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3月28日(月) 旧暦2月26日
仙川駅前の桜も満開である。 老木であるがみごとな枝振りだ。 こちらの老木の桜は数年前の暑さにやられてしまって大分さびしい様子となってしまったが、なんとか頑張っている。 右側は若木の染井吉野、これから大きな木となっていくだろう。 この木の下でこうして待ち合わせをすることが多い。 夏は木蔭となって涼しく、冬は日当たりがよくて暖かい。 今日は真っ青な空である。 わたしは今日は3度ほどこの桜の下を行ったり来たりしたのだった。 今日届いた「俳句」四月号に、第12回田中裕明賞の受賞者である如月真菜さんによる「現代俳句時評」は、小島明句集『天使』のことからはじまる。 タイトルは「遺句集とオマージュ」。 如月真菜さんは、句集『天使』を評することから、田中裕明、画家有元利夫、波多野爽波、あるいは自身のことなどに思いをめぐらしつつ、「俳句をつくること」の意味をとい、「遺句集」がわたしたちにあたえてくれるものにふれている。 すこし抜粋する。 有本利夫の表紙絵にハッとさせられる小島明の『天使』(ふらんす堂、2021年11月)。この句集は彼の第一句集にして遺句集だ。 銀紙のやうな二月の海見えて 明 たかぞらは無季のごとしや鳥帰る 〃 花冷えのみどりを灯す非常口 〃 この人とゆくべき冬の泉かな 〃 一読して、彼が好きだった俳人は誰だか言い当てられそうだと思った。 そして小島明さんが敬愛していた田中裕明の俳句にふれ、ご自身もよく見にたち寄ったという有元利夫について触れている。「八〇年代に青春を過ごした者、美術を志した者には、今なお心を打つ圧倒的な才能の持ち主だ」と。 現在、世界が不安と孤独に覆われる中、私もまた小さくて孤独で無名だと知らされる。俳句をやっていても何もできることはないのだと。 文芸の小なるを思ふ年の宿 裕明 しかしながら、俳句を作るということ、誰かの句を読むということ、それは誰か自分以外の他者に興味を持つということだ。 (略) 「遺句集」という存在は、完結してしまった俳人のものというマイナスイメージが強いが、実は今生きている私たち読者に、過去への新たな視点をくれるものでもあるのだと次の句は教えてくれる。 遺句集といふうすきもの菌山 裕明 この小島明句集『天使』については、西村麒麟さんが、そのブログでも取り上げてくださったことを知った。 聖フランチェスコの小鳥来たりけり 草の実や傘差すほどの雨でなく 全集の全一巻のあたたかし 失ひしもののかがやく冬の蝶 などの句をとりあげて鑑賞をし、 田中裕明を敬愛していた事がよく伝わってくる、美しい句集でした。 と書かれている。 この句集『天使」については、先頃高橋睦郎氏とお話をする機会があって、そのときこの句集のことが話題になった。 睦郎氏も評価されておられ「いい句集だった。早世が惜しまれる俳人である」とも。 「それでは、ふらんす堂通信に句集『天使』について、書いてください」とお願いしたところ、「いいですよ」と快諾をいただいた。 4月に発売となる「ふらんす堂通信172号」に寄稿をしてくださっている。 文章の他に句集より50句抄出をされている。(30句でお願いしたのだが、50句となってしまったということである) 遺句集が読まれるということ、それはその作品が過去のものとならず、ふたたび読み手の心のなかに命を吹き返すのであるということ、句集『天使』の著者小島明さんは、早世を惜しまれたが、いろいろな人にこうして読まれるたびに彼は生き返っているのである。 如月真菜さんは、こう書いている。 「俳句の中では、今生きている私たちだけでなく、すでにいない俳人たちも生き続けていて、わたしたちと繋がることが出来る」と。 仕事場への出勤途上で、出会った野良猫の大あくび。
by fragie777
| 2022-03-28 19:03
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