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5月18日(水) 旧暦4月18日
わが家に咲いたカルミアの花。 いまあっちこっちで咲いている。 満開となると重苦しい感じとなるが、一花一花は愛らしい。 歩いて仕事場にむかう途中で、甲州街道に出る。 甲州街道が見えてくる真正面に「ポルシェ」の販売店がある。 普段はあまり注意もしないのだが、今日は美しい緑のポルシェに目が止まった。 ひときわ目をひく緑の車。 甲州街道の欅並木も青葉をかがやかせている。 みどりのオープンカーである。 ポルシェはときどき見かけるが、こんな色のポルシェははじめてだ。 かつて、山口百恵は、 ♫緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ♫ と歌ったが、これは緑のポルシェ。 あれっ、この緑色、どこかで見たような、と思ったら、 昨日、スタッフの文己さんがはいていたパンツだった。 目がさめるような緑のパンツをはいてさっそうと仕事をしていた文己さんだった。 新刊紹介をしたい。 俳人・髙柳克弘(1980年生れ)の『未踏』(2009刊)、『寒林』(2016刊)に次ぐ第3句集となる。 句集名「涼しき無」は、「子にほほゑむ母にすべては涼しき無」に拠る。 本句集の「あとがき」に、著者の句集によせる思いが明確に書かれているので、それを紹介しておきたい。 この一冊は『未踏』(二〇〇九年)、『寒林』(二〇一六年)に続く私の第三句集となる。二〇一六年春から二〇二二年春までに作った三百十五句をおさめた。この間に、自身の俳句についての考えを書きとめた『究極の俳句』(中公選書)を刊行したが、そこで「俳句は偏在の文学」と定義して、生や死にまつわる根源的な主題に、俳人もまた向き合うべきではないかと提案した。この句集に主題の明確な作が多いのは、私なりの挑戦だ。とはいえ、作者の意図は脇に置いて、読者の方には自由に鑑賞していただければ嬉しい。たとえば子供を詠んだ句が多いが、この句集に出てくる子供は、私の息子でもあり、戦場のみなしごでもあり、安寿厨子王でもあり、あるいは私自身でもあるだろう。 ぶらんこを押してぼんやり父である すでによく知られている一句であるかもしれないが、好きな一句だ。ただ、わたしは「あとがき」をよまずにこの一句にまずふれたので、高柳さんがまだ小さな息子さんと遊び場にやってきて、ブランコを押してやりながら、ふっと心は今取り組んでいる文筆の関心事に奪われている、そんな姿を思い浮かべて、最初に読んだときは、思わずクスッと笑ってしまったのである。さらに読んでいくと、下五の「父である」というのが意味深い。父という認識への稀薄さがあって、いや認識しているのだけれど実生活においてそれがなかなか伴わず、せめてぶらんこを押すことで父の役割を果たそうとおもって遊び場に来てみたのである。子どもは嬉々としてぶらんこに乗る。よし父のわれが押してやろうとはじめたが、ふっと心が子どもの背中をはなれてしまう。そしてぼんやりしている自身を見いだし、あわてて「父である」ことの自身の認識をとりもどすのである。わたしはこの一句に作者の家庭人であることへの屈託を感じてしまうのだ。良き父たらんとするが、身体がついていかない、世界の外に立っているような疎外感ともいうべきような。 本句集の担当は、Pさん。好きな句をたくさん挙げていたが、ここでは数句にしぼらせて貰った。 麗らかに育てよ父に尿掛けて 飢詰まる蟻の頭の黒光り ケバブ売る西日ぶ厚く削ぎ落し 故郷の障子に声の記憶あり 墓の蠅濡れたるものをよろこべり 胸うすき父を許せよ初湯殿 わが手もてわが足洗ふ緑の夜 麗らかに育てよ父に尿掛けて 父から子への呼びかけの一句である。ほかに「忘るるなこの五月この肩車」「胸うすき父を許せよ初湯殿」なども子どもへ父としてのわれを認識させようと働きかけている句である。つまり父である我は、おまえのことをこのように愛したのであると、おむつをかえ、肩車をし、一緒に湯にはいりもしたのだと。どれもいい句だ.素敵な父親像が立ち上がってくる。「ぶらんこ」の句で、身体が伴わないなんて言ってしまってごめんなさい。ぼんやりしていないでちゃんと父親として子育てに関わっている作者がいるではないですか。自身が関わった子育ての場面を子どもの心に焼き付けておきたい、いや、やがて成長して大人になった子どもへの父からのメッセージとして受け取ってほしい、そんなあえていえば悲痛な思いもみえてしまうと言ったらいいすぎだろうか。わたしが、子どもだったら、そういうメッセージ性のつよい句よりも「ぼんやりとして父である」の句の方に、より父親としての実像を感じ親近感をいだいてしまうような気がするのだけれど、どうだろうか。。。 ケバブ売る西日ぶ厚く削ぎ落し この一句はわたしも好きな一句だ。「ケハブ」は、トルコの焼き肉料理だ。味付けして焼き焼き肉の塊をナイフで削いで売る、美味そうなやつ。郊外などの出店でよく売られている。西日が当たっている店のケハブを、ナイフでそぎ落として売っている場面だ。「肉をそぎ落とす」のでなく、「西日をぶ厚く削ぎ落し」たというのがすごい。ケバブが売られていく一瞬の場面であるが、中七下五の措辞ですべての状況を言い尽くしている。場所も時間も客の姿も売り手の様子も、、、、無駄のない引き締まった一句だ。 故郷の障子に声の記憶あり この句も好きな句である。故郷へ帰った。古い家なので障子がなつかしい。そこで生活した場面が蘇る。この一句「声の記憶あり」で、詩となった。「声が蘇る」のではなく、障子が記憶している声があるのである。その白い障子紙に吸い込まれていた声が、障子から聞こえてくるのだ。白い障子が作者を視覚から聴覚へと誘っていく、その障子が発するやわらかな声にとりまかれて作者の幸せな子ども時代が蘇ったのかもしれない。 卓の上伏せし団扇の少し浮く 「あとがき」にあるように本句集は、「生死にまつわる根源的な主題」に向き合うべく編まれたものであるということからすると、この句などは軽いスケッチのような一句だ。しかし、わたしは好きである。こういう句も詠める作者なのだ。この団扇は、たぶん大分使い古されてやや反り気味であったりすこし変型しはじめているのかもしれない。だから卓の上でも「少し浮く」のである。この「少し」というのが実感を伴わせる。おおいに浮くのではなく、まだ少しだけで、そして日常的に重宝しているのだろう、だからひょいっとテーブルの上になど置かれているのだ。すこし浮いた団扇は、すこし浮いているが故に使いやすくなじんでいる。団扇はそんなに乙に澄ましていてはいけない、すこし浮き気味で人の心を誘うようでなければ親しみがわかないというもの。あなたのためにまだまだ役立ちますといって少し浮いている団扇。夏の生活の場面がさりげなく切り取られている。 わが手もてわが足洗ふ緑の夜 これも立ち止まる一句である。「緑の夜」という措辞で、わが手足の白さが際だってくる。わが手でもってわが足を洗っているのである。唐突であるかもしれないが、この一句を読んだとき、わたしはイエスが弟子たちの足を洗うという場面を思い起こしたのだ。弟子たちはイエスに足を洗ってもらうことによって聖別されたのであるが、この一句は、自身で自身の足を洗うことによって、世界に対して自身を聖別(?)せんとしている孤独な人間像を浮かび上がらせる。聖別がへんであれば、なにかに対する訣別でもいい。意を決してわが手によってわが足を洗っているのだ。背後に深閑とした緑の闇が迫っている。 「あとがき」に「この句集に主題の明確な作が多いのは、私なりの挑戦だ。」とあるように、そういうテーマ性をつきつけてくるような句がたくさんあり読みごたえもあり、刺激的な句集である。 もっともっと俳句を紹介したいが、それは読者の楽しみにまかせておきたい。 本句集の装釘は、和兎さん。 色はおさえて、紙の素材感を大切にした。 この活字は、本文にも適用させた。 ふらんす堂としては、はじめての試み。 型押しがしてあるのだが、この写真でわかるだろうか。 カバーをとった表紙。 見返し。 扉、カバーと扉は透明感のある用紙を使った。 クータ―バインディング製本ゆえにひらきがいい。 ここではわからないがクータ-の部分は白にした。 本文の活字は美しい。 句集名のみが立ち上がるようなスッキリとした一冊となった。 子にほほゑむ母にすべては涼しき無 句集名となった一句である。 さて、この句をどう読むか。インパクトのあるタイトルであり、またこの句も立ち止まらせる一句だ。読者は気づくかもしれないが、本句集において「父」はたくさん登場するが、「母」はこの一句のみである。子どもにたいして「父」のアピール度はたかい。やや悲痛なまでに。作者が、母ではなく父であるということから父の句が多い、とも言えるかも知れないが、母がもう少し登場しても悪くはない。それはまあ、どうでもいいことかもしれないが、この一句、最初に読んだとき、おもわず「ウッ」ってなった。わたしも子どもをもった母のハシクレであるが、この「涼しき無」をどう解釈したらいいのか、慈愛をもって子育てをしても子どもというものの所詮、母にとって「無」なのだ、と、しかし、この「涼しき」がなんともね、どう思います。この一句に対しての読者の方々の感想をうかがいたいな、まずは作者にかな。いやこれはこの一句としてまるごと味わうべきでつまんない解釈を拒絶しているものなのかもしれない。で、わたしはこの一句、嫌いじゃないのである。「涼しき」がいいのよねー。 句集上梓後の、著者である髙柳克弘さんの所感をいただいてますので、紹介します。 前の句集『寒林』が2016年刊行で、6年経って500句くらい溜まっていたので、そろそろこれまで作った句をまとめたいな~という軽い動機でした。315句を入れました!わが子をモデルにした俳句が多くて、「甘いぞ~」というご批判もあるかもしれませんが、何句かは良い句があるはずなので、読み通していただければ嬉しいです! そうそう、昨年刊行した児童文学『(そらのことばが降ってくる』(ポプラ社)は、俳句の魅力に目覚めた中学生たちの物語なのですが、中学生が作ったとして載せた俳句に、「数ⅡB」という中学では習わない単元名を詠みこんでしまうというミスがありました(近々二版が出る予定で、そこでは訂正を入れています)。小説の登場人物にも、そして「数ⅡB」という言葉にも申し訳がなく、捲土重来とばかりに、『涼しき無』の中に「数ⅡB」を正しく(?)詠みこんだ句を入れていますので、探してみてください! ということです。 みなさん、是非、挑戦してみてくださいませ。 なにやら考え深げな烏。
by fragie777
| 2022-05-18 21:08
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