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1月21日(金) 款冬華(ふきのはなさく) 初大師 旧暦12月19日
谷保の臘梅 なかなか野趣にとんだ臘梅だ。 そばに行くと強く香った。 朝のミーティングは、リモート体制のなかでやるのだが、iPhoneのなかでお互いの顔をみながらである。 朝の9時半から5分間程度の打ち合わせであり、わたしがヴィジョンを語ったり、などということはまずないので、あっという間におわる。 昨日のこと、自分の顔をふくめた5人の顔をみていたところ、いつも暴れ放題のわたしの髪がめずらしく整っている。 こんなことは本当にめずらしい。 しかし、誰もなにも言ってくれない。 ミーティングが終わりかけたころ、大急ぎで 「ねえ、今日のわたしの髪型、めずらしく決まってない?」と言ってみた。 すると、スタッフたちの表情がおどろいたようにかたまった。 つぎの瞬間、あるスタッフが笑いながら 「おお、気づきませんでした。いいんじゃないですかあ」と。 そして一同が爆笑。 それでおしまい。 (…………)のyamaokaであった。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装グラシン巻帯あり 208頁 2句組。 著者の楠原絢子(くすはら・じゅんこ)さんは、1939年群馬県生まれ、現在は東京・小平市在住。教職を経て2009年「創流」(宗内数雄主宰)同人、2013年「翡翠」(鈴木章和主宰)会員、2017年「翡翠」同人。俳人協会会員。本句集は2003年から2021年の作品を収めた第1句集であり、鈴木章和主宰がご序文を寄せている。本句集は、「恩寵の時」「恐竜の卵」「考へる窓」「待つこころ」「惜しむこころ」の5章に章立てがされている。 あをぞらへまつすぐは恋水仙花 (考へる窓) まっすぐに伸びて匂いたつ水仙の清楚な姿は、目覚めることの美しさを思わせる。背景の青空も健康的だ。そしてこの明るさ。けれどもその眩しさに大事なポイントを読み過してしまってはいけない。「まつすぐは恋」で切れて「水仙花」が取り合わされているところ。そしてなぜ「まつすぐな恋」ではないのだろう。立ち止まってこの違いを考えてもらいたい。もちろんベストな助詞は「は」である。俳句は身体と心の経験とによって生まれるが、経験のみからよい句は生まれない。経験を起点として思索を重ね、表現を練り上げたところに一句の完成がある。この句、「まつすぐな」としたら、単なる勢いで読んでしまう作品となっていただろう。 落葉松の針降る道は目をつぶり (考へる窓) 金色の針となって降ってくる晩秋の山道を、目を閉じてうつむきながら歩いている。悲しいのではない。木々草花の凋落、過ぎてゆく秋の色素が抜けてゆくのを見ていると、天から次々と金の葉が降ってきたのだ。この作品は霧ヶ峰での体験だろう。生と死、生命の再生が連綿とつながってゆくのを澄んだ目で見つめてきた絢子さんだ。国文の教師を勤めあげてきた彼女だから、白秋の「落葉松」の詩へのオマージュもここにはあるかもしれない。 鈴木主宰は、たくさんの句をあげて鑑賞をされているが、ここでは二句にしぼって紹介をした。 蚊遣火やひとのこころと寝起きして 祝はれて鳴るこころあり蘭の花 はらはらと頁の戻るリラの花 夕焼を飛んで知らない町に着く ほんたうはわたし魔女なの敬老日 青葉木菟昼は詩集の中に棲み マンゴーを入れて明るき冷蔵庫 担当の文己さんが好きな句である。「キブシ、蝦夷竜胆など花の名前に知らないものが多くてとても勉強になりました。」と文己さん。 蚊遣火やひとのこころと寝起きして この句は序文で鈴木主宰もあげられて鑑賞をしている句だ。「ひとのこころ」の三人称には冷静な象徴性がある。要するに、ひとはそれぞれの機微を持って生きているのだということ。そういう者のそれぞれの満され方、癒され方があって共に生活をしているのだ。と。きっとこの心の持ち主は、わたしが思うに日常の多くの時間をともにしてきた人ではないか。ぐっと踏み込んだ関係でもあって、だから日々その人の心の動きや陰影や喜びなどの心の機微を察知する作者がいる。夕暮れ近くになって焚く蚊遣り火、それもこの季節では日々のことであり、蚊遣り火のさまはかわらずにあるが人の心の変容はさまざまである。しかし、作者はその変容を蚊遣り火の煙のようなやわらかさでもって受け止め察知する。そんな作者のやさしい心遣いは、蚊遣り火のみが知るところとなる。 青葉木菟昼は詩集の中に棲み 長く勤められた教職では国語の教師をされていた楠原絢子さんである。序文を拝読すると、読書家である楠原絢子さんの姿が立ち上がってくる。武田百合子の『富士日記』を愛読し、武田泰淳、百合子夫妻の山荘暮らしにならって、楠原さんも八ヶ岳の最南端に小屋を建てて暮らして来られたほどである。この一句はそんな山荘暮らしのなかで生まれたのだろうか。きっとそうだ。青葉木菟なんて都会では見たり聞いたりできゃしないもの。夜は青葉木菟の声をきき、昼間は詩集を読んですごす。いや、読むんじゃなくてその世界にどっぷりと入り込んでしまうのだ。山暮らしだからおいそれと人は訪ねてこないから邪魔するものなんてない。現実よりも詩の宇宙に取り込まれたっていいのである。「棲み」の措辞が青葉木菟の棲む世界と響き合っている。 すこやかに暮らすかなしみ大根蒔く この一句はわたしが気になった句である。「すこやかに暮ら」せるなんて上等じゃないって思ったのだが、作者はそれもまた「かなしみ」であると。大根を撒きながらすこやかに暮らす、なんの問題があるっていうの。とも一見思うが、しかし、わかる。わたしは大根を蒔いた経験はないけれど、わかる。その複雑な感情の「かなしみ」については、通常すこやかに暮らしている人間は、それを一般的には認識しようとしないのかもしれない。しかしこの作者はそれに気づいてしまったのだ。その悲しみは、ある意味生きとし生けるもののかなしみなのだ。「大根蒔く」の季語が生活者としての悲しみを現実化し、奥行きを広げている。 ニッカウヰスキーのヰの字が好きで秋の宵 これも好きな句かも。こういうところにこだわる作者が好きというべきか。いいわよね、どうってことないけど、作者はウイスキー好き、いやウヰスキーというべき?。秋の夕べ、琥珀色の液体をゆったりと身体に流し込む。至福のひとときだ。ちょっと極論してしまうけど、人間ってこの一句にあるようなこだわりを持つ人とそうでない人の二つに分かれるような気がする。どっちが上等とかそういうんじゃなくて、また人間のこだわり方の種類ってあるけど、わたしは楠原さんの「ニッカウヰスキー」へのこだわりはすごく好き。そしてそんな瑣末なところへのこだわりをあえて一句にしてみせるところも好きだ。いつか一緒にウイスキーを飲んでみたいものですわ。 校正スタッフのみおさん。 青葉木菟昼は詩集の中に棲み」の句が幻想的でとても好きです。 おなじく校正スタッフの幸香さん。 「水飲むとふたひらかなこと柿落葉」健やかな雰囲気に惹かれた句でした。 定年退職を機に始めた俳句の勉強も、気がつけば二〇年になりました。最初の数年間をいくつかのカルチャー教室で学び、「はじめての句会」という講座名にひかれて鈴木章和先生にめぐり合えたのは二〇〇八年の夏のことです。爾来、今日に至る迄、不肖の弟子であるにも拘らず、あたたかいご指導と励ましをお与え下さいました。 この句集は、鈴木先生の生徒になる以前の作品『恩寵の時』、講座の生徒となって学んでいた時期の作品『恐竜の卵』、翡翠会員になった時期の作品『考へる窓』、翡翠同人に入れていただいた後の作品『待つこころ』『惜しむこころ』の五章に分けてまとめました。(略) 書名「アルトを歌ふ」は長い合唱団の活動の中でいつもアルトを歌ってきたことから名付けました。私の生き方そのものが、和することの美しさを求めているからでもあります。 「あとがき」から抜粋して紹介した。 「和することの美しさを求めて」いるなんて素敵ですね。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 瀟洒な仕上がりを希望された楠原絢子さんだった。 カバーをグラシン(薄紙)で蒔く仕上がりに。 これは手作業となる。 写真だとぼけてしまうのが残念だ。 ブルーとピンクと二種類の色校正を用意したが、楠原さんは、ピンク方を選ばれた。 わたしたちもピンクのもつあたたかさが、タイトルとよく合っていると思った。 カバーと帯をはずした表紙。 見返しはレースのような透明感のあるもの。 扉。 天アンカットにして、栞紐をつけた。 新盆の妹が来てゐるいつもの庭 作者の体験が詩的なことばを生み、それが表現によって組み立てられ現出した世界。絢子さんの胸中の抽象的な場所、妹さんの姿を可視化させた作者の本当の世界だ。(序・鈴木章和) 句集を上梓されたお気持ちを伺ったところ、以下の所感を送ってくださった。 雑感 句集を纏めながら思ったことは、自分は自意識を持つようになってから一貫して、疑わぬ道を歩いてきたのだな、ということだった。 全てが円満だったわけではないが、我は我なり、という自信を失ったことはなかった。 定年退職までの、仕事一途の時代は句の表面には現われてこないが、この時代は私の一生を支える堅固な支柱となった。だから今“晩年とはオレンジ色の冬のこと”と、私は詠むのである。 齢八十を過ぎ来て、今後の方向性でもないなあと一思案。先日ふっと心に沸いて、今気に入っている句(と言えるかどうか)は、“コギト エルゴスムデカルト雪が降る”というもの。“我思うゆえに我あり”(デカルト「方法序説」のことば)が、東京に降る雪をベランダから見ている時ふいに句の形になって出てきたのだ。こんな句をたまに、どしどし詠んでみたい。 私にとって俳句とは、抒情に平伏しない清々しい文芸。簡潔、象徴、端的なリズム。助詞一音(「の」とか「は」とか)の働きの美である。 楠原絢子さん 楠原絢子さま、句集のご上梓おめでとうございます。 俳句という文芸に立ち向かう心意気が素晴らしいと思います。 さらにさらにご健吟を! 祝はれて鳴るこころあり蘭の花 絢子
by fragie777
| 2022-01-21 19:51
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