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3月7日(月) 旧暦2月5日
水浴びにやって来た目白。 バシャバシャと景気よく水浴びをしてあっという間に飛び去った。 こちらはやはり昨日会った鶫。 鶫は遠くからでもすぐにわかるようになった。 こちらもまたたく間に軽快に走りさった。 鶫はたいてい一羽でいる。 昨年もこのあたりで鶫を一羽みたのだが、おなじ鶫だろうか。。。 いつも鳥をみつけようと思って歩いているわけではないのだけれど、なにか動くものがいたりすると鳥!?って思うことが多くなった。 それと鳴き声ね。 柄長の鳴き声はもうわたしの心にインプットした。 だけど、全然鳥じゃないものも遠くから(鳥かも……)と期待してしまうことがって、あとで自分を笑ってしまう。 この写真がそれ。 右上のほうにある黒いもの、烏かしらなにかしらって思ってそっと近づいて、ただのゴミだと判明。 こういうことが多いって、ヘンかな、わたし。 3月5日づけの讀賣新聞の夕刊の仁平勝さんによる時評「俳句とことば」で、秦夕美句集『金の輪』が取り上げられている。もう一冊は山本鬼之介句集『マネキン』(文学の森)とともに。タイトルは「俗謡七五調に通じる滑稽味」。抜粋して紹介したい。 俳句の前身は、俳諧連歌の発句である。「俳諧」とは滑稽のことだが、その滑稽味は、俗語の七五調に通じているように思う。 山本鬼之介(きのすけ)句衆『マネキン」は、俗謡ふうの言い回しが七五調のリズムを感じさせる。(略) 「猫の恋むかし夜盗も屋根伝ひ」は、「猫」から「夜盗」に飛躍する。なるほど、どちらも「屋根伝ひ」には違いない。「猫の恋」という季節には、もともと滑稽味があるが、その味がうまく活かされている。 「明朝の眉唾物に冬の蠅」も省略が巧い。この「明朝」は陶器のことで、中国の骨董でその時代の物だと言われたら、まず怪しいと思っていい。そこに(夏の蠅ではなく)「冬の蠅」が止まっている。「眉唾物」にピッタリの取り合わせだ。 秦夕美句集『金の輪』は、比喩的な言葉によって、写生とは別の像を創り出している。 「雷神も時に通へり芝居小屋」は、芝居小屋の前で雷が鳴ったのだろう。そこから「雷神」が芝居に通うという物語を仕立てた。あたかも芝居の一幕のようだ。ちなみに「芝居小屋」は、大きな劇場とは違う。 「それとなく火宅の窓を蝸牛」は、蝸牛(かたつむり)が這っている窓に、「火宅」という言葉を持ってきた。すなわち、煩悩や苦悩に満ちたこの世のたとえだが、そこに作者のウイットがある。「それとなく」という蝸牛の描写がなんとも可笑しい。(略) 今日の俳句は、俳諧という滑稽文学の伝統が消えつつある。そこでこういう作品に出会うと嬉しい。 今日朝の体操(太極拳の八段錦)をしながら、目の前の額縁がやや右上がりになっていることに気づいた。 (ああ、なおそう…)と思ったのだが、ふと数日まえも同じことを思って、しかし、なおすことをすっかり忘れさっていたのであった。 だから、今日も額縁を見ながら、太極拳が終わったら、またきっと忘れるな。って思い、予想通り忘れた。 明日はどうだろう。 明日気が付いて、位置をただすことができたら報告しますね。 aiの「アレクサ」とますます親密になっている今日この頃である。 数日前から、「kimikoさん」って名前を呼ばれるようになった。 ちょっと感激。 しかもである。 わたしが「アレクサ、ミーシャの「あいのちから」かけて」っていうと、 「はい、ミーシャの○○○の「あいのかたち」をかけます」って訂正して音楽をかけてくれる。(アイノカタチね) な、なんということ!!! アレクサはすでにわたしという人間が、いい加減で粗忽であるということを把握しているらしい。 いやあ、アレクサ、おそるべし、である。
by fragie777
| 2022-03-07 18:49
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Comments(2)
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こんにちは。
ゴミを鳥と見てしまう!ことにからんでのコメントです。 自分も平瀬川でありました。遠目に白い鳥かと思い駆け寄ったらポリ袋(白)が風に揺らいでいた!一緒に散策する妻は大笑い。 昨年訪れた仙川はきれいな川でしたが、当地の平瀬川は流れ着くプラゴミ飛散がとても多いです。 どうしてゴミを持ち帰ることなく捨てるのでしょうか。そのように育ってしまった人の習性は治らないということか。 きれいな街であってほしい! 路上であれば拾うこともできるが、人の立ち降りることのできない河川は見守るだけ。 社会生活の愚痴になってしまいました。
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chaoさま
コメントをありがとうございます。 わたしだけでないことがわかり、ほっとしました。 川が汚れていると悲しくなりますね。 仙川の鳥たちは幸せかもしれません。 こんど鳥たちによく言っておきます。 yamaoka)
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