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3月8日(水) 旧暦2月6日
国立・谷保に咲いていた梅。 今日は寒い一日となった。 額縁はあいかわらず曲がったままである。 歩いて仕事場に向かおうと歩きはじめたのであるが、忘れものをしてもどり結局今日の忙しさをおもって車で出社。 ガソリンの高騰が予測されるので、できるだけ歩きたい。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 188頁 2句組 夕雨音瑞華(ゆうね・ずいか)さんの第1句集である。夕雨音瑞華さんは、1983年生まれ、2004年「鷹」に入会、2016年「鷹」新人賞受賞、「新風」入会。現在は、「鷹」同人、「新風」会員、俳人協会会員。本句集に小川軽舟「鷹」主宰が序文を寄せている。 序文から抜粋して紹介したい。 瑞華さんの待望の第一句集がこの『炎夏』である。収録する作品選びを私も手伝ったのだが、校正刷が届いて驚いた。作品の制作順がすっかり解体され、四章からなる句集に再構成されていたのである。瑞華さんのその意気込みを汲んで、私が眺めてきた瑞華さんの成長の軌跡を追うことはあえてせず、あらためて一読者としてこの句集の作品世界に向き合ってみたい。 アーモンド咲いて騙し絵から少女 足首にユニセックスの香水を 破壊的快感放つ炎夏かな ぶっ通しの愛を背高泡立草 色褪せた航空券と扇風機 真夜中のラジオ掠れる雨月かな アパートの明るき名前冬の草 囀や二人サイズの家具家電 この句集の一句一句は瑞華さんが自分自身の人生の時間の中で紡いできたものだが、この句集に構成された作品世界はフィクションであって私小説ではない。ある時は作者の分身として、またある時は作者に伴走されながら、主人公は四つの章を通じて成長する。そして、この句集を読み終えて現れるのは、その主人公を見守る一人の俳人として成長した瑞華さんの凜々しい立ち姿だ。 「作品の制作順がすっかり解体され、四章からなる句集に再構成されていた」と序文にあるように、この句集には著者による編集・演出がほどこされているのである。ある意味とても意識的な句集だと思う。 目次もとてもユニークである。 「#1」「#2」「#404」「#∞」の項目よりなる。 ええっ、これはいったい、と思うのであるが、小川軽舟主宰の序文がこの謎を解きほぐしてくれる。 目次だけでもおもしろい試みである。 「あとがき」のはじめに、 「これはあたしの幸福論である。」と記している著者がいる。つまりはそのようにして編まれたものだ。 初蝶は土の匂いを慕いゆく オムレツの卵を選ぶ今朝の秋 雪降れば違う人生思いけり 朝顔やそれぞれ違うパンを食う アパートの明るき名前冬の草 春蝉やゆうぐれ届く荷を待てり 年新たレシピを留めるマグネット 担当のPさんが好きな句である。 どうだろうか。ここに作者の幸せな顔を見いだすだろうか、なんて「幸福論」ということを念頭にして読むと、たしかに充実した生活の諸相がみえてくる。季節(季語)をとおしてのさまざまな生活風景の局面、やさしい心持ちでみつめる作者がみえる。それは本当にささやかなひびのことかもしれないけれど、とても充足している。それぞれの季節がやさしく作者によりそってくるかのようだ。しかし、これは小川軽舟主宰が記しているように「フィクション」でもあり、夕雨音瑞華さんの「幸福論」でもあるわけだから、わたしたちは俳句と作者を無理に関係づけなくてもよいのかもしれない。そういう景を味わうということだろうか。 アパートの明るき名前冬の草 なにを幸福ととらえるか、それは人さまざまだ。わたしはこの景にあかるいあたたかな未来を感じる。「明るき名前」っていったいどんなアパートの名前なんだろう。「光荘」か、それじゃあまりにもつきなみで昭和的だ。小さなアパートであっても思いっきり明るい名前をつけられて、その日当たりのよい場所に冬の草が青々と生えている。つつましい風景かもしれないが、作者はそこに幸福をなるものを見ているのだ。それはきっと作者の若さによるものかもしれない。わたしは若くないけど、でも好きだな。この一句。 不機嫌な心臓があり桃の花 おもしろい一句である。これは「#1」の項収録のもの。ということは、小川主宰の解説によると「地方都市に生きる一人の少女の視点が仮構されている」とある。この句はなんとも「心臓」でどきりとさせられる。「心臓」はつまりは「ハート」のことであり、「心」の意味であるかもしれないが、これを「心」や「ハート」としたら、不機嫌な心臓が軽々しいものとなってしまって、不機嫌度は半減する。「心臓」として人間の身体の中でドクドクとうごくフィジカルなるものを感じさせることによって、精神を制御しきれない若い肉体がそこにあり、だからこそ「桃の花」が明るく救済するのだ。「不機嫌な心臓」、とてもいいし、気に入った。 桜とか数えきれない謝罪とか 「不機嫌な心臓」のつぎにおかれた一句である。多感な少女の心がよく見えてくる。桜の季節である。大人たちは桜の季節を愛で、どこか浮かれている様子。桜はそりゃきれいだけれど、傷つきやすい少女にとって、友だち関係のやりくりに奔走中である。もういい加減かんべんしてよって心につぶやきながらも、関係の修復ははかられねばならない、そうでないとこの先やっていけない。「桜とか」「数えきれない謝罪とか」は同格におもえるが、それは少女の心のなかでは同じ質量ではなく、桜は目の端において、「数え切れない謝罪」の方に心がひっぱられているのである。と、かつて少女であったyamaokaは、いやいまもときどき少女を心の中に飼っているyamaokaは思うのであるが、どうだろう。さくらの季節はちょっとやりきれなくなる。 遊郭の映画の中の金魚かな この句も惹かれた一句である。「#2」に収録されている。「#2」は、軽舟主宰によると「夏にはじまり(略)前章の少女が成長し、狂おしいばかりに若さを沸騰させる」項である。ちょっと関係ないかもしれないが、掲句を読んだとき、わたしは遊郭をあつかった古い日本映画を思った。モノクロ映画で、疲れたような遊女たちが映し出されるそこにガラスの容器にいれられた金魚が見えてきたのだ。その金魚だけが赤い色をして瑞々しく生き生きとしている。その背後にいる女たちの疲れた悲しみも知らず。「遊郭の映画の中」で生きているのは金魚のみであるかのように。 数年前まで句集を作る気なんてさらさらなかった。しかし二〇二〇年の鷹の新年句会に参加した際には句集作成へ心が動いていた。今回、改めてなぜ作ろうと思ったのかを思い返してみた。今まで青い鳥を探すかのように幸せについての模索が一つの熱でもあった。一生、幸せを模索するものだと思っていた。それがひと段落したのだ。幸せを探すことから次は答え合わせをしようと思ったのだ。節目だったのかもしれない。節目といえば三八歳というのはあたしにとっての区切りでもあった。そうした諸々組み合わさって突如句集への興味関心が湧いたのだ。 「あとがき」を一部紹介した。この「あたし」と言う一人称も、夕雨音瑞華さんの演劇的な謂いかもしれない。 句集を作るとは不思議なものだ。俳句を作ると、句集を作るは表現としてイコールでないことに気づく。 二〇〇四年から二〇二一年五月までの三一六句を収め、時系列を考慮せずに編んだ。下手なことは語らずあとは読み手に委ねたい。 とも書いている。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 透明な材質に白と黒のインクで印刷をした。 透明カバーから透けてみえる表紙の用紙は赤。 タイトルは金箔。 カバー、裏。 カバーをとったところ。 カバーに白く印刷されていた模様が、表紙にはカラ押しされている。 なかなか心憎い。 見返しは朱色ふくんだゴールド。 扉。 本文は天地をそろえず、なりゆきに。 ある時は作者の分身として、またある時は作者に伴走されながら、主人公は四つの章を通じて成長する。(小川軽舟・帯) ご上梓後のお気持ちを担当のPさんがうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? ふわふわした感じでした。出来た!感激!よりは、句集作っちゃったという浮き立った気持ちで一日過ごしました。その後、どう読まれるんだろうとドキドキしていき、今もそのドキドキは続いています。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 自分のためというよりは、読まれることを意識しました。20代から始めたこともあり、10代20代女子を想定読者として作りました。勿論、年配の方や句歴の長い方、老若男女に読んで欲しいという気持ちもあるので、そこは忘れないように少し品を持たせることも考えていました。普段の句作は自分の好きなように作っているので、いい意味で句集に対しては抜け感を持てたと思います。あと、さらに欲を言えば普段は俳句に触れてない方にも読んでもらえたら最高です。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい あとがきにも書きましたが、幸せというものの捉え方の変化を句に反映できたらなとは思うのですが、どうもまだすぐには出来そうにもないことも気づいたので、60代あたりでポップでキュートな句を作れるように、その前にもう少し足掻きながら作っていこうかなと思ってます。 20代でなくても共感する部分がたくさんありましてよ。瑞華さん。 で、目次の「#404」「#∞」が何を意味するか。 知りたい方は、是非この句集を読んでいただきたい。 夕雨音瑞華さん。 2021年11月15日にご来社くださったときのもの。 私事で恐縮であるが、(っていつも私事のくだらんこと書いてるじゃん)って突っ込まれても仕方なく、ちょっと御報告とお願い。 実は今日朝日新聞さいたま総局の記者である佐藤太郎さんが取材にふらんす堂にいらっしゃったのである。 いったい何を取材しにって、それがね、yamaokaなのである。 もっか「さいたま版」で、埼玉県のいろんな高校の卒業生を取材してそれを記事にしておられるのだが、不肖このyamaokaもその記事にすこし載ることになり、今日その取材にみえられたのだった。 わたしの母校は、県立熊谷女子高校というところなのだが、その「文芸」のジャンルの一環での取材なのである。 で、お願いというのは、このブログを読んでおられる方で、熊女卒の方で文芸に関する仕事をしている方がいらしたら、yamaokaまで、ご一報をくださいませ。 よろしくお願いいたします。 ちなみに金子兜太夫人であった金子皆子さんは、わたしの先輩である。今日聞けば、芥川賞作家(名前失念してしまった)などを輩出しているらしい。 ところで、この取材のためにいままで振り返ったことのない高校生活を振り返ってみたのであるが、結構おもしろかった。 それは、いまはもったいなくて言えないわ。 というのは冗談で、またいつかの機会にわたしのマジさえない高校生活のことでもご紹介しましょう。 そんなことは聞きたくもないって、 まあ、そりゃそうよね。。。。 取材風景。
by fragie777
| 2022-03-08 19:35
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