カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
5月26日(木) 紅花栄(べにはなさく) 旧暦4月26日
じゃがいもの花。 じゃがいも畑に咲く花。 見ていると安らかな気持ちになる。 今日は、先般ふらんす堂より歌集『ジョットの真青』を上梓された徳高博子さんのご夫君である宮野健次郎氏が、ご来社くださった。 徳高博子さんは、この5月11日に膵臓がんの為、亡くなられてもうこの世にはいない。膵臓がんがみつかり余命4ヶ月から半年という宣告をうけられてから、抗がん剤投与による治療のもと、7ヶ月の闘病の果てに亡くなられた。当初は抗がん剤投与を拒否されておられた徳高さんであったが、宮野氏の説得もあって、抗がん剤投与をうけられたのだったという。膵臓がんが見つかって、もうすぐにでも死ぬという思いがあった徳高さんを励まし歌集出版へと思いを向けさせたのが宮野氏であった。ごくたまにyamaokaのブログ「編集日記」を覗くことがあったという宮野氏であるが、その覗いた記事が、たまたま小島明さんの句集『天使』の紹介記事であったという。小島明さんも、膵臓がんで亡くなられた方である。余命がないことを知りつつ句集の上梓を決心する。しかし選句途上で亡くなってしまい、その志を妹さんや俳句仲間がついで句集出版にこぎつけたのである。そのことを知った宮野氏は、徳高博子さんに歌集を上梓することをつよく勧め、がん宣告のショックで死へのベクトルに気持ちが傾いていた博子さんであったが、宮野氏の説得や協力によって最後となる歌集上梓を決心されることになった。それによって徳高博子さんは死に大きく支配されていたお気持ちが、歌集出版へと向かったのである。しかし、当初は、お原稿をいただいた時は、もはや出来上がった歌集を手にとっていただくことは叶わないだろうとご本人も宮野氏も思っておられたのであるが、徳高さんはものすごい集中力を発揮し、ご自身の歌に向き合うことになる。そして歌集の出来上がりを心から喜んでくださることとなった。 そのことを、後日博子さんが亡くなられたお知らせをいただいたメールで、宮野氏はこんな風に書かれておられる。 「ジョットの真青」の出版に際しては本当に大変お世話になりました。 余命半年宣言をされてからの時間を、想像できないくらいの充実感を持って平穏に過ごせたのは、このプロジェクトがあったからです。 歌集を手にし、歌集を贈った方々の感想をもらい、最後をホスピスで安らかに送られた徳高博子さんであった。 今日は、これまでのことをお知らせくださるために、ご来社くださった宮野健次郎氏であった。 宮野氏と博子さんは、井の頭公園のちかくにお住まいである。 がん宣告をうけてから、お二人でよく井の頭公園を散歩されたという。 「結婚してからはじめてふたりで向き合う時間となりました。そして、博子をやっと理解できたとおもいました。」と宮野氏。 「それはどういうことですか」と伺うと、 「博子は、あとがきにも書きましたが、ますらおぶりの潔い女性だと思っておりましたが、そういう面もある反面、じつは多くの不安をかかえていたのだということがわかったのでした。そういうことをもう少しはやくわかってやれれば良かったと」とやや顔を曇らせた宮野氏であった。 しかし、がん宣告をうけて、亡くなるまで献身的に介護につくされた宮野氏である。 徳高博子さんは十分に感謝をされて、神のもとに召されたと、わたしも文己さんも確信しているのである。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバードイツ装帯なし 172頁 二句組 俳人・森賀まり(1960年、愛媛生れ)の第1句集『ねむる手』、第2句集『瞬く』につぐ第3句集となる。 句集名の「しみづあたたかをふくむ」は、第72候「水泉動」よりの命名である。このことについて、森賀まりさんは、次のように「あとがき」に書く。 水泉動(しみずあたたかをふくむ)。新年が明けて大寒の少し前の時候である。暦の中にこのことばを見つけたときなつかしくなった。 私の生家は四国石鎚山の登り口に近く、湧き水を水源とする地にある。凍るような朝は蛇口を開け放ち、水が温んでくるのを待ってから顔を洗った。 七十二候を眺めるに、その多くがふとした気づきを誰かがつぶやくようだ。なかでも玄冬の底に置かれたこの語にひかれる。水の温度はほとんど変わらないのに、いっそうの寒さがはじめてその温みを気づかせる。ひらがなに開いてみると、その先の春を待つ心がより感じられるように思った。 本句集は、夏からはじまる。 雨太く楝の花に吹き込める 日盛の縄目を叩く槌の音 ほそき草揺るる行水名残かな 盆礼や手洗ひの水よぢれつつ 最初におかれた4句であるが、そのうちの3句は「水」にかかわる句である。「あとがき」に書かれているように「水」を通して作者のあらゆることははじまっていく。いたるところにひそむ水は「太く」「ほそく」「よじれ」ながら豊かな表情をみせるのだ。 季節に感応するように、人間の肉体は水に感応していく。 綿虫や豆腐は水を見つつ購ふ 囀や離宮といふは水を渡る 口漱ぐとき柊の花を見る 雨籠る人は読みけり花樗 夏の蝶空に大波あるやうに 水吸うて新聞あをし花八ツ手 冬の金魚灯さずに手を洗ひけり 水の気配が濃厚な句をざっと挙げたが、これにはとどまらず、本句集には「水」はその姿を変容させながらいたるところにあらわれる。 夏の蝶空に大波あるやうに 好きな一句である。「さざ波」ではなく、「大波」としたところがいかにも「夏蝶」の雄渾さがある。夏木立の間にふいっと飛び出してくる夏蝶の動きの強いはげしさにこちらがたじろいでしまう。そんなことが度々ある。翅を大きく上下にはばたかせて大きな波に乗るかのように夏蝶がやってきた。空に波を幻視させたのである。夏蝶は、その荒々しい原始的な魔力を発揮して、時として大海をひきつれてくることもある。 こほろぎの滴のごときかうべかな これもおもしろい一句である。ここにも水が潜んでいる。こおろぎの貌を描写したというか、いや、首から上の頭の部分を「滴のごとき」と喩えたのである。コオロギ自体、黒い体をしていて頭の部分は丸くとくに光っている。この一句、「滴のごとき」で丸くて濡れたように黒光りしているコオロギの様(さま)が見えてくる。面白いのは、堅い体の部分を、水の滴というやわなかなもので喩ながらなぜか、水の表面張力によって硬質な黒の塊のようみえてくること、しかしそれは水分をたっぷりと含んだ生命体であるということ、そんな情報がこの一句によって伝わってくるのだ。 灯ともせば聖樹の影の立ち上がり この句も引かれる一句である。暗い部屋の一角におかれた聖樹である。聖樹とあるからには、すでに飾りつけもすんで、聖樹としてのスタンバイはOKである。ただ、暗い部屋に聖樹は似合わない。明るい部屋におかれてこその聖樹である。この一句、「聖樹の影が」立ち上がったというのが臨場感がある。たんなる黒い塊であった聖樹が、灯をつけたとたん、聖樹であることに目覚めたように立ち上がったのである。「影」が立ち上がったという措辞によって、まるでそれが生き物であるかのようにいっぱしの影をもって立ち上がったリアリティがある。 ライト兄弟のマフラーもかく靡きたる このすこし前にある「さくらんぼ真赤な方をくれにけり」も好きな一句として印をつけていたのだが、先日「四季」で長谷川櫂氏がとりあげていたので、今回はこの句はさけよう。そのすこしあとにおかれているこの「ライト兄弟のマフラー」も好きな句。「ライト兄弟」って世界ではじめて飛行機を発明し、はじめて飛行した兄弟だ。小学生のときに「偉人シリーズ」というのでこの兄弟のことを読んだけれど、すっかり忘れた。でも、飛行機をつくって空を飛んだ兄弟であることは忘れない。すごいなあって思う。で、「ライト兄弟」といえば、わたしは、彼らがグライダーに乗ってマフラーをなびかせてこっちに手を振っている、そんな姿が思い浮かべる。しかし、これはあくまで想像上だと思う。この句を読んで、「ライト兄弟」ほど「なびくマフラー」にふさわしい人たちはいないんじゃないかって思った。下五の「かく靡きたる」の措辞が巧みだ。自分がしているマフラーか、あるいは友人がしているマフラーが風に大きく靡いた。そのことを以て、発想はライト兄弟まで飛んだ。その飛躍が抜群だ。マフラーはただ靡いているのではなく、空の風を切って、しかもふたり一緒に靡いているのである。 夏蓬真白でもなき白を着る 「夏蓬」が季語である。野の道のべなどに荒々しく生えている。風にふかれて葉裏が白く翻ったりする。すさまじく伸び放題になる。今日の装いは、白だ。夏蓬の勢いのある緑にはよく生える白。しかし、たぶん麻地のこちらも布目の粗い生成(きなり)のものだ。白というよりやオフホワイトのもの。この一句、「白でもなき白を着る」とぶっきらぼうに言い放っているが、その除法が「夏蓬」によく合っていると思う。そしてそのぶっきらぼうさが、多くを語っている。いったいどんな白よ、そしてどんな材質のもの、「夏蓬」に対抗するんだったらそれなりに質朴感があるものじゃない、とか。けっしてジョーゼットではないわね。とか。多いの想像をさせる句である。わたしは白が好きなので、着るものの多くは白が多い。そして白といってもそれは多種さまざまなものがあり、その違いを楽しむことも生きる喜びの一つである。 橋よりも低く花火の上がりけり ふしぎな一句である。江戸時代の花火の風景を描いた版画を見ているような。見上げる花火でばなく、遠いところで上がっている花火なのだろうか。それとも作者の視点は、橋よりもたかいこころにいて、あるいは橋の上にいて、見下ろすかたちで花火を見ているのだろうか。そんな風には思えないのだ。この一句、なつかしさが心に呼び起こされる一句だ。現代風に派手にドカンドカンと地響きをたててあがる花火でなく、遠くの橋の向こうに低く花火があがり、それは川の水に映っている。そして花火からも橋からも見る人は遠くこちら側にいて、静かにそれを眺めている。もうすでに失われてしまった花火の風景のように思えてくるのであるが、これはたぶん実景なんだと思う。静かな花火が郷愁を呼び起こす。 ほかに、 綿くづのふはふはあるくクリスマス セーターの毛玉仕方のなき人よ しよんぼりと冬のバナナを買ひ足しぬ 柱より柱へうつり十三夜 本句集の装丁は和兎さん。 であるが、 この本の魅力は、装画に用いた木村茂氏の版画と造本にある。 「装幀の裸木は若い頃より敬愛する木村茂氏の銅版画である。」と、森賀まりさんが「あとがき」に書かれているように、この版画は、まりさんは購入され持っておられるという。 木村茂氏の樹木の版画はすばらしいものばかりだ。 (わたしも版画を二点ほど持っているが…) 背の部分には真紅の用紙。 木村氏の版画の力強さには、このくらい強い色もってこないとバランスがとれない。 花布とスピンは色を消して白。 タイトルのみを金箔。 見返しは、背の用紙とおなじもの。 扉はシンプルに。 白と赤のコントラストが美しい。 製本屋さんが、だいぶ苦労をした造本である。 本文用紙はあえて白い紙を用いた。 力強く瀟洒、そして静かなたたずまい。 この本は『ねむる手』『瞬く』の後、二〇〇九年以降の作品から三〇〇句を選んだ。身のそばにあるもの、また失われたものの温みに気づかされた期間でもある。(著者) 上梓後のお気持ちを森賀まりさんにうかがってみた。 実は、今回の句集は校正の段階でこれまでにないくらいへこみました。 昔は「落ち込む」と言ったものです。 でもこちらの方が情けなくて気持ちに合います。 とにかく恥ずかしくてたまらなかった。 初校が出るまで気づかなかったのですが特に中盤から後半、 カラビナをひっかける場所が見当たらなくてその時点ではじめてそのことに気づいて驚きました。 一冊の本として私には内容に起伏を生み出すことができなかった。残念ではありましたが受け入れて今ここにあります。 この時点で句集を編んだことに意味があるなら あとまだしばらく生きるのだなあと思ったこと。 これまで俳句が私をつなぎとめていたのは確かで、 心のさざなみ自体をよくわからないまま表現したいと思っていました。 ずっと自覚なくやってきた自分の俳句の作り方が、自分の身のすぐまわりを、 無意識を言葉で探るとでもいうような受容的なものであると認識したことです。 最近立て続けに大きく悩むことがあり 十数年間の句を選んだ時期がこのときであったということで やはりこの時点の自分が出たのでしょう。 大阪の家には木村茂さんの版画がいくつか掛けてありますが 流木や裸木が描かれたものを好んで眺めていました。 今回の装画の「裸木・B」はその中でも一番大事な作品です。 その絵を支えに句集が出来上がることを待っていました。 高田正子さん(左)と森賀まりさん。 (2021年田中裕明受賞記念吟行の時 ) お姉さま(歌人・坂原八津さん)とおふたりで介護をされていたお母さまが、句集上梓後に亡くなられたのだった。 まりさんにとって、いろいろとたいへんな時期であったことは、わたしもすこしは存じ上げている次第である。 秋の水映画に長き掉尾あり 掉尾の一句。 「水」の句ではじまり、「水」の句で終わっている句集『しみづあたたかをふくむ』である。 本句集に流れている静かな水の声に耳をかたむけたい。
by fragie777
| 2022-05-26 20:47
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||