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5月12日(木) 旧暦4月12日
神代水生植物園の杜若。 黄菖蒲も咲いていた。 藺の花も。。。 曇り日であったが、夏へと緑の世界は力づよい。 昨日のこと、仕事から帰って玄関のドア―を開けると、迎えてくれる愛猫・日向子の姿がみえない。 (あれっ?) 「ヒナちゃーん、ただいま!」って言って耳をすますが、しいんとしている。 日向子はちょっと気ままなところがあってたまに姿を見せないこともあるので、寝ているんだろうと思って二階へと上がっていく。 すると、かすかに鳴き声がする。しかも、かなり必死な鳴き声である。 (もしや!……) 案の定、ベランダに締め出されていたのだった。 わたしが大慌てでガラス戸を開けると、日向子は弾丸のごとく飛び込んで、一階へ駆け下りていった。 お腹がすいていたらしい。 朝の10時半ころから夜の8時近くまでほぼ10時間ちかくベランダにいたことになる。 昨日はそれほど暑くも寒くもなくどちらかといえば曇り気味だったので、助かった! しかし、日向子はすでに18歳。立派な老猫である。 「ヒナちゃん、ごめんね。ごめんね。」と何度も言って抱きかかえた。もとより心優しい猫である。 黙って抱かれていたが、許してくれたのだろうか。 疲れたこともあったのだろう。その後は二階の自分の場所でじいっとしていた。 心配だったが、今日はとても元気で食欲も旺盛だ。 わたしに怒っている様子もない。よかった!! 本当に粗忽者の飼い主である。命がかかっているのだからもっと気をつけなくてはと、ふかく反省した次第。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 218頁 2句組 著者の利根川啓一(とねがわ・けいいち)さんは、昭和19年(1944)東京都淀橋区生まれ、現在は埼玉県所沢市在住。平成20年(2008)所沢市の生涯学習センターの「俳句初心者講座」(のち「爽風句会」)にて俳句をはじめる。平成24年(2012)「雨蛙俳句会」(鈴木すぐる主宰)入会、平成29年(2017)「雨蛙俳句会」同人。平成31年(2019)俳人協会会員。本句集は、平成20年(2008)から令和元年(2019)までの作品を収録した第1句集である。z序文を鈴木すぐる主宰が寄せている。句集名となった「春疾風」は、平成31年(2019)に所沢市俳句連盟主催の俳句大会において新設された、第一回「角川『俳句』賞」を受賞された句による。この句について、鈴木すぐる主宰は、次のように書いている。 春疾風三富の畑捲り上げ 「三富」は、元禄七年川越藩主柳沢吉保の命により江戸時代に開拓された上富・中富・下富よりなる新田集落の総称である。三富は、関東ローム層による火山灰土のため土が細かく、春先の強い風が乾いた土を巻上げる。時には、三富一帯の空が暗くなることもある。啓一さんは、何時も下富や中富の辺りを一人吟行されており、雨の日も、風の強い日にも歩き「畑捲り上げ」の措辞を授かったことにより、臨場感のある作品となったのである。 (略)俳句を始めて十二年。干支を一周したのを機に、句集を編まれることを思い立たれた。啓一さんの句集を一句一句味わうと、深見先生の「花鳥諷詠・客観写生」を地道に勉強しておられる努力家であることが分かる。 序文でも触れられており、「あとがき」でも書かれているのだが、利根川さんは、かつてNHK・カルチャーラジオで深見けん二先生が講師をされた「選は創作なり 高浜虚子を読み解く」を受講され俳句の魅力を知り、さらに熱心に俳句に取り組まれるようになられたという。この「選は創作なり 高浜虚子を読み解く」は、わたしも深見先生からこのテキストをいただいている。虚子の花鳥諷詠、客観写生についてその本意がわかりやすく的を得て書かれているすぐれたテキストである。深見先生とこのテキストのことで何度もお電話でお話したことを思い出す。いまでも熱心に語られた先生のお声が耳に残っている。 本句集の担当はPさんである。 裁縫の妻の手見入る夜長かな のびのびと手足を伸ばす秋の昼 エアコンも炬燵も点けて老い二人 息白く箒目つけて掃きにけり 早春の野山彩る光かな Pさんの好きな句をあげてもらった。 息白く箒目つけて掃きにけり 寒い朝だ。この一句には、朝ということは詠まれていないがきっと朝だと思う。新しい一日のはじまりに箒目をつけて庭を掃く。箒の目がつけられたことによって大地が更新されていく。誰の足跡もない箒の目だけがそこにある大地。粛々とした感がある。そして息白くである。掃き清められた地に人間の体から白い息が吐き出される。その息もまた汚されることもなく、無言でひたすら息白く掃きすすむ。 底紅や力の限り老いを生く 句集を拝読すると、利根川さんは、3度の入院、手術をされている。現在はそれを乗り越えてお元気であるが、かなり大変であった様子が句集を読むとわかる。この「底紅」の句はそういう体験を経た著者の心からの思いであると思う。「底紅」の季語が、丹田に力をこめて老いを生きようとしている作者とよく響きあっている。「底紅」は木槿の花の一種であるけれど、この「そこべに」という言葉の響き、また、「底紅」という漢字表記、しかも木槿のなかでもひときわの紅の力で存在感をしめす花であること、そういうことすべてが、「力の限り老いを生く」作者を励ましているのだ。この句のすこし前に「底紅や今あるのみと今を生く」という句もあるのだが、わたしは後者の句の方が好きである。作者の生きようとする思いが後者の方がバージョンアップされていると思うのだ。 一日を一生と生く梅真白 「一年を手術に暮れて秋高し」という句があるように、つねに死を身近に感じながらの日々を送られた利根川啓一さんである。だから、「生」はひときわ尊いものとしてあるのだと思う。この一句も、今日与えられた一日をあたかも一生の時間のごとく生きるというのだ。ローマ帝国時代の哲学者のセネカの言葉をふっと思いだした。「われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する」。利根川さんは、一日の時間の一瞬一瞬を大事に豊かに味わいながら濃密に生きようとしておられるのだ。そうすることによって、生は十分に長くなりそれは人の一生に値する。そんな決意が「梅真白」という季題によって保証されている。 寒鰤の刺身角立つ氷見漁港 まさに写生の一句である。氷見漁港は、富山湾にある寒鰤で知られる漁港であるということ。恥ずかしながらわたしはこの句によってはじめて知った。その場でさばかれた寒鰤の刺身、それが「角立つ」っているということを詠んだのみであるが、寒鰤の生きの良さ、漁港にみちる一声、寒さのなかで働く漁港のひとたち、日本海の荒れた暗い海等々、いろんな情景が見えくる。この一句の面白さは、そんな情景を「刺身角立つ」という一点に集約させ読み手の目をそこに釘づけにしたことである。そこから下五の固有名詞としての氷見漁港をおき、一挙に景を広げたのである。漢字表記を多くして、句に緊迫感をあたえ、漁港にの名に「氷」があることによってさらに寒さを読者に与える。ただ事実を言っているようで決してそれだけではないのはまさに写生という方法にゆだねた表現の力であると思う。俳句ならではのいい句だとわたしは思う。 木漏れ日の一筋走る著莪の花 これも写生句である。「木漏れ日」という言葉はやや安易になることがあって難しい謂であると思う。しかし、この句は「一筋走る」で生きた。まさに「著莪の花」の咲くあたりの木漏れ日の様である。やや暗いところに咲く著莪の花である。そこに差し込んだ一筋の光。それを「走る」と表現したところで木漏れ日が命を得たのだ。 平成二十六年から三十年には、三度の入院、手術というかつて無い難儀に遭遇しました。幸いこれを乗り越えることができ今日を迎えていますが、入院中は俳句のお陰で随分気を紛らわすことができました。 このような中で俳句生活も十二年という節目を迎えた記念に句集を編みたいと思い立ちました。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装丁は、君嶋真理子さん。 つつましやかな利根川啓一さんのご希望は、「あまり派手にならないよう」ということであった。 タイトルは、デザイン案段階では、艶消しの金箔押しであったが、利根川さんはそのことで少し悩まれたのだった。 そして、「やばり派手になりすぎないように、とのことで黒で印刷することに決めました」と担当のPさん。 表紙は落ち着いたグレーの布表紙で文字は艶消し金箔。 見返し。 一本道ひたすら歩む暮の秋 句を詠むことで自らを励まし、奮い立たせていたのであろう。いま、啓一さんは病により、生きていることの有り難さを嚙みしめ、一日一日を丁寧に過ごしておられる。(鈴木すぐる・帯) 出来が上がりを手にされた利根川啓一さんは、「カバーの文字を、墨刷りにしてはやりよかったです。とても気に入りました」とおっしゃってくださったのだった。 所感やお写真はすべて遠慮された利根川啓一さんである。 第1句集上梓をされたいま、さらに第2句集の上梓をめざして、お元気でご健吟されることをお祈り申し上げたいと思う。 こでまりの花。
by fragie777
| 2022-05-12 19:32
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