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6月10日(金) 旧暦5月12日
今朝は仕事場まで紫陽花の旅をしながら向かう。 いろんな家で紫陽花を咲かせている。 薔薇と紫陽花はこの辺の家では定番なのかもしれない。 曇り日に咲く紫陽花の花の下青年の蛇は埋められゐむ 前 登志夫 新刊紹介をしたい。 四六判フランス製本カバー装帯有り 206頁 2句組 著者の荒井慈(あらい・めぐみ)さんは、1942年滋賀県生まれ、現在は神奈川県藤沢市在住。1994年「春燈」入会。成瀬櫻桃子、鈴木榮子、安立公彦に師事。「春燈」同人、俳人協会会員。本句集に、安立公彦主宰が序句と帯文と帯裏の12句抄出を、俳句の先輩である三上程子氏が跋文を寄せている。 俳諧の道ひとすぢや寒明くる 公 彦 以下は、三上程子氏の跋文より抜粋して紹介したい。 十三詣母とわたりし渡月橋 住職のオルガンひびく花御堂 白蓮や法衣の父の在るごとし こよなく愛し誇りに思っている近江で生まれ育った。父上は浄土宗の住職で、長女である慈さんは御両親の愛情のもと何不自由なく、すくすくと育ったに違いない。 京都女子大学を卒業し、大成建設へ就職する。そこで出会った男性が現在の夫君である。結婚すると同時に、寺の娘からカトリック信者に替わる。その苦しみは尋常ではなかったろうが、夫君に従う気持は変わらなかった。 リラ冷えや胸にクルスのある安堵 空蟬 やイエスの衣縫ひ目なし 凍蝶の懺悔の翅をたたみけり 洗礼名マリアをいただき、敬虔な信者として清く明るく、病んでいる人、困っている人には必ず「お祈りしていますよ」と声をかける慈さんの姿は印象的である。作品も自ずと誠実で芳潤な味となっている。(略) しっかりと信仰心を持ち、八十歳を迎える慈さんのこれからが楽しみである。 万太郎忌ことばの芸の果てしなき 本句集の担当は、文己さん。 筍を仏師の顔で剥きにけり 新涼や心通へる友の文秋の風鈴人の心に寄り添へり 大鯉のゆるりと春の刻まはす 喪心に添ふ白藤の翳りかな 文己さんの心に残った句である。 秋の風鈴人の心に寄り添へり 文己さんは、こうやってみると季語と心の関係が緊密な句が好きなことがわかる。「秋の風鈴」の一句は、わたしもよくわかる一句である。この一句で面白いのは、「音」が心に「寄り添う」とまるで生きているかのように叙していることだ。「風鈴」は夏の季語で、その音は涼しさを呼ぶが、「秋の風鈴」は、やはり淋しい。しまい忘れてしまった秋の風鈴である。おもはずも風鈴が鳴って、その音に気づく。そしてそっとしみじみと心に中に入り込んできたのである。あるいは、この時の作者は心におおきな悲しみを抱えていたのかもしれない。夏に鳴る風鈴以上に、その存在感の大きさを知ったのである。 梅真白けぢめ大事に生きにけり これはわたしの好きな一句である。安立公彦主宰も12句に抄出している。輪郭を際立たせて咲く白梅の清潔なさまをみて、「けぢめ大事に生き」ている我を見いだし、そしてその心根は、まさに白梅の白さに通いあっている。という感慨だ。「けぢめ大事」っていいじゃないですか。本句集の著者の荒井慈さんの人生にとって、大きな「けじめ」が迫られたことがある。浄土宗の寺に生まれ、仏への信仰心を養われてこられた荒井慈さんであるが、結婚することによってカトリック信徒に改宗をされるのである。これば抜き差しならない出来事であり、大きな決断を迫られたことだろう。「けじめ」を大事にする作者は、そこをあやふやにはなさらなかった。そして現在は熱心なカトリック信者として生きておられるのである。 母の呼ぶ声より暮るる里の秋 郷愁を呼び起こす一句である。これは作者の思い出の一句なのだろうか。山里でさんざん夢中になって遊んでいた子どもたち、すると自分の名前を呼ぶ母の声がする。(お母さんが呼んでいる…もうそんな時間になったんだ。)とすでに暮れ始めている空をながめる。母の声によって夕暮れに気づかされることを「声より暮るる」とした表現が巧みである。「里の秋」であることによって、広やかな田舎の自然の風景もみえてくる。たまらないほどノスタルジーをかき立てる一句だ。ああ、母親が呼んでくれる子ども時代に戻りたい。。。。 よき旅の終りの髪を洗ひけり これは校正スタッフのみおさんが好きな一句である。「旅の心地よい疲労感が伝わってきます。」とみおさん。わたしも好きな一句で同感である。「よき旅」とあるだけで、旅についての情報はない。作者の心はたっぷりと満足している。旅の終わりということだから、また旅の途上ではあるのだ。いよいよ明日は帰途につく、ゆったりとした気持で髪を洗ってさっぱりし良き思い出をかかえて日常へと戻っていこう、こんな解説はまったく以て余計だって書いていて思った。この五七五で作者の状況と心情は言い表されている。「髪を洗う」が夏の季語だから夏旅である。そのこともすべてこの一句で言い得ている。いい句だ。 蛍袋しまひ込んでも出る涙 これは校正スタッフの幸香さんが好きな一句。蛍袋ってふっくらとしているから何かをしまえそうだけれど、残念、下を向いて咲いているので、しまうことはできない。だから、この「しまひ込んでも出る」は涙にかかるのよね、きっと。それでも、わたしはなにか鬱屈した思いやかなしい心の内を蛍袋のなかに閉じこめてしまいたい思いにかられるときがある。(このyamaokaでもさ)そしてこの涙。だらだらと流れる涙というより、ふっくらと湧く涙っていう感じがする。それはやはりこの蛍袋が呼び起こすものだ。蛍袋のまえでふくよかなあたたかそうな涙を出している(涙を流すのではく)人、思うにあんまり悲しそうでなく思えるのでやはり蛍袋だからか。。 旧約聖書のコヘレトに「時と人間の幸福」について「天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みには、その時がある」と記されています。 このたび、句集『仙人掌の花』上梓の時を賜り、傘寿の良き記念となりました。 僧侶であった父の三十一回忌の六月十五日の朝、今まで咲いたことがなかった鉢植えの仙人掌が一輪、マーガレットのような可憐な白い花をつけました。 小学生の頃、算盤、アルファベット、オルガン、百人一首とたくさんの事を父に教わりました。 句集の上木への意欲をわきたたせるための父からのエールが、あの一輪の仙人掌の花であったと、有り難く思っています。 み仏の慈しみの一字で「めぐみ」という名をいただき、結婚を機にカトリックの洗礼を受け、クリスチャンとしての日々を生かされています。 俳句を詠むことで、自然と触れ合い、創造主である神と出会い、新しい自分を発見するのです。 師久保田万太郎の「俳句は着物の縫いとりのようなもので、表から見ると、美しい縫いとりも、裏側では糸が錯綜している。出来上っ表から裏側の糸の広がりが想像できるような俳句でなければならない」という教えを心に深く刻み、これからも自分探しの俳句を楽しんで行きたいと願っています。 「あとがき」を紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 荒井慈さんは、この濃いグリーンの色がご希望だった。 カバーをとった表紙。 見返し。 扉。 キトラ古墳玄武の亀の鳴きにけり それぞれの句に宿る、「俳句のこころ」を、しっかりと感じた。(安立公彦・帯) 上梓後の所感を送ってくださった。 待望の句集『仙人掌の花』が届きました。 早速我が家の祭壇にお捧げしました。何度も手に取って目を通しています。一句ずつのその時々を、なつかしい人々を思いながら。読む度に好きになってゆく句集になりました。 大変な作業でしたが、支え導いて下さった、横尾様、君嶋様、桐山様、市原様みな様のお陰で、忘れられない一生の宝物となりました。 神様に守られて、無事『仙人掌の花』が誕生致しました。 山岡様のおっしゃった通り、祝福された句集になりました。ありがとうございました。 荒井慈さん(右)跋文を寄せられた三上程子さんと。 (3月15日にご来社のときのもの) 仙人掌の花自分が好きになりにけり 荒井 慈 この日、わたしはこれらを目の前にして、カツサンドにパクついていた。
by fragie777
| 2022-06-10 19:28
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