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3月11日(金) 東日本大震災の日 旧暦2月9日
国立・谷保天神の梅。 今日は、東日本大震災忌である。 2011年のことであるから、すでに10年以上経ったことであるが、震災の記憶は生々しく蘇る。 今日の段階でなお非難生活を余儀なくされている人は、およそ三万八千人以上おられるということだ。 歩いて仕事場に来る日が多くなったからなのか、ことしは梅の花をあちこちで見かける。 自分の生活範疇にこんなに梅が咲いていたとは、と思うくらいに目にはいってくる。 去年までは、神代植物園に行ったり、国立の谷保天神に行ったりして、梅を見に行くんだという意識がつよかったが、わたしの住んでいる身近にこんなにも梅を咲かせている家が多いということを改めて認識したのだった。 梅を愛する人が多いということも。 ちなみに、わたしの父の名前は「梅吉」、最初に飼った猫の名前も「梅吉」、 って、関係ないか。。。。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 58頁 俳人・渡辺鮎太(わたなべ・あゆた)さんの、『蕉門の人々─その発句と生涯』につぐ評論集である。60頁足らずの著書であるが、「蕪村入門」としては恰好の一冊である。本文以外に著者による「まえがき」と「あとがき」「収録句索引」を付す。 「まえがき」を紹介しておきたい。 この拙文は、与謝蕪村の発句を挙げながら、その句の特徴と生涯を見ていくものである。 菜の花や月は東に日は西に 不二ひとつうづみ残してわかばかな 春の海終日のたり〳〵 哉 遅き日のつもりて遠きむかしかな 愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら 筆者は、人口に膾炙したこれらの句に大いに励まされながら生きてきた。 大きな景、感性的・浪漫的な句の数々を残した蕪村の作品と生涯を見ていくことによって、筆者が現代の発句(俳句)と如何に接していくべきかを考える縁としたい。 つまりは実作者として、蕪村の句に励まされつつ、実作のよすがとすべく蕪村と向き合ってきたのである。 3000句に及ばんとする蕪村の俳句のなかから、渡辺鮎太さんの心にふれたもの94句を季節の流れにそって選び、そこに鑑賞を加えたものであり、多くは人口に膾炙しているものであり、あるいは始めて目にするものもあり、一人の執筆者による視点によって選ばれたものであるのでそれはすなわち蕪村への入門となりうるものであるとわたしは思う。 著者による「あとがき」の一部をも紹介しておきたい。 筆者は、この拙文に於いて与謝蕪村の発句の特徴とその大きさ、鮮やかさ、芭蕉への敬愛の情などを見てきた。若い頃から発句と関わってきたなかで、芭蕉、蕪村、一茶、また蕉門の人々の句を閲し、現代の俳人の発句も見てきた。そのなかで発句を「化け物」のように感じることが多々あった。 筆者は、この化け物と如何に折り合いをつけるべきかについて懊悩しつつ発句と付き合ってきた。 そんな悩みのなかで最も救いとなったのは、蕪村の大きくて明るい発句の数々であった。 「発句を「化け物」のように感じる」と著者は書き、その「化け物と如何に折り合いをつけるべきか」について悩みつつ、俳句を読み作ってきた渡辺さんである。「化け物のよう」という言葉に、簡単には扱いきれない底の深さと深淵を思う。そこで懊悩する作者にとって蕪村の句が救いであったと。つまりは蕪村の作品を愛する著者がいるのである。 渡辺鮎太さんが愛した蕪村の句とその鑑賞をいくつか紹介したい。 橋なくて日暮んとする春の水 春の川辺に一人佇む蕪村の孤影が眼に浮かぶ。この句も春のアンニュイさの滲んだ感性的な句である。この句にも前記のように「……せずに……する」という蕪村特有の措辞が使われている。生きることの儚さを表現しているとも言える。 不二ひとつうづみ残してわかばかな これは蕪村の発句のなかでも最高傑作と言えよう。筆者は発句に関わり始めた若い頃、この句から最も精神的に大いに励まされた。何と大きな景であろう。五・七・五だけでこれほど雄大な世界が現出することに驚かされる。富士山の頂上だけを残して輝く若葉が茂っているとの句意。芭蕉にはこれほど空間的に雄大な発句はなかった。その意味で、蕪村が「正風の中興」を唱えたことは自賛ではなく、句の大きさに於いては芭蕉を超え得たと言えよう。序でに言えば、この句は東山魁夷画伯の巨大な絵画にも通じる画人・蕪村の面目躍如たる果実とも言えよう。 おのが身の闇より吼て夜半の秋 この句は前書には「丸山氏(絵師の円山応挙)が黒き犬を画たるに讃せよと望みければ」とある。「おのが身」とは自身の煩悩の闇であろう。小説のような物語性を感じるとともに、現代詩の一篇を読む感すらある。 葱買て枯木の中を帰りけり 無造作に、無作為に、不親切に放り出したような句。筆者が考える発句の理想的な有りようである。葱の白と緑、そして枯木のモノクロームの色彩の対照が鮮明である。刻限は夜更け。空には満天の星。買った葱を持って枯木の中を歩む蕪村の孤影が淋しい。 さびしさのうれしくも有秋の暮 形容詞の特殊な組み合わせの発句。淋しさが嬉しいとは矛盾しているが、蕪村特有の感情表現である。西行の〈訪ふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくは住み憂からまし(『山家集』)〉という和歌を踏まえたのであろう。西行が「さびしさ」がなければ「憂からまし」と詠ったことに通じる句である。 本著の装幀は、『蕉門の人々─その発句と生涯』と同じく、君嶋真理子さん。 すっきりと垢抜けたものとなった。 今回、蕪村の発句の数々を確認し、あらためて救われる思いがした。(著者・あとがき) 接待へよらで過行狂女かな 「接待」とは七月に寺院や往来で湯茶の施しをする行事のこと。この句にも「……せずに……する」という措辞が使われている。この「狂女」も艶でなければならない。「アンニュイさこそ詩だ」という蕪村の発句観が伝わってくる。筆者もまたそう思う。発句は叙情詩だということをこれまで閲してきた蕪村の句が示している。 「まえがき」で渡辺鮎太さんがあげている蕪村の句が、すべて春の句であるということに気づいた。 まさに春の季節に読まれるのに相応しい一書であるかもしれない。 肩が凝らずに蕪村の句をゆったりと楽しめる「蕪村入門」の一冊としておすすめしたい。 昨日のブログで、ブロッコリー畑の鵯の写真をあげたのであるが、ブログをご覧になった方から、農家の方がブロッコリー畑のひよどり被害に悩まされているということを教えていただいた。 わたしは能天気に紹介をしていたが、そんな能天気でいいのかyamaokaと。 野菜を売って生活をしている人には死活問題である。
by fragie777
| 2022-03-11 18:41
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