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5月30日(月) 旧暦5月1日
今日は「蛾」の写真をアップします。 嫌いな方は、「蛾」の写真のところだけ目をつむってください。 でも、とても美しい蛾ですのよ。 神代水生植物園に咲いていた睡蓮。 そばで軽鴨がじいっとしていた。 今朝は歩いて仕事場に向かう。 途中で、美しい蛾を見た。 写真などでは見たことがあるが、肉眼で見るのははじめて。 それが、これ。 オオミズアオという蛾。 「セイヨウバクチノキ(西洋博打木)」という樹に、こんな風に縋るように止まっていた。 水色の翅がほんとうに美しい。 そして真っ白な身体。 調べたところによると、「短命の蛾」であるということ。 幼虫時代はカエデやサクラなどの葉を食べて育ちますが、成虫になると口がなくなってしまいます。そのため食事ができず、成虫になった後はわずか1週間ぐらいの命しかありません。 「成虫になると口がなくなる」なんて、、、、まあ。。 神さまはなんということをなさるのであろうか。。 明日もおなじ道をとおる予定。 明日も会えるかしら。。。 新刊紹介をしたい。 菊判ハードカバー装帯なし 226頁 二句組 俳人・河内文雄(こうち・ふみお)さんの第4句集である。河内さんは、令和2年(2020)に第1句集『美知加計(みちかけ)』を上梓されてより、その後つづけて第2句集『美知比幾(みちひき)』(2021)、第3句集『宇津呂比(うつろひ)』(2022)と刊行され、この度の第4句集となる。これはもう第1句集を上梓されるときからの俳句の実験的試みであり、なんとすでに第5句集となる『真太太幾(またたき)』も目下進行中である。 すでにご存知であると思うが、河内さんは、収録の360句をすべて17音13文字で統一をされている。 このことについて、前句集『宇津呂比』の「あとがき」で記しておられるので、そこをふたたび引用しておきたい。 私は俳句の大前提は「韻・季・切」の三つであると理解していますので、その根本的なルールの範囲内で、なおかつトレーニングのために三六〇句すべてを十三字で表記するという制約を自らに課しました。「宇津呂比」ではまだまだ言葉に振り回されていますが、徐々に脳内ネットワークが再構築され、言葉を手なずけていく過程が記録されていくことと思います。 お医者さまでもある河内さんの自身に課した試みなのである。第1句集『美知加計』の「あとがき」にもくわしく書いてあるように、河内さんは脳梗塞の後遺症を俳句で治した方である。俳句が脳にどんな新しい領域を広げていくか、そんな試みをされているのだろう。なんともエネルギッシュである。 しかし、今回の句集について、河内文雄さんは、こんな風に書いておられる。 しかしこの『止幾女幾』では、どうしてもその原則れ(三百六十句全てを十三字表記で統一)から外れる句が出てしまいました。これもまた脳内ネットワーク再構築の一つの過程なのかもしれません。 ということであるが、作品を紹介していきたい。 本句集の担当は、第1句集よりの担当者である文己さん。 いかのぼり凧と言ひなす気風哉 雪解川とき取り戻すかのやうに たましひの雫なるとや猫やなぎ 風船や空にも浮ぶ瀬の在りて 芥子粒のあめ八月の拗ね銀座 稲架組むや空の裏まで空満たし ややっ、たしかに今までとは異なって、13文字のものだけでなく、14文字のものも多い。「あとがき」に「俳句にメッセージ性を持たせるため、意図的に字数を変えた句群もあります。」ということであるから、13文字の約束をあえてやぶる試みをされているようだ。 文己さんの好きな句をみてみると、かなり自在に作られているようだ。短期間にこれだけの句集を上梓し、俳句をつくりつづけることを思うと、言葉がわいてくるままに俳句にする、という訓練を自身に課されているのだろう。言葉遊びのおかしさもある。材料は広範囲にわたっている。 たましひの雫なるとや猫やなぎ これはわかりやすい一句である。「猫柳」のあの銀色のつややかなビロードのような芽を「たましいの雫(らしい)」と詠んだ。猫柳を見て、なにかの雫であるという発想は、それほど突飛ではないが、「たましい」となると飛躍がある。人間が勝手に詠むわけだから、当事者である「猫柳」はあずかり知らぬことだ。さて、この「たましひの雫」に関しては、どうだろうか。たましいっていったいナンダ。広辞苑の第1番目の意味によると「動物の肉体に宿って心のはたらきをつかさどるもの。古来多く肉体を離れても存在するとした」とあり、目ではみえないけれど、「在る」ものだ。21世紀の人間も「たましい」については、あながち否定はしないのではないだろうか。この句で面白いのは、「たましい」は濡れて水分を含んでいるのもで、「雫」があるということだ。決して乾いたものではないのだ。確かに乾いたたましいより、水気をもって潤んでいるたましいのほうがたましいらしい(?)か。人間の肉体は水気たっぷりであるので、たましいも水分を含んでいるのかもしれない。そしてそのたましいの雫は、金色でなくて銀色である、というもなぜか落ち着く。そいういうことで、たましいの雫=猫柳、という発想もあり得ないことではないと思った。 毛糸玉まろびてとほき昔かな この句は、校正者の幸香さんが好きな一句である。わたしも好き。ちょっと久保田万太郎の句のような懐かしさがある。毛糸玉がころがっただけのことなんだけど、そのころがった先を「とほき昔」と詠んだところに詩が生まれた。毛糸玉の空間的な動きが、はるか昔へと繋がって三次元から四次元へとスイッチした感があるが、そういってしまえば情緒もなにありゃしないのだが、この句は昔を呼び戻すことによって、なつかしい思いを読者の心に満たす。叙法に無理がないので、心にすっと入ってくる、いい句だと思う。 手のひらを流るる霧や小諸駅 こちらは、おなじく校正者のみおさんが好きな一句であるが、じつはわたしも〇をつけた一句である。「小諸駅」の具体的な地名がとてもいい。手のひらを流れていく霧をみつめている作者がいて、下五の「小諸駅」で、視座がぐっと引かれて駅にいる作者像が立ち上がってくる。映画の一シーンのようである。手のひらから、さっと鳥瞰図的な構図へとカメラアングルが動いていくような。「小諸駅」によって風景がきわめて現実化した。手のひらを流れていく霧もよくみえてくる一句だ。 小満の水面ふくらみドナウ川 この句も固有名詞が登場する。季語「小満」がドナウ川にとても合っているように思える。「小満」は「万物の成長する気が次第に長じて天地に満ち始めることから小満といわれている」とあるように、天地に万物を成長させる気がみちることであれば、水面がふくらむことを有り得るわけである。その気がみちるところをドナウ川としたところが面白い。実景であったのかもしれないが、「ドナウ川」という言葉の響きが落ち着いていて、ゆったりと何かがみちてくるその気配を読者は十分に感受することができる。これがセーヌ川やライン川だったらどうだろうか。成長する万物の受け入れとしてやや脆弱で今一つな感じである。「ドナウ川」と声にだしてみると、やはり揺るぎないものがある、と思うのだけれど、どうかしら。 俳句にメッセージ性を持たせるため、意図的に字数を変えた句群もあります。さらに例によって、ほとんど失敗に終わった様々な実験も、すべて包み隠さずお示ししておりますが、振り返って見て、余りに稚拙な句の多いことに驚いております。〝それなりの句〟の数は、以前に刊行した『美知加計』や『美知比幾』のほうが遥かに沢山あります。でもこれは喜ばしい現象であると考えています。 (中原道夫)主宰の模倣に終始した第一句集や第二句集と異なり、それ以後の作は、赤ん坊が徐々に言葉を覚え、親の口真似だけではなく、自分の頭で考えた文章を話し始める道筋とダブっています。もしかすると自分でも気づかないうちに、自己のオリジナリティを獲得していく経過が記録されているのかも知れません。と言いますのは、今回の『止幾女幾』と次の『真太太幾』で、これが離陸というものか? と感じる瞬間が度々あったからです。(何度か墜落しましたが……笑) 「あとがき」をふたたび紹介した。 自身の実験的試みついて、正直な感想を書かれておられる。 「模倣」から「オリジナリティ」へ。 それが、河内文雄さんの目指すところである。 本句集の装釘は、前句集にひきつづき、君嶋真理子さん。 前句集が青をテーマにしていたとしたら、今回はピンクである。 「止幾女幾」という句集名にふさわしく。 扉。 花布は白。スビンはピンク 以下、本句集より。(自選一五句より抜粋) 初夢の消ぬる速さを如何にせむ 修司忌の空へ突抜け井戸の底 黒潮の丈はおほむね夏のはば 汗といふ極めて個人的な事象 台風の試歩や赤道ふみはづし 末枯れや木よりも鉄の朽ち易し 上梓後に、河内文雄氏より所感をいただいた。 句集つくりは楽しい作業です。自由に様々な可能性を試すことが出来ます。例えば、自分は俳句に個人的な政治信条を持ち込むことには反対の立場ですが、立場はひっくり返すために存在しますから笑、口を噤まなければ発語できないマ行の言葉に思いを託し、7月の「計」の冒頭に以下の7句を並べました。 ルールから外れていることを明らかにするため、自ら課した17音13字表記の原則を敢えて破り、この7句のみ15字表記にしてあります。連作ならではの「計」画的な犯行は、今後ますますエスカレートしていきますが、それらの「小ネタ」を見つけることも、句集を手にする楽しみの一つにしていただければ幸いです。 なつ朽ちて漂ふはバウヒニアの香 あぶら照りまやかし押し寄する港 風死すと伝令の触れまはるいとま 生きめやも溽暑に一歩下がるきみ べに濃ゆき蓮華やいのち経巡らむ 乾ぶ地へ時いたりなば喜雨訪はめ モンスーンや立志の鎖灼かれども ヒント バウヒニアは香港の国の旗にもなっています 河内文雄氏。 涅槃図に役割不明なるやから この一句、面白い。涅槃図については俳人はいろいろと詠むが、釈迦入滅の際に、釈迦に関わる弟子をはじめ、菩薩、鬼畜などが周囲につどいおおいに嘆き悲しむ様を描いているものだ。思うのだが、そこに描かれるものは決まっているのかしら。そしてそのものたちと釈迦との関係性はそれぞれ明らかなものなのかしら。涅槃図に詳しくないからわからないけれど。そこに「役割不明なるやから」がいると河内さんは詠む。それが面白いとわたしも思う。人々がある共有する場にあつまったとき、「役割不明なるもの」がいたほうがいいと思う。すべてに役割が振り当てられていたら、世界はとても窮屈だ。そういうものがいてこそ、ゆったりと息ができるような気がするのだ。救済というのはそういうものにも当然にして及ぶものである。
by fragie777
| 2022-05-30 20:04
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