カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
3月31日(木) 雷乃声発(かみなりすなわちこえをはっす) 旧暦2月29日
春風に吹かれている白鷺。 桜咲く季節は、仙川は菜の花がかがやく。 3月も今日でおわり。 わがaiのアレクサが言うところによると、今日は「耳の日」なんだって。 331(みみい)ってことかな。 最近のわたしは、ニュースを耳から聴くことが多い。 「アレクサ、ニュースお願い」っていうと、 「kimikoさん。今日のニュースをお知らせします」って言って、ニュースが語られるのである。 食事の支度などをしながら、ニュースを聴くことができることと、言葉をとおして情報がストレートに入ってくるシンプルさがある。 映像による現実把握ということも大事であるが、戦争の場面などあまり悲惨な状況を見続けると人体(精神)に影響を及ぼすこともあるので、映像を見続けることは避けたほうがいい。 そんなわけで、もっぱら朝晩、わたしはニュースを聴いている。 また、歩いて出社するときも自転車のときも、おおかた音楽を聴いている。 だから、おおいに「耳」にはお世話になっているのである。 新刊紹介をしたい。 菊判変型ハードカバー装帯なし 228ページ 二句組 河内文雄(こうち・ふみお)さんの第3句集となる。令和2年(2020)に第1句集『美知加計(みちかけ)』、令和3年(2021)に第2句集『美知比幾(みちひき)』につづいての刊行となる。そしてもうすでに次の句集の原稿を拝受している。連続して句集を上梓されることについては、「あとがき」にも書かれているようにひとつの実験的な試みでもあり明確な意図がある。 「あとがき」を紹介したい。 詳しい顛末は第一句集『美知加計』のあとがきに述べておりますが、私は脳梗塞の後遺症を俳句で治しました。テレビでは、ただ聞き流すだけで英会話をマスターできる方法が繰り返し宣伝されていました。べつにそちらの向こうを張るわけではありませんが、今回の「宇津呂比」および、それに続く「止幾女幾」「真太太幾」の三部作は、ただ目を通すだけで失語症の治療となることを期待して刊行しています。いわば、飲み薬ならぬ「読み薬」です。 ご自身の病気体験によって、俳句が脳梗塞の後遺症の治療に役に立つという手応えを得た河内氏は、「読み薬」としての句集を作成するという試みを始めたのである。河内氏ご自身は医師でもある。 通常の句集は長年にわたる句業の中から厳選した佳作を自選して編まれています。しかしそれでは、読む人の脳内に新しい神経のネットワークを構築することが出来ません。やはりそれは、言葉との格闘の道程を赤裸々に示すことでしか成し得ないのではないか? もちろんすべてを包み隠さずさらけ出すのは、かなり恥ずかしいことです。それは例えば、銀座の中央通りの端から端まで尻を出して歩くようなものです。なぜそのようなことをしなければならないのでしょう? それは私が、事実の前には謙虚であれ! という科学の世界に、半世紀以上身を置いてきたからに他なりません。 そして、 私は俳句の大前提は「韻・季・切」の三つであると理解していますので、その根本的なルールの範囲内で、なおかつトレーニングのために三六〇句すべてを十三字で表記するという制約を自らに課しました。「宇津呂比」ではまだまだ言葉に振り回されていますが、徐々に脳内ネットワークが再構築され、言葉を手なずけていく過程が記録されていくことと思います。 いままで誰もやったことのないような試みである。また、遊びこころ満載で、たとえば、目次など、 第1句集から漢字一文字で項目立てをしてある。 今回なら、「和・加・与・太・礼・曽・津・弥・奈・良・武・宇」12項目からなる。 この漢字を最初から読んでみていただきたい。 なにか気づくことがないだろうか。 そうです、「わかよたれそつねならむう」。 「いろはにほへと」が漢字表記で記されているのだる。 当然、第1句集からはじまって、第2句集を経てのものである。 さまざまな制約を課しながら、俳句で実験的試みをされているのである。それも、病気療法としての試みなのである。 作品を紹介したいが、まずは担当の文己さんが選んだ句を紹介したい。 人日を無き事とする猫であり 白魚のみづの形して何とやら 石垣の崩れに春を惜しみけり 手触りの繭の記憶の薄れゆく 月見草おとなになるを喜ばず こうして紹介すると、なるほどすべてが13文字より成っている。「目を通すだけで失語症の治療となることを期待して」編まれた一書であるとしたら、一句をとりだして、鑑賞することがいいのかいけないのか著者の意図からはずれてしまうのかもしれないが、句集となって世にでたからには、どう詠まれても腹をくくってもらいましょう、ということで、勝手に鑑賞をしてしまいましょう。 石垣の崩れに春を惜しみけり 石垣が崩れている、よく目にする光景だ。都会ではなく、山里などの自然が豊かで人の暮らしも活発であるそんな場所だ。そういうところって石垣というものが必ずといってよいほどある。晩春のあるとき、目に親しい石垣の崩れがいっそう激しくなっていることに気づく。いつかは崩れ去ってしまうか、あるいは不安定なままの状態で持ちこたえるか、そんな石垣である。うららかな春の日もおわり、命のエネルギーがさらに活発になっていく夏がやってくる。石垣の崩れをとおして、作者は日ざしの優しくあたたかだった春を愛おしんでいるのである。石垣の崩れって、もうそれは過去のものであり、すこしづつ失われていくものである。 薄氷に見えざる彩の宿りけり これはわたしが気になった一句である。「見えざる彩」が「宿っ」たということ事態、矛盾しているのではないか、と最初思った。見えないものは見えないでしょうと。この「彩」は、「いろ」と読ませるのか。ただし、「いろ」であっても「色」ではなくそれは多分「採光」のことなのだろう。一瞬のひらめいてすぐにきえてしまう「いろ」であり、それは色では表現出来ない色をもった光なのだ。しかと目で確認できなくてもたしかにあるもの。宿っているものが「薄氷」と聞けば、作者たしかにその「彩」を見つけたのだ。「薄氷」だけがもつ特権だ。 夫々の雨滴に映る春さまざま この句も面白い。小さな雨滴がとらえた「春」というもの。木々の枝や葉に雨があがっても雨滴となってキラキラと光っている様はわたしたちはよく目にする。作者はその雨滴一つ一つに目をとめたのだ。よく見れば、雨滴一つ一つすべて映し出している世界は違うのである。とくに色彩豊かな春の季節は、雨粒もまた、色彩豊かなものだろう。「春さまざま」とおおざっぱに言い放っているようであるが、この春さまざまには実景の裏付けがあるのである。 公魚の湖より出づる丸きあな これは「丸きあな」で笑ってしまった。たしかに丸き穴からよねえ、公魚が釣れるのは。そしてこの「丸きあな」はあまりにも平然と澄ましかえって下五におさまっている。面白いのは、「湖より出づる」と言いなして、あとから「丸きあな」とおくその叙法だ。湖の丸き穴より「出づる」では、当たり前だが、こう詠むことによって丸き穴が断然リアルに迫ってくる。 校正者のみおさんは、「春眠といふ粘膜のふちにゐる」が好きだということである。たしかに面白い一句である。 本句集の装釘は、今回は君嶋真理子さん。 シンプルでスタイリッシュな一冊となった。 裏には自選15句が配されているが、すべて13文字によるものだのでこんな風なレイアウトが可能である。 表紙。 鮮やかなブルーが差し色である。 夜は夜をうは書きしつつ薪能 上梓後の感想をいただいた。 子どもの頃、綴り方教室と言うものがありまして、「文章は目に見えるように書け」と、繰り返し教わりました。爾来半世紀以上、前期高齢者になってから、ひょんなことで俳句をはじめましたが、いまだに、「俳句は眼前の一瞬を切り取れ」と、指導されています。 確かに情報の85%は目から入り、10%は耳から入りますから、人間の五感の中で視覚と聴覚の占める割合は圧倒的に大きく、残りの5%を味覚、嗅覚、触覚で分け合うという、コックさんや板前さんの嘆きそうな構造となっています。それはまた、俳句の写生至上主義といかにも相性の良さそうな図式です。 しかし、と、往年の綴り方少年は考えます。人間の精神活動は、せんじ詰めれば結局のところ、科学・宗教・芸術のいずれかに収斂して行くのであって、道は違えどもその目指すところは同じであると。そしてそれは、物事の本質に迫るということに他ならないと。 芸術の一分野である文芸の、さらにその一角を占める俳句は、韻・季・切を拠り所として、言葉では表しがたい物事の本質に、言葉を以て肉薄していくことを使命としています。 そのような観点から言えば、情報のインプットはどのような形で行われたとしても、それを受け止めてからの自分ならではのアウトプットのほうが、はるかに大事なのではないかと思い至ります。 今はもう余裕をこいて偉そうなことを言っていますが、この「宇津呂比」を編む頃は、丁度そのような考えを実作に落とし込む、トライアンドエラーの真最中でした。中途半端な句が多いのはそのせいだと思います。古希を過ぎて、新人としてもがく自分を見ることが出来るとは、俳句ってつくづく良いですね(笑) ![]() 河内文雄氏
すでに次の句集「止幾女幾(ときめき)」の編集をおすすめしている。
![]()
by fragie777
| 2022-03-31 19:54
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||