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4月7日(木) 旧暦3月7日
朝、新聞を取りにいって、「あら、ものの芽!」と気づいて撮ったもの。 正確には「名の木の芽」というのかな。 なんの芽だか、わかります? 可愛らしいでしょう。 「えごの木の芽」である。 初夏に白の星形のよい香りの花を咲かす。 好きな木である。 こちらは何の木でしょう? これは「令法の木の芽」。 やはり、初夏に渋いけれど典雅な趣のある花を咲かす。 ほかに山法師やアオハダやアオダモなど山の木があるのだが(なんせ歩いて五歩の雑木林?である)、芽吹きがはじまるとあっという間に美しい若緑色になる。 その展開(?)の速さは目をみはるほどだ。 新刊紹介をしたい。 百句シリーズの一環として刊行。 俳人の山田佳乃氏の執筆によるものである。もとよりお母さまである山田弘子氏が生前とりくまれておられたものを引き継ぐかたちで佳乃さんは、俳誌「円虹」に「杞陽研究」を執筆されていたのであるが、それをシリーズのために加筆・訂正・削除をして一冊のかたちとなったものである。一冊にするにあたって、山田佳乃氏はたくさんの時間と力を注がれたとおもう。 京極杞陽(本名 高光)は明治四十一年二月二十日、東京市本所区本所亀沢町に生まれる。父高義(子爵)、母鉚(りゅう) の長男で豊岡藩主の十四代目当主(子爵)である。明治十七年、祖父高厚に子爵が授けられ貴族院議員に当選、父高義も貴族院議員を務めていた。この父と母、祖母と一人の姉、弟妹各二人で本所の古い旗本屋敷に住んでいた。 杞陽は大正九年に学習院中等科に進むが、大正十二年の関東大震災で生家を焼失し十五歳にして姉を除いた七人の家族を失うこととなった。 巻末の解説のはじめの部分を紹介したが、なんとも時代と天変地異に翻弄された激動の人生の出発だったのである。そんな過酷な運命にもかかわらず、俳句は肩肘をはっていない伸びやかさがあり自在だ。 本文からいつくかとりあげて紹介したい。 美しく木の芽の如くつつましく 『くくたち』 上巻 昭和十一年四月二十五日、外遊先より帰途に立ち寄った伯林(ベルリン)日本学会講演会で、杞陽は虚子の講演を聴き、翌二十六日、日本人会による俳句会に出掛ける。 虚子はこの句会に出された掲句に注目し、京極高光という名乗りをした杞陽を見出すのである。 『くくたち』の序文で虚子はそのときの出会いを回想している。「私があなたと許り話しするので外の諸君は皆黙つてゐたやうに記憶します。」 比喩と形容詞を効果的に用いた洗練された一句である。(昭和十一年作) 虚子と杞陽との出会いはこの一句にてなされたのだ。京極杞陽といえばすぐにこの一句がうかぶ代表句だ。 うまさうなコップの水にフリージヤ 『花の日に』 フリージアは春先に咲く明るい色の花。いつも使っているコップに庭に咲いた一輪が差してあったのだろう。そのコップの水を飲みたいと思ったかどうかはわからないが、水の輝きに心惹かれるものがあったのだろう。 水仙やチューリップとは違う、少し余所行きの感じがするフリージアという花がこの句に古さを感じさせない。 偶々目にしたどうということのない花の景であったが「うまさうな」という措辞によって、「水」そのものが読者の感覚に迫ってくる。 (昭和三十八年作) わたしの好きな一句である。水もコップもフリージヤもかがやいている。 花鳥諷詠虚子門但馬派の夏行 『露地の月』 昭和四十二年八月一日、雲沢寺へ三十二名の夏行。風のつつぬけの簡素な佇まい、自然のままの庭の景。「一日働かざれば一日食せず」の禅の言葉通り、供華から田畑のものまで和尚様が一人で育てるという寺であった。 投句一回目が十一時半締切五句、二回目が三時半締切で十句という行であった。 筆者の叔父は虚子門但馬派を今も名乗る弟子であるが、由来がこの句からきているのかと感慨深かった。漢字の連なる句であるが、虚子門但馬派という誇りをもっていなければこのような句は作れないだろう。 杞陽の虚子に対する敬愛が感じられる一句である。(昭和四十二年作) この文章に出てくる「筆者の叔父」とは、俳人の谷本和夫氏であり山田弘子氏のお兄さまにあたられる。そして「虚子門但馬派」のお一人だ。谷本氏の庭には、杞陽の句碑が二基建っているという。またこの庭は俳人山田弘子の実家の庭であった。 一期かな彼岸桜に一会かな 『露地の月』 スリッパもあたたかさうに父の部屋 『さめぬなり』 この「スリッパ」の句について、「当日は春の暖かな晴れた日で、弘子宅に立ち寄った杞陽が日差しの中にスリッパが並んでいた情景を見て「あたたかさう」と言ったそうだ。それを即一句にした。短冊などを書くことをあまり好まなかった杞陽に伯父が揮毫を頼み込んだという。」と山田佳乃氏の解説がある。 汀チャンにどの冬山の名教へん 『露地の月』 昭和四十四年十一月二十三日、豊岡に虚子句碑が建立された。〈廃川に何釣る人ぞ秋の風 虚子〉この虚子の句は昭和二十年十一月十日に豊岡を訪れたときの句である。多くの来賓が招かれ盛大に除幕式が行われた。百六十余名が固唾を吞んで見守る中、淡いグリーンのスーツを着た虚子の孫である稲畑汀子が除幕をとり行った。当日は句会が行われ、掲句はその折の出句である。 豊岡で汀チャンと呼べる俳人は杞陽しかいないだろうけれども、晴れやかな喜びと軽やかな心持ちが感じられる杞陽らしい挨拶句である。 (昭和四十四年作) 「汀チャン」と詠まれた稲畑汀子氏は、すぐる2月27日に亡くなられた。本著を手にとっていただきたかったと思う。本著を通して読むと、京極杞陽という俳人は、虚子にとりわけ愛された俳人であり、また杞陽も虚子をこころから敬慕した俳人であったことを思う。ゆえに「汀チャン」もその関係に於いてとても自然に詠まれたのだ。関係の濃密さをおもわせる一句だ。 巻末の解説では、松本たかしと杞陽とのやりとりなどが紹介されていて面白い。一部を紹介すると、 たかしは「杞陽さんは極く自由に物を考へる質の人らしい。主義なんかない、といふのは、杞陽さんの語調に依ると、むしろそんなものは邪魔になるばかりで必要を認めないといふやうにさへ受取れる。」と評している。 杞陽は「心といふものは何にでも在ると云へば云へる。把へ難いのは心ではない、ものの外表─皮相である。真に皮相を把握して完全に表現出来たら、それは大したことに違いない」と唱えている。 「把へ難いのは心ではない、ものの外表─皮相である。」という杞陽の弁が興味ふかい。また虚子と杞陽のこまやかなやりとりなども記されている。 虚子の逝去によって〈誰が為に花鳥諷詠時鳥〉と詠んだ杞陽であり、「「木兎」の休刊まで考えた杞陽であったが、虚子の教えを守り伝えるという使命感を持ち虚子門但馬派を自負しつつ後進の指導と研鑽の日々を重ねていくのである。」と解説にある。 まさにこの一書をとおして、京極杞陽は、「虚子門但馬派」としての自負を生涯において貫いた俳人だった、ということをわたしたちは知るのである。 「虚子門」のなかでもとりわけ人気のある京極杞陽という俳人をこの「百句シリーズ」に加えることができて嬉しく思っている。 先頃、髙野素十の著作権者である髙野輿一郎氏とお電話でやっと連絡がとれた。 ご体調をくずされて入院をされているのだ。 お電話を入院先からいただいた。 そして、ふらんす堂文庫の髙野素十句集『空』を一冊是非に欲しいとおっしゃる。 じつは、この句集はもう品切れで在庫が一冊もないのだ。 汚れた本でもいいということだが、返品本もない。 「どうしてもということであれば、Amazonで古書として売られています。高い値段ですが、購入できると思います」とAmazonの見方などを説明して電話を切った。 Amazonを検索してみるとあるにはあった。結構良い値段だ。 しかし、輿一郎氏はかなりのご高齢である。値段はともかくとしてAmazonで買えるかしら。 わたしはふらんす堂のどこかに『空』がないかどうか、パートのTさんに頼んで捜して貰った。 するとさすが見つけることが上手なTさん、「一冊だけありました」と見つけてくれたのだった。 みれば綺麗な一冊だ、さっそく輿一郎氏に電話をした。 「ありました、送ります」と。 すると輿一郎氏はことのほか喜ばれて、おっしゃったのが、この一冊はアメリカに住むお孫さんに送られるということだった。 ご息女はお医者さまでアメリカ人の方と結婚をされてアメリカ在住である。 「その孫はね、なんと日本文学をやると言ってるんです。だから孫にぜひこの本をよませてやりたくて」 「まあ、そうだったんですか。。それはいいですね。ひいお祖父さまの俳句を読んで、俳句を作るようになられるといいですね。」 「ありがとうございます。さっそく送ります」と輿一郎氏。 その話を聞いて、天上の素十こそが喜んでいるのではないか、そんな風に思ってわたしはちょっと楽しくなったのだった。 雨に濡れて燃えているような春落葉。
by fragie777
| 2022-04-07 20:09
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