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6月1日(水) 衣替え(更衣) 旧暦5月3日
今日から6月である。 歩いて仕事場へ。 栗の花がいまは見事である。 朝風におおいに吹かれている栗の花。 栗の花二人が逢えば朽ち始む 堀井春一郎 栗の花照れど曇れど水うまき 石橋辰之助 わたしは郷里を秩父とする田舎の出身であるにもかかわらず、栗の花をそれと認識したのはそれほど古くない。 要するに全然知らなかったのである。 秩父市内の住宅街に住んで、母の育てている薔薇や蘭や牡丹など、そういう園芸種の派手な花に囲まれて深窓のお嬢さんとして育ったのである(?!)。 信じられないでしょ。こんなにガサツなヤツなのに。 あまり外に出かけることもなく、家ん中でゴロゴロして本ばかり読んでいた。(だからゴロゴロするのは得意) いまは野をあるくことがすっかり好きな人間となって、栗の花が咲いていればたちどまって「ああ、栗の花!」なあんて見あげるのである。 道端に咲く小さな花にも心をとめる、そんな人間にもなりつつある。 わたしの場合、これを進化としたい。 というわけで、栗の花にも気づいたのだった。 どっちかというと渋い花よね。 俳人たちが好んで詠む花かもしれない。 さて、新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯なし 104頁 2首組 著者の白樫万帆(しらかし・まほ)さんは、と、こう書いて実は、著者の情報をほとんど知らないのである。本書には、そういう意味で著者についての情報は一切載っていない。滋賀県のある市にお住まいということは書いてもさしつかえないと思うが、作者がそのことを明記していない以上、詳しく記すことはできない。生年も記しておられない。メールもなさらず、もっぱら携帯電話でのやりとりでお仕事をすすめたのだった。それもなかなかつかまらず、この歌集のタイトルの「風が旅へと駆り立てる」が象徴するように、あるいは旅をされること多い方なのか。それも定かではない。 本歌集も、冊数をできるだけ少なくして、知人友人の方のみに差し上げるというもの。 歌集を拝読しても、この方の暮らしぶりや生活の細部はほとんど詠まず、自然の景をそしてそこに生きる動植物を読み、ご自身の心情を重ね併せるというもの。 本歌集の題名が「風が旅へと駆り立てる」とあるように、本歌集を読まれた読者に「旅心」がうまれるよう、旅へと誘っているのかもしれない。 わが心あくがれいづる旅の空風の鳴りつつ吹く空の果て 白梅の夜の朧にしっとりと香る人肌の明るさに咲く 夏の闇心臓きらり光らせてさそり座輝く南の空に この生は漂泊をしつ更けゆきぬ空を吹きゆく風きりもなし 担当の文己さんが好きな短歌である。 わが心あくがれいづる旅の空風の鳴りつつ吹く空の果て この歌集のタイトルの所以かもしれない一首。本歌集には、「風」がいたるところに吹いている。「風」の歌集とも言っていいくらい。「この生は漂泊をしつ更けゆきぬ空を吹きゆく風きりもなし 」という一首もあるように、つまりは「漂泊者」としての短歌なのである。定住することよりも漂泊者としてありつづける。作者のこころは、人間社会には向けられていない。初めから終わりまで通して読んでみて、他者が出て来る場面は一度もなかたと思う。つねに自然と向き合う作者がいるのみである。ああ、どんな方なんだろう。わたしは、二度ほどお電話ではなしたきり。担当の文己さんも、携帯の電話メールでの会話が主だったらしいので、声はそれほど聞いていないかもしれない。しかし、作者はそういう詮索を望んではいないのだ。作者の身体は自然の風光を敏感に感じ取って、森羅万象に五感が反応する。それを一首として作品化しているのである。 冬曇りさびしき枝に鵯の声を聞きつつ山を行く旅 これは校正スタッフのみおさんが好きな一首。「特に好きです。モノクロの世界が浮かんできます。」と。たしかに色のない寂しい風景だ。どちらかというと日頃はけたたましい鵯の声もここでは、さびしさを呼び起こす。そんな景色のなかをそれでも旅をする作者がいる。「さびしき枝」がリアルである。 木枯らしに吹かれて木の葉放浪すたどりつくのはどこでもよくて この句は、校正スタッフの幸香さんが「惹かれた一首」であると。これもまた漂泊の心存分の一首である。さしずめ木枯らしに吹かれている木の葉はご自身のことかもしれない。そう、目的の明瞭な旅ではないのである。まずは風に誘われて旅に出てみる。そしてあれこれと心のまま、いや風がみちびくままに旅をはじめたものの、どこに行きたいというはっきりした思いもないのである。放浪するままにどこかにたどりつく、それでいい。とこう書いてきて、いやはや現実にそのような旅をされているのか、まさか、あくまで短歌でそのように自身の思を詠ってみること、その心情をひとつの作品にしてみること、そこに白樫万帆さんの短歌をつくる意味があるのではないか、と私は勝手に思ったりしたのだった。 幻のようなこの世に雪は降り山に己に雪は積もりつ これはわたしの好きな一首である。「幻のようなこの世」なのである、作者にとって現世は。しかし、その幻のような世であっても、確かに雪は降る。目の前の山にもそしてわたし自身にも。それは幻ではなく、現実なのだ。この一首において、作者にとって、「幻のようなこの世」であることが大切なのか、それとも「雪が降り」「積もる」ことが大切なのか、わたしは「雪が降る」ことの方が一大事(?)なのではないか、それを一首にしたかったのではないか、と思った。「幻のようなこの世」は、確かにそういう風にいえるかもしれないが、ここではひとつのレトリックであって、あくまで自身の上に降り積もる雪を詠いたかったのではないか。山も己も振りつもる雪に耐えるものとして詠んでいる。 着飾れるソロモンよりも美しき濃き紫に咲く野のすみれ この一首は、新約聖書の「マタイによる福音書」の第6章29節を踏まえた短歌である。イエスの山上の垂訓のなかのよく知られた言葉である。「野の花がどうして育っているか考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾っていなかった」とイエスが語る、わたしはとりわけ好きな箇所であるが、実は、白状するとやや心苦しい箇所である。朝起きてクローゼットを開けて(今日はなにを着ようかな)ってあれこれ悩むのは嫌いじゃない。そして、ああこんなジャケットがあったらいいのにとか、こんなブラウスも欲しいとか、数すくなくない洋服をまえにして欲望はかぎりなく膨らんでくる。そんな時、決まってと言うほど、このイエスの言葉「野の花を見よ」が浮かんできてしまう。そして、(ああ、神さまごめんなさい)と言って、今ああるもので妥協するのである。作者の白樫さんは、きっと、そういう俗世には体重をかけておられないようだから、「着飾れるソロモン」とはならず、「野のすみれ」たらんとされる方だろう。聖句を巧みに取り込んで一首にされたと思う。 本歌集の装幀は君嶋真理子さん。 この歌集が出来上がってきたとき、思わずなんて感じのいい仕上がり!ってわたしは声をあげてしまった。 嫌味のない、瀟洒な1冊となった。 金箔の文字も美しい。 カバーをとった表紙。 出来上がったときに作者の白樫万帆さんのお声を聞きたったが、なにしろ謎の人である。 いつかお会いしてみたいな。 一生は遊行のごとし吹き渡る風に魂冴え返りつつ この一首が、白樫万帆さんのすべてを語っているように思われる。 送っていただいている俳誌のなかの「古志」(大谷弘至主宰)6月号の「お知らせ」覧で、長井亜紀さんが亡くなられたことを知り愕然とした。 長井亜紀さんが闘病をされていたことは存じ上げていたが、よもや亡くなるとは。、。。 長井亜紀さんは、2年前の2020年の夏に句集『夏へ』をふらんす堂より刊行されている。 句集のご相談にご来社もされているのだ。 1968年生まれであるからまだ54歳の若さである。 同じく古志の同人である関根千方さんにお話をすこし伺うことができた。 亡くなったのは、5月5日の子どもの日であるということ。 その少し前に「入院をします」という連絡が長井さんからあったということである。 それまではオンラインによる句会には参加されていたご様子だ。 三人のお子さんのお母さんであった長井亜紀さんは、句集『夏へ』でたくさんの子どもの句を詠まれている。 蚕豆やどの子も莢にねむらせん やはらかきところで抱く裸の子 たまはりし小さないのち雲の峰 そして「古志」6月号の表紙裏の大谷弘至選による「今月の十句」には、次の一句が選ばれていた。 静けさや部屋いつぱいの雛祭 長井亜紀 お子さんたちと最後となった雛祭りを楽しまれたのだろうか。 子どもの日に逝かれたというのが、いかにも長井亜紀さんらしい。 ご冥福をこころよりお祈り申し上げます。 句集『夏へ』
by fragie777
| 2022-06-01 19:17
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Comments(1)
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https://pouchs.jp/couple/sex/375SX
だそうです...................................
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