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4月18日(月) 旧暦3月18日
からたちの花。 先日遊んだ国立・谷保にて。 いまにも飛び経ちそうな軽快感のある花である。 からたちの木にこんな感じで咲いているので気づかないで通りすぎてしまうことある。 わたしは、「からたちの花が咲いているよ」って教えて貰ったけど、あとから来た友人は気づかなかったみたいだ。 「あーあ、見られなかった。」と残念そうだった。 歩いていつものように音楽を聴きながら、仕事場にむかう。 軽快に歩きはじめて5分もしたころだろうか、うしろから「あのう、すみませ~ん!」「すみませ~ん!」と声がする。 振り返ると、自転車にのった若い女性が、「リュックの口、メッチャあいてる-!」と叫んで通りすぎっていった。 急いで背負っているリュック鞄をみる。 あらら、いやだー!! 鰐の口みたいにぱっくりと開いて、中のものが大方姿をさらしている。 つまりジッパー形式のものなのだが、ジッパーがかけてない状態。 よくも落ちなかったわ。。。 急いでジッパーをして、すでに先に行ってしまった自転車の女子に、 「ありがとー!!」って絶叫した。 その女子半分振り返って手をあげた。 だから、もう一度 「ありがとー!」ってわたし。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯あり 190頁 二句組 蛞蝓の長き腸透けにけり 杉原さんは現場でしっかりものを見て、写実的な句を詠む作者である。実生活においては、多忙なビジネスマンであり、妻子によく気を遣う良き家庭人たらんとしている人である。そんな壮年の人がこれほど読み応えのある句集を出されたことを喜ぶ。(岸本尚毅・栞より) 著者の杉原祐之(すぎはら・ゆうし)さんにとっては、第1句集『先つぽへ』(2010)につぐ、第2句集となるものである。杉原祐之さんは、1979年東京生まれ、現在は東京・国分寺市在住。「慶大俳句」を経て、2001年「惜春」「山茶花」に入会、「惜春」を退会し、「夏潮」に参加。2021年「夏潮」にて「黒潮賞」を受賞されている。現在は、「山茶花」同人、「夏潮」運営委員。俳人協会会員。 前句集『先つぽへ』は、20代の作品を30歳になられたの機にまとめられたものである。今回の句集について、杉原さんは、「あとがき」でこのように書いている。 本句集は第一句集『先つぽへ』を出版した二〇一〇年から二〇年四月一日までの凡そ十年間から三百三十一句を収録した。ちょうど、この間に私は結婚し家庭を持ち、二女一男に恵まれるとともに、急な父との別れもあった。仕事上では陸上自衛隊対応の営業を経験しつつ、管理職に就くことが出来た。一方、俳句についてはなかなか研究活動など出来ず、同時代の俳人の活躍を指をくわえて見守る日々が続いた。 この十年間、「家庭」「仕事」「俳句」の三方に言訳しつつ、どれも中途半端になってしまっているという自責の念も抱えつつ、三十代を生きてきた記録としての一集をまとめてみた。 なんとも多忙にして人生においてかけがえのないさまざまなことがその身におこった10年間であったのだ。それでもこうして俳句を作りつづけ、30代の作品をまとめておくというその姿勢と意欲が素晴らしいと思う。 栞を岸本尚毅氏が寄せている。タイトルは「現場の感じをつかむ」。抜粋して紹介したい。 パッと見に面白い句をいくつも拾うことができる。たとえば、 飛魚干すペットボトルを鳥除けに 岸釣の人にも握手町議選 ミニバンを下りてなまはげ襲ひ来る 駐屯地貫く川に鮭遡る 武者返しまで達したるなめくぢら これらの句の面白さは一義的には事柄の面白さではある。しかし、事柄の面白さを殊更に強調することなく、無駄のない表現で句に仕立てている点は、作者の手腕によるところである。(略) 杉原さんの句の書き方は、失礼な言い方をすれば、素っ気ない、身も蓋もない、という印象を受けることもある。それは最小限の言葉、もっとも端的な表現を志向し、選択しているからである。決して雑なのではない。俳句の世界を見渡すと、作者の気持ちをきめ 細かく表現することに長けた作者は多く、そのような作風が評価されがちな面はある。杉原さんのような素っ気ない書き方は、世間の評価という面では損な書き方かもしれない。 しかし、次のような句を見ると、杉原さんが近代俳句の王道を歩んでいる、という思いがする。 大年の浜の遍路の杖の影 幸せに見せるリビングさくらんぼ 蛞蝓の長き腸透けにけり ほかにもたくさんの句をあげて、評されておられるがここではその一部にとどめる。 以下、わたしの好きな句よりいくつか。 また二泊三日の鞄西行忌 この旅鞄は、家族旅行や観光のための鞄ではない。仕事のための出張用の鞄である。この句の上手さは、「また二泊三日の鞄」とさりげなく詠まれている叙法である。「二泊三日の旅や」とかしないで、「鞄」と具体的なものを詠むことによってその旅の内実を鞄に語らせている。わたしたち読み手の意識がその鞄へと集中し、いささか疲れた感じであるが使い勝手のよさそうな鞄、決して大きくはなく二泊三日という出張にふさわしいものを思いうかべたりする。この句、「また」が巧いと思う。この「また」には、「ヤレヤレ」といった作者のあきらめともつかないような小さな嘆きがこめられていて、宮仕えという宿命を背負った人間のぼやきがきこえて来る。しかし「西行忌」の季語がいい。旅に生き旅に死んだ西行へ思いを馳せることによって、現代社会の歯車のなかでさまざまなものを背負いながらあくせく生きる人間としての我を救っているのだ。出張つづきの日々、上司と部下との間の板挟み、等々労苦の多い日々にあっての「西行忌」である。わたしは作者が「西行忌」という季語をここにすえたことをを作者の矜持とも受け取りたい。つまりは詩歌の伝統につらなるひとりの現代人としてのつよい思いをここに寄せていると思えるのである。 この一句、作者の心情などはすこしも述べられておらず、全てが具体的なものをさりげなく詠んだに過ぎない。しかし、わたしには作者の心情がヒシヒシと伝わってくる一句である。 畳むべき洗濯物や雛の間に この一句は作者の生活風景だ。三人のまだ小さい子どもを育て共働きで働き、妻は働きながら夜は資格をとるための勉強をしているという。この句そういう現実的裏付けを通して鑑賞しなくてもいいと思うが、わたしは作者のことを少し伺っているのでさらにああ、そうなのかと思った次第だ。この句の面白さは、「雛」という季語に乱雑におかれている洗濯物をもってきたところだ。しかし、俳句の上で取り合わされたものではなくて、作者の現実だ。岸本尚毅氏が、栞で「杉原さんの句の書き方は、失礼な言い方をすれば、素っ気ない、身も蓋もない、という印象を受けることもある」と書かれているが、この句などまさにそうなのではないか。「雛」という季題がもつところの情趣は見事に無視されているように思える。とりこまれてそのままに洗濯物が雛の間を占拠しているのである。この句の味わいは、どんなに忙しくてもお雛さまを飾っていることであり、そして洗濯物が我が物顔にそこにあってもその部屋は雛が中心の「雛の間」なのだということ。「雛」という季題がきっちりと尊重され詠まれているのである。また、雛の間にあっては欲しくないのだけど、生活の都合上やむを得ないのだという作者のやや恐縮した思いが「畳むべき」に籠められている様に思う。「乱雑な」ではなく、あくまで「畳むべき」なのだ。 飲みに行く我らを映す花氷 これも面白い一句である。サラリーマン生活の一コマだ。「飲みに行く」は、誰でも分かるだろうけど「水を飲みに行く」ことでは勿論ない。仕事をおえて同僚たちと酒を一杯「飲みに行く」のである。この句の面白さは、非常なる省略である。「飲みに行く」でいいのかしら、もっと説明しなくてはと思う方もあるかもしれないが、「飲みに行く」と思い切って詠んだところがわたしは面白いと思う。季語は「花氷」。デパートやホテル・劇場・レストランなどにおかれた氷の柱である。大きな室内に装飾用もかねて涼しさを呼ぶためのものであるからかなり大きなものだ。人間が映るほどの高さは十分にあるだろう。しかし、わたしは試したことがないから映したこともないのだけれど、この句を読むと、きっと映るんだとおもった。仕事から解放されて同僚たちと飲み屋にむかっている途中に花氷があった。俳句でもつくっていないとあの氷の柱が「花氷」と呼ぶなどということもなかなか気づかない。ましては同僚たちの心はすでに飲み屋へとむかい気もそぞろである。作者は「花氷」に目を留めた。そしてそこに映っている自分と同僚達の姿をみつけたのである。「花氷」という季語が作者を呼び止めたのかもしれない。「花氷」に自身をふくめた都会で働くサラリーマンたちの一瞬の風景を見いだしたのである。すこし面白がっているような作者も見えて来る。実はなんでもそこにあるものを映してしまう「花氷」だ。 「四十にして惑わず」とあるが、まだまだ家庭も仕事も俳句も迷い続けることばかりである。俳句についても自身の力不足に苦しみながらも対面やオンラインで句座を共にする仲間に励まされながら何とか続けることが出来た。惑いつつも一歩一歩自分の出来ることを日々積み重ねていきたいと思う。 ふたたび「あとがき」より抜粋した。 本句集の装釘は、和兎さん。 不思議な感じのする装画を用いた。 それを、著者の杉原祐之さんは気に入られたようだ。 タイトルはツヤなしの金箔。 表紙。 表紙にもうっすらと不思議な絵が・ 栞の用紙の色の名前は「ソバ」であり、あの食べる蕎麦の色らしい。とてもいい色。 見返し。 扉。 句集名の「十一月の橋」は、 水のなき十一月の橋渡る からとった。十一月は長女と次女の誕生月でもあり、思い入れのある季節である。乾いた叙情が続く句群に相応しいのではと思っている。(あとがき) 本句集を上梓された杉原祐之さんに今のお気持ちをうかがってみた。 10年間の活動を振り返ることが出来て良かったです。特に子供のこと、仕事のことで悩んでいる自分の姿を冷静に見つめ返すことが出来ました。これは、若いうちから俳句に親しんでいることの功徳だと思います。 これからも、20年以上にわたり親しんできた俳句や季題、仲間たちを大切にして精進していきたいと思います。 杉原祐之さん 風鈴や妻の名をさん付けで呼び わたしの好きな句である。いいなあ、こういう関係って。ニックネームで呼び合うのも、敬称なしで呼び合うのも、名前を呼ばない関係(ねえ、とか、おい)もそれぞれの関係性においてそれがよき関係を保てるのであれば、要はどう呼ぶかは大きな問題ではないのかもしれない。とくに夫婦の関係においては野暮なツッコミはしない方がいいと思う。でも、お連れ合いをこう呼ぶ杉原さんって素敵だな。「風鈴」の季語がいい。花の名前とかもってくると変にあまったるくなるし、「風鈴」の季語で、やや心許ないような男の気持ちもみえてきたりするんだけど、どう思います? まだ帰らずにいるヒドリガモのつがい。
by fragie777
| 2022-04-18 20:36
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