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5月23日(月) 旧暦4月23日
ほんと、立派なザリガニである。 先日、田中裕明・森賀まり共著『癒しの一句』より、放哉の句「大空のました帽子かぶらず」の句と森賀まりさんの鑑賞を紹介したところ、詩人の小笠原鳥類さんがこんなメールをくださった。 昨日の編集日記で、放哉が、技巧を知っているのだが捨てきって書いている、というのが、いいなあ、と思いました。何も知らないのでもなくて、知っているけど隠している、乗りこえている。知識を栄養として生かしながら、そこから自由になっていると思いました。 放哉の『大空』は筑摩の現代文学大系『現代句集』で読んでいます。井泉水の「放哉のこと」も読めます。放哉の「茄子(なす)もいできてぎしぎし洗ふ」紫色はギシギシしていると思いました。 そして、 5月10日に京都のUrBANGUILDで、小菅紘史さんと中川裕貴さんによる公演「拝景、鳥類さん」が行われました。拝啓でなくて拝景だそうです。現代詩文庫『小笠原鳥類詩集』をもとにした、鳥類詩の朗読、というより暗記して詩を語ることと、チェロの演奏です。映像が公開されました。約38分の長さです。 興味のある方は、是非にアクセスを。(いろんな詩の朗読があるものです) 新刊紹介をしたい。 46判ハードカバー装帯あり 202頁 二句組 初句索引・季語索引付き 令和俳句叢書 俳人・増成栗人(ますなり・くりと)の第4句集となるものである。増成氏は、俳誌「河」を経て、現在俳誌「鴻」主宰。俳人協会顧問、日本現代詩歌文学館振興会評議委員、千葉県俳句作家協会副会長等々、俳句のために尽力をされておられる。とくにお住まいの千葉県の俳句文化活動に力をいれられている。句集に、『燠』『逍遥』『遍歴』。 「あとがき」に、句集名の「草蜉蝣」についてふれておられるので、紹介をしておきたい。 草蜉蝣は透明な美しき羽を持つ緑色の小さな昆虫。日のあるうちは草蔭にいて、夕方になると人里に現れる。卵から成虫となり命を全うするまで三、四ヶ月と聞くが、成虫になっては一日の寿命と言う人もいる。そのこともあってか実に儚い昆虫である。 私は第三句集『遍歴』のあとの七年間の作品・三百十八句を収録した第四句集にこの題を選んだ。私の俳句の多くは旅や近郊の吟行で為した作品。生活俳句は余り多くはない。この旅の多くで得た体験は、一期一会のその土地への親しみであり、その土地が持つ讃歌であり、その土地の美しく儚き歴史への回顧であったと思っている。それをどう己が息遣いとして打ち出せるか、熟慮の上、この「草蜉蝣」を書名とすることと決めた。 ために句の配列はおおよそが作句順である。しかし、三日、四日の旅ともなれば、季を外れて咲く花もあれば鳴く鳥もいる。土地によっては季を越えての暮らしの風情もある。ゆえに正確には季節順となってはいない。それでよしとしている。 生活詠より旅吟が多いと書かれているように、本句集の製作過程においてもご連絡をさしあげてもご不在のことが圧倒的に多かった。お電話をいただいても「いま旅先からです。」と前置きがあってお話をされるというような状態。 句集名「草蜉蝣」の句は、本句集中、「草蜉蝣昼月淡く山の端に」「草蜉蝣九鬼水軍の島にかな」「草蔭を出でぬ草蜉蝣の昼」「草蜉蝣やはらかな雨来てゐたり」の四句が収録されている。 草蜉蝣やはらかな雨来てゐたり 「草蜉蝣」は、夏の季語で、歳時記には「体調は1から2センチほどで、ウスバカゲロウよりも小さい。体はうす緑色で、翅は透明である。この虫の卵は優曇華」とあり、「草の中で目がキラキラと光っている」ともある。増成さんは、よほどこの草蜉蝣がお好きなんだろう。「あとがき」には「己が息遣いとして」の「草蜉蝣」と句集名を名付けたとも。はかないけれど美しい虫である。じいっと目を凝らさないとあるいは見過ごしてしまうような草蜉蝣。掲句は、その草蜉蝣に雨がふりだしたときのことを詠んだもの。草蜉蝣にとっては「やはらかな雨」であることはありがたい。そして「雨が降る」のではなくて、「雨が来てゐたり」という措辞が草蜉蝣の視点に立っての謂いである。降るであればそれを見ている人間の視点であるが、草蜉蝣にとっては慈愛の雨のごとくやわらかに身体をうつ雨が来ているのだ。この「来て」という表現によって読み手の視座もまた草蜉蝣に収斂していくのだ。細くて柔らかな雨が見えてくる。その雨がみえてくるとき、われわれもまた草蜉蝣となっているかのように。 標本の蝶の百体冬が来る 「標本の蝶」って、わたしは苦手である。蝶々自体、写真に撮ったりはするが、苦手である。蝶好きなコレクターにとっては、「蝶の標本」って心がふるえるほど好きなものなんだろう。美しい翅をもつ蝶を生きたままの輝きを以て留めおかんと標本にするのである。しかし、それはまことに生の対極にある死を見せるもので、死の美しさとも呼ぶべきものかもしれない。作者は夥しい蝶の数の標本をみた、そんな死のきらびやかな標本は、冷たく動かずしかし燦然と輝いている。その硬質な光をみていたら、ああ、もう冬の季節がやってくるのだと気づいたのである。百の蝶の眩暈がするような数の標本には冬将軍の気迫こそがふさわしい。 耳のみが生き炎天の底にゐる 作者の増成さんは、どうやら特殊な耳をもっておられるのか。不思議な一句であり、惹かれる一句だ。耳の句ではほかにいくつかあるが、「草朧耳を大きくしてゐたり」「百千鳥耳あたらしくしてゐたり」というのもある。物理的なことと関係するのかわからないけれど、増成さんは、耳の大きな人である。五感のなかで、聴覚のみがまっさきに万物に対して反応する方なのか。そうであってもこの「耳のみが生き」とはどういうことなんだろう。炎天に押しつぶされそうな極暑の只中にいて、身体も限界状況になりつつあるそんな時、耳のみが世界の音をとらえんとして元気だ。というのだろうか。この句、いったい暑さに参っているのだろうか、どうなんだろうかって思いはじめたら、炎天下の身体と耳が分離しているかのような、耳が身体を救済してくれるような不思議な感じに襲われたのだけれど、どうでしょうか。 花菜どき何も持たざる手を洗ふ これは校正者の幸香さんが、惹かれた一句と書いていたけれど、わたしも好きな句である。「花菜どき」と「何も持たざる手を洗ふ」ってどういう因果関係?って。なにも「花菜どき」でなくてもとも思うし、手を洗うときって何も持たないじゃんっておもったけれど、このあえて「何も持たざる手」という認識というか感慨?が作者の心を満たしているのだ。「何も持たざる手」は、「多くを持つ手」の反対である。わたしたちは何も持たずにこの世にうまれ、また何も持たずに死んで行く、そういう意味での何も持たざる手、なのか。「持つ」とは、金銭であったり肩書きであったり栄華であったり人間にまつわるさまざまな価値付けをするもの、そういうものから自由になった手か? こういう解釈ってあんがい普通っぽくてつまんないのだ、書いていてそう思った。「何も持たざる」ことの清々しさを手に見いだした一句なのか。いやそうではないかもしれない。歳をとり、すでに得ることより失うことの多い日々を思い、すでに何も持たざるものとしての哀しみの手なのだ。その手を見つめながら丹念に手をあらう。そんなさびしさを花菜のあかるさが慰め明るく照らしている。そう思うと「花菜どき」が活きてくる。 蜷の道これほどありて蜷を見ず 「蜷の道」って、本当にこんな感じ。季節になって小川などを覗くときまってある。たくさんの蜷の道をみるが、じゃ、蜷はどこにいるのさって探すと決まって姿がみえないのだ。盛んに活動している痕跡はあっても、蜷の姿はみえない。「これほどありて」とはまさにそんな感じ。 草笛に草笛をもて応へけり この一句も好きである。情景を思い浮かべるだけで清々しい気持ちになる。立ち上がる風景としては、子ども同士というよりも大人同士の景だ。どっちを想像してもいいし、子どもと大人でもいいし、それも素敵だ。人は言葉だけでなく、こういう手段でも挨拶をかわすことができるというのがいい。とっておきの挨拶だ。 「あとがき」で生活詠はほとんどなく旅吟によっての句が多いと書かれていたが、地域の固有性を詠むというより、旅先でとらえた一瞬一瞬の把握は、どれも普遍的なわたしたちに親しい景として詠まれている。その土地を名をいれて詠んだ句も収録されているが、多くの句は景として普遍化されているので、すんなりと読み手の心におさまる。それは多分、増成栗人という俳人の身体感覚に負うところが大きいのではないだろうか。自身の身体感覚を軸にして自然を見、その土地を見、生活を見る。そんな気がしたのである。 ほかに、 みんみんの樹の裏側の淋しさよ 煮凝を崩し一人といふ時間 象潟の雨の鵯上戸かな 龍の玉息は静かにあるべかり 写経して畳一枚分の夏 本句集の装釘は和兎さん。 句柄がもっている明るさが失われないようにといことを配慮した。 用紙は風合いのあるもの。 シンプルな装幀である。 花布もスピンも朱色に。 一月一日落款の朱のうつくしき 私も米寿。しかしまだ自分の俳句は見えてこない。老いたれど老いたなりの静かな青春性を追求してゆきたいと考えている。(著者) 句集上梓後の所感をいただいた。 句集『草蜉蝣』上梓の前に送られてきた見本を手にしたとき、真っ先に落ち着いた静かな明るさと、手に馴染むようなやわらかな手ざわりに、己が句ごころと一致したような嬉しい安らぎに満たされたことを鮮やかに記憶している。装幀をして下さった和兎さんに改めて感謝の意を捧げたい。 また。初句索引、季語索引を付したのも私も句集では初めてこと。多くの方のお便りの中に、再読の大切な手控えになるとの言葉が記されていた。季重なりを厳格には禁じていない私の作句姿勢。それだにふらんす堂の山岡さんと何度も対話を重ねたそんな面倒を、著者側に立って丁寧に処理してくださったことにも、厚く御礼を申し上げたい。 刊行後、連日各地からのお便りが届く。こんな高齢者の呟きを、丹念に読んでくださり、ペンを執っていただくお一人お一人に、改めて俳人としての強い繋がりを覚え、厚き感謝の意を覚えている。そしてその一通一通に勇気を貰い続けている。その勇気を楯に、老いたれば老いたなりの青春性を十七音に語り尽くしてゆきたいと願う今日この頃である。 増成栗人氏。 振り向けば椿の落ちただけのこと 好きな一句である。
by fragie777
| 2022-05-23 19:48
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