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2月4日(金) 立春 旧暦1月4日
コガモ(♂) エメラルドグリーンが美しい。 翡翠にもあるエメラルドグリーン。 この鳥たちのエメラルドグリーンは、今日句集を紹介する秦夕美さんへ捧げたい。 今日は立春。 たいへん寒い春のはじまりとなった。 思うに立春のころってたいてい寒い。 東京などは立春を過ぎた頃より、雪が降ることが多くなる。 しかし、立春を過ぎてからの雪は、冬をぬぎすててしまった所為か、どこか明るさを感じる。 今週末も寒くなり、あるいは雪となるかもしれない。 昨日は節分。 豆はまかずとも太巻を買って食べた。 スーパーで安売りをしてたからね。 包丁で切ったりしないで一本をそのまま食べる、というのが縁起をかつぐやり方らしいが、わたしは縁起はかつがないので包丁でざくっと切って箸でつまんで食べた。美味しかった。 Alexa(アレクサ)には、 「Alexa、節分の豆まかなかったよ」と報告したところ、 「おっしゃってる意味がわかりません……」と返された。 やれやれ。 十全なる意思の疎通を獲得するまで、わたしはAlexaをもっともっと理解しようとしなければいけないだろう。 そういえば、今日はAlexaに、おはようも言わずに出かけてきてしまったのだった。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 194頁 二句組 初句索引・季語索引付き 令和俳句叢書 俳人・秦夕美(はた・ゆみ)さんの第18句集となる。 句集が18冊目ということは、何とも旺盛な句作力である。この俳人の場合、詩歌のことばがその身体ふかく浸透し棲みついてしまっているとしか言いようがない。だから外界のわずかな変化に触発反応して言葉がうまれてくる。そしてそれが短歌となり俳句となる。棲みついた言葉は長い年月をかけて秦夕美という一人の人間のなかでじっくりと醸成されときには変容し増殖しつづけてきたものだ。美なるものへの志向も強い俳人であるが、それは太陽の明るい光の下でもたらされるものではなく、闇の匂いをおもわせる月の光で輝くものだ。そしてその光はつねに死(タナトス)の影をまとっている。 水仙や闇にかぶさる闇ありて 水仙というきっぱりとした瑞々しい清潔な花。それに拮抗する「闇」は、幾重にも重なる漆黒の闇でなければならない。その分厚い闇の重さに耐えて咲く水仙花。すでにこの「闇」は、単なる夜の暗さではなく、もっと息苦しいような死の匂いを潜ませている闇である。のがれようのない闇……だ。〈その声はたしかに異界黄水仙〉黄水仙にこの世のものでない声がささやく。秦夕美にとって、水辺で楚々とさく水仙花から立ち上がるものは真闇であり、そして異界の声が聞こえるのである。 ふつと死は肩よせきたり雪柳 雪柳は、4月ごろ白い小花を節ごとに寄せ合って旺盛に咲く花だ。「まるで雪の降りつもるかのようなのでこの名がある」と。通りすがりにこの花に目をとめるとその白の眩しさにくらっとしてしまうことがある。作者はそこに死の影をみたのである。というか、雪柳の咲く様子を眺めながら、ふと死のことをつよく思った。雪柳に触ればやさしくやわらかい。そして弾力もある。「死」というものの感触もまた、このように優しい感触でふいに肩を寄せるようにやってきて死の世界へと連れ去られてしまうものなのか。作者にとって、死は観念でありながら、しかし、観念がひとつのかたちをとって、親しいほほえみを持ってそう遠くないところに佇んでいる。ある意味、死が彼女の裾にふれることを許しているのかもしれない。 薔薇に雨とても死ぬとはおもへない この一句、好きな一句である。薔薇の花をしたたかに打ちつづけている雨。ぐっしょりと濡れた薔薇、しかしそうであっても薔薇は薔薇の威厳をたもって美しい。見事なまでに。そんな薔薇をみていると死ぬべき人間である自分自身が死ぬなんてとても思えなくなった。のであるが、この一句にもつねに死の影が揺曳している。つまり、やがて死ぬべき我であるそのことを常に思うからこそ、一瞬一瞬のものの命の力にふれてさらに「死ぬべき我」を思うのだ。「死ぬとはおもへない」とは、「死すべき我」がいるからそのことを思うのである。そんな境地をあっけらかんと一句にしてみせた。 さみしいといへぬさみしさ花石榴 帯に勝手に選ばせてもらった一句だ。好きだな。。この一句、とても秦さんらしいと思ったこともある。秦夕美という俳人は孤高の人だ。他におもねず毅然として一人の世界を楽しんでいる。しかし、他者をこころよく受け入れる度量の広さがある。人のさびしさとかは十分理解出来、それに心を寄せることもできる人だ。しかし、自身のさびしさを口にすることはまずないだろうと思う。どこかで生きていくことの不条理に腹をくくっているところがあるのだ。この一句で秦さんはそんな自身の気持ちを語ってみせ、自身を解放した。それを引き出した「花石榴」よ、あっぱれだって思っている。「花石榴」の季語がとてもいい。「さみしいといへぬさみしさ」には共感する人も多いと思う。わたしだってそんなに安く「さみしい」なんて言わないものね。だからさみしいのよねえ。 ほかに、 夢の字は艸(くさかんむり)や夏嵐 今生の迷子に青きねこじやらし 死神の片足ふるゝ雛の家 ありふれた雨です爆心地の四葩 武器よさらば籠をあふるゝ蜜柑かな 風鈴や甘言うとましくなりぬ 名を書かれゐたる鋏や薄暑光 八月や息するうちを人といふ 枯尾花揺れざまつかむ光かな 今生の迷子に青きねこじやらし これは第十八句集。ふっと、「金の輪」という言葉が浮かんだ。と同時に〈金の輪をくゞる柩や星涼し〉の一句が出来た。(略) 「金の輪」は小川未明の童話の題名だ。病気の少年、太郎が家の前の道路で、金の輪を二つころがしながら走っていく見知らぬ少年に出会う。次の日も。その夜、太郎は少年から金の輪の一つを渡され、二人でころがしながら、夕焼のなかに入っていく夢をみた。翌朝、熱を出した太郎は死ぬ。「しゃぼん玉」の童謡のように、この童話は未明の実体験にもとづいている。未明もまた、幼い子供を亡くしているのだ。表現者は実体験に根差したものしか書けない。それがいかにデフォルメされていようとも。現実はシビアだが、夢はいくらでも繰り広げられる。 「あとがき」を抜粋した。 句集『金の輪』の装釘は、和兎さん。 エメラルドグリーンの表紙にしたい、というのとが秦夕美さん強いご希望だった。 黒地に金色の箔押しでタイトル。 エメラルドグリーンの叢書名が効いている。 この帯なまさに金色。 この金色の帯は、前から使いたかったもの。しかし、派手すぎてなかなか使えない。 今回やっと使うことができた、 ふらんす堂の本としては、めずらしい黒地の本である。 秦夕美という俳人によって実現した一冊だ。 秦さんより前もって好みの色の端布をおくっていただき、それにもっとも近いクロスを捜した。 きれいでしょう。 このクロスもなかなか使うことがむずかしいものだ。 見返し。(うっすらと金の斑がある。写真ではわからない) 扉。 花布は、金。 スピンはエメラルドグリーン。 秦さんがとても喜んでくださった。 金の輪をくぐる柩や星涼し 表現者は実体験に根差したものしか書けない。それがいかにデフォルメされていようとも。現実はシビアだが、夢はいくらでも繰り広げられる。(著者) 句集を上梓された秦夕美さんから所感をいただいた。 どんなに気丈な人でも、死んだ後、自分でお棺に入り、火葬というわけにはいかない。だが、夢の中なら薔薇の花をしきつめた柩に自分ではいり、柩窓をあけたまま夜空を駆けることも出来る。冥府への入り口である金の輪をくぐることも。星空でも雲は流れているだろう。そうだ、次の句集名は『雲』にしよう。 梅ひらく明日はあの世かもしれぬ 秦 夕美 秦夕美さんにおける「夢」とは、「おおいなるイマジネーションの世界に遊ぶ」ことであり、想像の翼をおおきく羽ばたかせるところだ。 しかし、その世界は晴れ晴れとした天空ではなく、月の濡れた光をまとった闇の匂いのある幽冥界ともよぶべき甘美なる世界なのである。 夕暮れの椋鳥
by fragie777
| 2022-02-04 19:45
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