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5月20日(金) 旧暦4月20日
ある日の薔薇。 「現代人は賢明となるにはあまりにも多くの本を読み、美しくあるためにはあまりにも余計に考えごとをしすぎる。」 これはいま読んでいる小説の一節である。 しかし、現代の小説ではない。 19世紀に書かれたイギリスの小説のことばである。 「現代人は賢明となるにはあまりにも多くの情報を得、美しくあるためにはあまりにも余計な企みをしすぎる。」 これは、21世紀に生きている仙川のヤクザなR女(つまりはyamaoka)のことばである。 あはっ。。。。 新刊紹介をしたい。 46判ハードカバー装帯あり 206頁 1句組 著者の松本余一(まつもと・よいち)さんは、昭和14年(1939)東京生まれ、現在は俳誌「ひろそ火」(木暮陶句郎主宰)と俳誌「海光」(林誠司主宰)に所属しておられる。本句集は三冊目と成る。第1句集『言霊』を2020年(令和3年)に上梓され、今年のはじめに第2句集『ふたつの部屋』(アトラス刊)を上梓、そしてここに『言霊Ⅱ』と短期間のうちに3冊の句集を上梓されている。今年83歳になられる松本余一さんは、お身体がすこし不自由である。お身体が不自由な分だけ、というとへんかもしれないが、ものすごく俳句熱心である。ふらんす堂の本もよく買ってくださり、時にお電話でお話したこともある。そのときは「取り合わせ」の句がいかにしてつくれるようになれるか、それをもっぱら考えておられたようだった。 本句集にもご自身の肉体の不自由さについて詠んだ句がいくつかある。 万歳は吾のリハビリ葱坊主 麻痺の手に苦労をさせる更衣 片麻痺の脚に気合を入れ立夏 爽やかに病み抜ける業俳句道 ほかにもあるがいくつかあげてみた。 半身不随となられても、それを俳句に詠み込んでいじいじしていないところが素晴らしい。 私にとって俳句は迷路のようだ。出口の見えないままに日が暮れそうな不安がつきまとう。すぐ突き当り戻り、また進む。気分よく行った分だけ帰りは遠い。進む道は多岐に分かれる。そのなかで不可欠なのは読み手という存在である。読者不在の俳句は成り立たない。この辺りで私は困惑する。 はじめから読み手に頼ると私の居場所がなくなる。時空も意味も飛び越えてしまう。それでもよしとするならば、ある部分読み手に委任すると言う私の覚悟が必要になってくる。こんなふうに十七音の俳句の立ち位置を、少し知ることになってしまった。いまだ迷路の中にいるようだ。 これは私と読み手の感性の共有なのかも知れない。旅遍路の同行二人に近いものかも知れないとの思いから、俳句遍路も楽しい。 「あとがき」を紹介した。 俳句をつくる側にとって読み手というのがいかに大切かを書かれている。作り手と読み手が「感性を共有すること」それによって新しい読みが生まれるということか。しかし、「感性を共有する」ってどういうことなんだろう。わかるようでちょっとわかりにくい。それを松本さんは、「ある部分読み手に委任する」と書かれている。要は、わたしはこう感じた、あなたはどう感じますか、とそのやりとりをするということを「感性を共有する」と語っておられるのか。つまり、あなたの感じたことが、若干わたしの作意とちがっていてもそれをわたしは共有します、ということなのか。そうであれば、わたしがここで勝手に鑑賞しても許してくださいますのね、松本さま。 しかし、あまりとんちんかんになりすぎないように、松本余一さんの俳句を紹介していきたい。 そのままの子の空部屋の余寒かな 寒さを感じる一句だ。この句、季語が「余寒かな」でなく、「寒さかな」としたらどうだろうか。そこには寒々とした子の空き部屋が氷りつくようにあり、人を排する気配がただよう。「余寒かな」はどうだろう。一度人間の肉体は春の温もりを経験してそこにいるのである。寒くてもどこかゆるく人を許容する気がある。するとかつてそこで暮らしていた子どもの気配も蘇ってきて、これから春へとむかう寒さを感じながらも、子どもの息遣いなどが感じられて、人懐かしい思いも立ち上がってくる。寒くても人間の気配が濃厚である。「余寒」が多くを語っている。 パティシエの帽の高さに初蝶来 この句、陶句郎主宰も帯に選ばれている句である。わたしも好きな一句。「パティシエ」は、「洋菓子職人さん」のこと。真っ白で糊の良く聴いた高さのある帽子をかぶっている。野外でお菓子づくりでも披露しているのだろうか。そこに初蝶がやってきたその一瞬をとらえたもの。「初蝶来」と下5をとめ、余計な言葉をもちいず最小限に言葉をとどめた。清々しい空気とパティシエの白い帽子、初蝶のいきおい、すべてが春を喜んでいる。 武蔵野の雨意を斬りゆく親燕 この一句の面白さは「雨意」という言葉だ。辞書によれば「雨もよい」「雨気」「雨が降り出しそうな気配」である。燕が飛ぶ季節は、雨雲がたちこめていまにも降り出しそうなときが多い。「武蔵野」という地名をおくことによって景色を現実化し、その鬱々とした薄暗い大気を勢いよく燕が斬って飛ぶ。いまにも雨がふるぞ、という「雨意」が充満する大気である。「親燕」とすることによって、その飛ぶことの意味を切実化した。 山を消し人を消しゆく牡丹雪 牡丹雪は春に降る雪だ。水分をたっぷりふくんで大きな塊となってべたべたと降る感じ。そんな大きな粒の牡丹雪が降るときは視界はかなり遮られる。「山を消し」それから「人を消し」というほど激しく降る牡丹雪だ。「山を消し」と思い切った表現を上五にすえ、さらに「人を消しゆく」として「牡丹雪」で着地させるところが巧みであると思う。 ふたりしてはぐれてをりぬ花野みち 秋草に満ち、気持ちのよい風がとおりすぎていく花野。ややさびしい風情の秋の草花のつつましさは、人をやさしく招き入れる。この句、ふたりで花野で他の人たちとはぐれてしまったのだ。皆はどこか遠くに行ってしまったのか、姿がみえない。しかし、この句からは焦った心情は感じとれない。いや、そのはぐれていることさえも味わいながら花野の道をべつに急ぐ出もなく辿っているのだ。「あらあ、はぐれてしまったわ」「そうですね、他の人たちはもう先に行ってしまったかもしれないな」なんていう会話をしながら、芒やコスモスにふれながら、歩いていく。ひとりはさびしいけれど、ふたりではぐれてしまうのは悪くないかも、なんて思いながら、花野をゆっくりといくふたり。「はぐれる」という言葉が秋という季節がもつさびしさと相俟ってとても効果的な一句である。 女郎花たむけ仏間に野を広げ この句も秋の句である。校正のみおさんが好きな一句だ。仏前に女郎花を供えた。女郎花は野の花である。野に咲いていたものを斬ってきたのだろう。野原の荒々しい匂いがする。数本の女郎花を挿すだけで、一瞬風を感じ、野の風景を呼び込んだ。「野が広がった」のだ。校正者のみおさんが言うように「野を広げ」って素敵な表現だと思う。 ほかに、 アイスコーヒー刻が薄めてゆくばかり 崖線の土手裏返す葛の風 言霊は胡桃のなかの響かな 白菜の燃ゆるかたちに巻いてをり 幸せは大地すれすれ福寿草 本句集の装釘は、前句集『言霊』と同じ、君嶋真理子さん。 ひびきあうものをと御願いした。 タイトルは金箔押し。 表紙は、うすベージュ色。 見返し。 前句集『言霊』とおなじく一句組である。 花布は濃い茶。 栞紐はグレ-。 上品な一冊となった。 余生てふ輝くあした初山河 本句集の掉尾におかれた一句である。 著者の松本余一さんの思いがすべて籠められた一句である。 松本余一さま、 句集のご上梓おめでとうございます。 余生を大切に、さらにさらにご健吟に励まれますよう、お祈り申し上げております。
by fragie777
| 2022-05-20 19:43
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