰りは仙川に沿っていこう。 ほかの場所でもかるがもの子がうまれているかもしれないしさ。 そして、 丸池公園まで行こうかな。。。。 仙川のカラスたち。 ここは好きな場所なようだ。
by fragie777
| 2022-06-26 17:38
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