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6月5日(日) 環境の日 旧暦5月7日
今日は後藤比奈夫先生の忌日である。 2年前の今日亡くなられた。 享年103。 現役俳人としての生をまっとうされたのだった。 粽より酸素が好きで百三つ 比奈夫 という句を残して。 生前に比奈夫先生からたくさんの色紙をいただいている。 ふらんす堂にいつも飾られているのは、 女手に社運華やぐ涼しさよ 比奈夫 ふらんす堂へのはなむけの言葉である。 掲句は、いただいている色紙のなかでも特に好きなものである。 人の世をやさしと思ふ花菜漬 比奈夫 句集『祇園守』所収のものである。 この句について、比奈夫先生はふらんす堂刊行の『シリーズ自句自解ベスト100後藤比奈夫』でつぎのように自解をしておられる。 茨木公民館での「つのくに会」という夜の会。この日は著莪の花、虎杖、紙風船などが出ていた。その夜も他の結社の女流が二人見えていた。お誘いしてわけではないが、私のいわばファン。私もその人たちの作に注目していた。そんな雰囲気の中で、京都へ出張の帰途出席した句友が、土産という花菜漬をもたらした。花菜漬がとてもやさしいものに見え、人々の心根のやさしさが身に入みた。そして何となくこの一句。 この一句を見ていると、ささくれだっている心がやんわりとあたたかな思いにつつまれるようで、気持ちのいい句である。前のふらんす堂の仕事場の玄関にこの色紙を飾っておいたところ、宅急便のお兄さんがこの色紙をみて、「なんて読むんですか? どういう意味ですか」と聞いたことがあった。たまたまその場に居合わせたyamaokaは、出来る範囲で説明を申し上げたような気がするがきっと十全ではなかっただろう。しかし、お兄さん、色紙をじいっと見て感じ入ったように「ああ、そういうことなんですか」と言って立ち去ったのだった。玄関の色紙はその後いろいろなものに変えられたが、宅配のお兄さんの足をとめたのはあとにもさきにもこの色紙の一句のみであった。 このことを比奈夫先生にお話しようと思いながらとうとうお話することがなかったのである。 以下、夏の句より 空間に端居時間に端居かな 風鈴の音の中なる夕ごころ 水中花にも花了りたきこころ 白魚汲みたくさんの目を汲みにけり 虹の足とは不確に美しき 夏潮に雨は一粒づつ刺さる 心さしかけぬ日傘で足りぬ分 滝の面をわが魂の駈け上る 美しき臍を持ち寄りたる祭 ヨットにはある青春の息づかひ 俳句を作るには写生の技法を使うのが一番間違いない。その写生のために、対象を選び、発想の仕方を定め、表現の言葉を選ぶ。全て心が感じ頭が働かなければ出来ない作業である。にも拘らず出来上った作品に主観の匂いがしてはいけないというのが虚子の客観写生である。とすれば私はもっと俳句を論ずるのに、心を大切にするのが当然と思うようになった。そして「俳句は心で作って心を消し去るもの」というのが現在の私流の客観写生の方法。客観写生の説明に過ぎないのだが、心を少し明るみに出してやろうという試み。 一方、対象となる物の心と物の姿ではどちらが先か、ということになると、客観写生の立場からは、やはり心より姿が先であろう。物の姿を心をこめて見ていると、物の姿が次第にはっきりし、物の姿の向うにある物の心に作者の心が感応し始める。あるいは逆に作者の心が物の姿を通して物に乗り移り、物の心となって物の姿を介して、再び作者の心に戻って一体となると考えてもよい。いわば物心一如(ぶっしんいちにょ)の世界。写生の醍醐味といえよう。山川草木万物有情(ばんぶつうじょう)の精神は、このようにして生まれてくるものである。そういった心の交流までも、物の姿だけに託して描くのが、客観写生の全うな方法だと、今も私は信じつづけてい。 (『シリーズ自句自解ベスト100後藤比奈夫』「俳句 このむつかしいも」より) 今日は国立・矢川緑地を友人たちとあるく。 これは白紫陽花であるが、紫陽花がそれぞれ色づきはじめている。 色がはじまるころの紫陽花はどれもいい。 青葦や藺の花が風にふかれていた。
by fragie777
| 2022-06-05 19:24
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