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2月10日(木) 旧暦1月10日
起きたときは雨。 出かけるときはすでには激しく雪が降っていた。 (どうしようかな… 歩いていこうかな…) 髪の毛にムースを指で塗り込みながら一瞬迷った。 で、 今日は車で行くことにした。 「積もってしまったら車をおいてバスで帰ってこよう。」 わたしは鏡のなかのわたしに呟いたのだった。 髪は、ムースの力によって案外威勢よく仕上がっている。 雪さえ降らなければ、素敵な一日になったかもしれないのに。 駐車場。 細かな雪が降っているのが見えるだろうか。(見えやしないわよね) 傘をもつわたしのいじけた指、コートの袖口に雪がふりかかる。 仙川商店街通り。 着いた。 今日は早出の日なのである。 長谷川素逝のものは前々から刊行したいと思っていたものである。 歳時記などで出会う俳句に心惹かれるものが多かった。 執筆者の橋本石火氏は、俳誌「ハンザキ」を主宰しておられ、そこで長谷川素逝についての研究をされていることを知った。そのことにより「長谷川素逝の百句」の執筆をお願いしたのである。 巻末の素逝論「物心一如の凝視」によって、長谷川素逝という俳人が思ったよりはるかに若くして亡くなっていることを知ったのだった。 長谷川素逝は、昭和二十一年十月十日、三十九歳八ヶ月の若さで亡くなっている。その死を知った虚子は〈まつしぐら炉にとび込みし如くなり〉と詠み、その死を惜しんだ。また翌年の「ホトトギス」(昭和二十二年一月号)の「消息」で 「長谷川素逝君の逝去を深悼致します。立派な体格をしてゐて健康に自信があつた為に、病気を軽蔑することになり、遂に取り返しのつかぬことになつたものと云へるであらうと思ひます。自重して居ればまだ〳〵命はあつたものかと惜しまれます。併し何もせずに長生きするよりは、素逝君の如く、力闘を続け地響きをたてゝ倒れた方が、男らしく立派だともいへます。」と書いている。 「物心一如の凝視」の書きだしである。本論は、⑴素逝と虚子、⑵素逝とその妻・ふみ子 ⑶素逝と戦争 ⑷素逝と落葉の四項目からなる。とくに⑶素逝と戦争については、いろいろと取りざたされるところである。 素逝の『砲車』は戦争賛美の句集ではない。敵兵への憎悪の句はあるが、中国民衆へ心を寄せた句もあり、戦友を思い遣った句もある。素逝は聖戦を信じて疑わなかったが、句はその時々に目にしたことを偽らざる心のままに句にしている。聖戦という素逝の考えと作る句とはリンクしていないと考えた方が良い。 橋本石火氏の見解である。 長谷川素逝の作品をまとめて読むという機会がこれまでにあまりなかったが、この一冊は長谷川素逝入門としてよきテキストになると思う。 本文の百句のなかから鑑賞をいくつか紹介しておきたい。 手花火のうしろすがたのほとうかぶ 『三十三才』 昭和十二年 「ホトトギス」昭和十二年十月号の巻頭の四句の内の一句である。昭和初期の手花火は数種類だけであったのではないだろうか。手花火をしている家族をその背後から見ていたのだ。手花火のほの明かりに浮かぶ後ろ姿。それは、一瞬の後ろ姿であり、永遠をとどめることはない。 手花火の華やかさや楽しさは言うまでもないが、素逝はそこを詠まず、「うしろすがたのほとうかぶ」と、どこか淋しげな詠みぶりである。素逝の琴線に触れるのは華やかさではなく、華やかさの裏にある移ろいともいうものである。 馬ゆかず雪はおもてをたたくなり 『砲車』 昭和十三年 休む暇なく野砲を次の戦場へ移動させなければならないが、吹雪は砲車を曳く馬の顔を、兵士の顔を容赦なく打つ。 「馬ゆかず」に吹雪のすさまじさがわかる。黙々と軍馬は歩みを続けてきたが、前も見えないほどの吹雪に一瞬立ち止まる。戦場への到着が遅れることは許されないのだ。 吹雪に阻まれて進軍できない状態を素逝は事実を事実として詠うが、その場の臨場感や素逝の高揚感がひしひしと伝わる。 たばこ欲りあまきもの欲り雨季ながし 『砲車』 昭和十三年 何時終わるともわからない中国大陸の雨季。雨は「かをりやんの葉を流れ」、「敵屍を車輪にかけ」、「脚気患者」が出ても進軍する。疲労困憊しながらも進まなければならない。 素逝は愛煙家であった。「たばこ欲りあまきもの欲り」は、偽らざる素逝の心情だろう。素逝にしてはめずらしく自分自身を詠んでいる。素逝本人は気付いていないが、体の異変はこのあたりから始まったのだろう。 〈さむく痛く腹をぬらして雨やまず〉とも詠む。 海ちかき南風の吹きぬくわが静臥 『幾山河』昭和十三年 前書に「陸軍病院」とある四句の中の一句。素逝が戦地で病を得て帰還し、京都の陸軍病院に入院したのは、昭和十三年十一月五日。そして十一月二十三日には京都日赤病院へ転院し、翌年六月に退院している。「南風の吹きぬく」とあるので、実際には京都日赤での作だろう。この間、四月十日には句集『砲車』を上梓している。病が回復し退院間近となった素逝に吹く南風。京都日赤は海からは遠く離れているが、病窓に吹く南風に海の匂いを感じたのだ。退院すれば海の近くの津市の実家に帰ることになる。 しづかなるいちにちなりし障子かな 『暦日』 昭和二十年 戦争の末期に空襲で家を失った素逝は二十年の十二月から翌年五月まで、三重県明和町の根倉の中川氏宅の離れに、ふみ子夫人と幼子(洋子)と身を寄せる。そこでの句は「根倉句抄」として残された。掲句はその中の句。 終戦の混乱の一年が終わろうとしている。周りでは新年に向けてささやかながらも準備をしているのだろう。しかし、素逝の一日は「しづかなるいちにち」だったのだ。世の祝い事とは一線を画すように障子を閉めたまま一日が終わったのだ。親子三人、肩寄せ合って、息を潜めるような暮らしぶりがうかがわれる。 素逝の繊細にして静かな心に触れ寄りそう一冊である。 さきほどリモート体制のスタッフから電話をもらった。 「雪の質が夜になると変わるらしいからはやく切り上げて帰ったほうが良い」ということである。 できたら、車を運転して帰りたい。。。 すこし前にスタッフの文己さんは帰っていった。 わたしも、もう帰りますね。 では、では。 ずっと前にいただいた蘭が花を咲かせている。
by fragie777
| 2022-02-10 17:24
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