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12月24日(金) クリスマスイブ 納めの地蔵 旧暦11月21日
昨夜の六本木交差点。 何年ぶりかしらなんて昨日のブログに書いたけれど、うそうそ、よく考えたら今年も遊びにきていたわ。 だけどこの六本木交差点に立つのは本当に久しぶり。 ![]() タクシーの量も多く、かなりの人出の六本木交差点。 昨夕は、第四句集『光陰の矢』を昨年末に上梓された俳人の朝吹英和さんにお目にかかったのだった。 「一年経ってしまいましたが、」と朝吹さん。 句集上梓後のその後のことなどを伺いつつ、クラッシック音楽のお話などにも話題がひろがって楽しいひとときだった。 朝吹さんは、モーツァルトの会などにも入っておられ、かつて上梓されたエッセイ集『時空のクオリア』にもクラシック音楽への深い愛情を記しておられ、その造詣の深さは驚くほどである。俳句を評するのにクラシック音楽を以て語る方である。 わたしはごくミーハー的にクラッシック音楽というよりは、バッハとモーツァルトを聴くが、朝吹さんのバッハ感が面白かった。 「モーツァルトは大好きですが、いまはバッハばかりを聴いてます」と申しあげたら、 「バッハってちょっと退屈ですよね」とおっしゃる。 朝吹さんは、バッハがお好きとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。モーツァルト、マーラー、バルトーク、ショスタコーヴィッチ、などがお好きであると。このメンツだと、わたしはモーツァルト以外聴かないのでなにも言うことはできないのだが、フーン、バッハはやはり入っていないんだと、しかし、バッハの音楽は多くは宗教音楽だとも思うので、信仰ということを抜きにして聴くのは、退屈なのかもしれない。と断定したりしたら多くのバッハファンに叱られるかな。。。。おお、きっとそうだ。もう何も言いますまい。。。 ともあれ、楽しい一夕でございました。 ロシア料理がすばらしく美味しかった。 そうだ、わすれないうちに。 ふらんす堂は明日から1月4日まで冬の休暇となります。 電話は留守電となっておりますので、急なご用がある方は、メッセージをお残しくださいませ。 すぐには対応できないこともありますが、悪しからずご了承くださいませ。 新刊紹介をしたい。 。 四六判フランス装グラシン巻帯有り 二句組 著者の松波美惠(まつなみ・みえ)さんは、昭和25年(1950)宮城県古川市(現大崎市)生まれ、現在は神奈川県平塚市在住。平成9年(1997)「松の花」に入会し、松尾隆信に師事。平成14年(2002)「松の花」新人賞受賞、平成18年(2007)「松の花」賞受賞、現在「松の花」竜紋集同人、俳人協会会員、横浜説話会会員。本句集は、第1句集で、平成9年(1997)から令和2年(2020)までの23年間の作品を精選収録、序文を松尾隆信主宰、跋文を横山節子氏が寄せている。 「松波美惠さんは、「松の花」発足と同時に俳句をはじめた二十人ほどの中で今日まで続けている数少ないひとりであり、現在最も信頼をおいているひとりでもある。」という書きだしで序文ははじまる。有能な仕事人として著者を紹介しつつ、その作品の父母への思いや家族・兄弟への思い、あるいは病のことなどにふれながら、たくさんの句を引用して松波美惠という俳人を浮き上がらせている。そして、 雪降らし一月の菓子作り了ふ 痛きほど白磁の白き新茶かな 青梅雨や白の小皿に金の継 (略)和菓子が季節感を大切にする点は俳句と共通しているし、省略美は能楽の美に通じ、先師・上田五千石の「俳句模様論」にも通じる美意識である。「新茶」の句の白磁の純化された白、痛いほどの白さは完璧な美といえる。また、完璧な美が欠けることで生じる金継ぎのような複雑な美もある。この句集には、実生活と美意識の両面において、金繕いのような味わいを湛えた句も多い。 「金繕い」とは、「金継ぎ」とも言い、金継ぎ(きんつぎ)は、割れや欠け、ヒビなどの陶磁器の破損部分を漆によって接着し、金などの金属粉で装飾して仕上げる修復技法である。金繕い(きんつくろい)とも」とあり、なかなか美しいものだ。著者の松波美惠さんは、金継ぎを学ばれているという。 跋文を書かれた横山節子さんは、主に松波美惠さんとの俳句における交流について記している。そして、 コスモスに初めてひらく季寄せかな 秋晴やコーヒー点つる日曜日 ふるさとの遠き日のごと焚火かな これは俳句を始めて二か月で「松の花」創刊号に載った美惠さんの処女作です。その時の場面が目に浮かび感無量で筆をとっています。初対面から二十年以上変わらぬ俳句の友として過ごしてきましたが、高齢となった私は何かと気遣っていただいている昨今です。 とあたたかな言葉を寄せておられる。 箒目は雨にくづれて罌粟の花 柿一つ灯ともすごとく供へけりお降りの昏きに立つる猫の耳 菜箸の先の揃はぬ大暑かな 明日春の旅の雨靴買ひにけり 誰も起きて来ぬ新年の日を浴びる 人の世のまつ只中を日向ぼこ 担当に文己さんの好きな句である。 箒目は雨にくづれて罌粟の花 繊細な句である。箒ではいたあとの筋がはっきりと残っているところに雨が降った。「雨にくづれて」とあるから、そのクリアな箒目の形の変容がはっきりとわかるのだ。打たれてではなく「くづれて」が、整然とはかれた庭やその地を思い起こさせ、それがくずれるほとの強い雨脚を思わせる。わたしが思うにすでに雨は止んでいて、作者はその雨の後に佇んでいるのだ。そしてその傍には罌粟の花が咲いている。その罌粟も雨の強さでぐっしょりと濡れていささか心許ない風情か。「雨にくづれて」がこの一句を立体的に立ち上がらせた。 子に遠く母にも遠し土筆摘む 本句集を拝読していると、家族を詠んだ句がかなりある。作者のこころには常に家族への思いがあって、それがさりげなく俳句として生まれてくる。たとえば「山吹は一重が好きと夫のいふ」という句など、さりげない一句だが、わたしは好きである。夫がふっともらしたひと言をさっと俳句にしてしまう、日常生活と作句は分離をしておらず、作句心はつねに日常をとらえようとしている。「仮の世や夫のいびきと除夜の鐘」の句も思わず笑ってしまったが、夫のいびきまでも俳句にしてしまう著者である、それもとても自然体で。そんななか、掲句はすこしニュアンスがちがう。土筆をつみながら、常に自身のこころにあある子どものことや母のことがずいぶん遠くに思われる。その遠さとは距離的な遠さというよりも多分心理的な遠さなのではないか。ひたすらに土筆を摘んでいる自身の心にふっと気づいたとき、子どもへの母への思いからしばし解き放たれている自身を見いだしたのだ。しかし、「子に遠く母にも遠し」と詠んだその時から作者はふたたび親であり娘であることの関係性のなかにまいもどったのであるが。 万愚節ピサの斜塔に凭りかかり 「イタリア五句」と前書きのあるうちの一句。面白い一句だ。わたしは行ったことがないからわからないが、この一句によるとピサの斜塔ってそばに行って寄りかかることができるのだろう。斜めになっていることが有名なピサの斜塔。そこにきっと斜めになって寄りかかっている一女性がみえてくる。きっと明るく笑っている、その笑い声まで聞こえてくるようだ。高さはずいぶん違うけど、斜めの塔と斜めの人間、あっけらかんとした情景を呼び起こし、さらに「万愚節」の季語が面白さを引き立たせる。 残業はをみなばかりや後の月 序文によると松波美惠さんは、IT関連の知識に秀で通信大手の戦力として働いてこられた方であるとも。仕事において残業することも多かっただろう。この一句、「おんなばかりや」ではなく、「をみなばかりや」が、企業戦士のイメージをうらぎって、ちょっとしたはんなり感があっていい。バリバリ働く有能な女性たち、それを「おみな」ということによって、「後の月」の季語とひびきあう。十五夜よりもさらに澄んで輝いている月、そこではたらく「をみな」たちを美しく照らしだす。わたしも今残業をしてこのブログを書いているが、蛍光灯の下にてらしだされた一介のR女であるというのが悲しい、、、な。 校正の幸香さん、「〈さはさはとキャベツの渦を刻みけり〉キャベツの新鮮さ、軽快な心模様が伝わってきて好きな句でした。」 と。 「渦を刻む」というのがいかにもキャベツらしいかとも。これはキャベツ以外の野菜には言えないかもしれない。 校正のみおさん。「〈黒南風や子と離れ立つ電車中〉の句が好きです。」と。 わたしもこの句は心に残った一句だ。やはり著者のこころにはやはり子ども(家族)への思いがあるのだ。 平成九年の秋の終り、俳句との出会いから既に二十年以上経ちました。熱しやすく冷めやすい私にしてはよくもまあ長く続いたものと我ながら感心しています。また、句集とは俳人と呼ばれる作家の方々の世界の出来事と思っておりましたが、思いがけず出版の運びとなりましたことはこれもまた驚きです。古希の良い記念となりました。(略) 作りっぱなし投句しっぱなしの句の数々を捨てるもの拾うものと纏めていく作業はどこか人生を繕っているように思え、句集名を「繕ふ」といたしました。 俳句と並行し教えを頂いている「金繕い」の世界では、繕いを施した作品は元の作品を超えて評価されることがあるとか。句集以後の私の俳句もそうありたいと願っております。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 著者の松波美惠さんには、装釘にたいしてこだわりがおありだった。 まずはフランス装であること。 グラシン巻であるので全体がすこしぼけてしまうがご容赦を。 ごてごてしないシンプルなものであること。 金泊押しもあえて名前のルビにというのもご希望だった。 帯は透明感のあるもの。 見返しに用いられているやや濃いめのブルーグレーが、本句集のテーマカラーだ。 天アンカット。 大都会の灯は狐火かも知れぬ 美惠さんの句は今後、芭蕉のいう〝行きて帰るこころの味〟の「帰るこころ」の味がより一層深いものとなってゆくだろう。大いに期待したい(序・松尾隆信) 句集上梓後のご感想をいただいている。以下に紹介したい。 松波美惠さん 本当に思いがけない句集づくりでした。この世を去るときは、自分が生きていた足跡など跡形もなく消し去り、遺骨もその辺の海にでも撒いてもらえれば良いと思ってきました。それなのに句集を出版してしまいました。恥ずかしい限りです。 見本誌を送っていただき、完成された句集を改めてゆっくりと読みました。俳句を始めた一番最初に「事ではなく物を詠う」「思いは直接詠わず季語に託す」「季語と季語以外は切れで離すが蜘蛛の糸ほどの関連性を持たす」・・等々と教わりました。もともと感受性にとぼしく乾いた性格ゆえ、ただただ物を詠ってきましたので、つまらない句集になったのではと思っておりました。それでも読み進むにつれ、句の一つ一つのその場に確かに自分が居ると思えたのです。物に託した自分の思いが微かながら見えたような気がし愛おしく思いました。 この世を去るにはまだ少し残っていそうです。今どきの飛躍に富んだ句はこれからも詠めそうもありませんが、あとがきにも書きましたように、句集以後の自分の句がどのようになっていくのか楽しみになりました。 素敵な句集に仕上がりました。ふらんす堂の皆様には装丁などでいろいろ我儘を聴いていただき感謝申し上げます。 「あとがき」に古稀と書かれていたが、とても「古稀」には思えないほど若々しい松波美惠さんである。 昨夜私が呑んだキウイとライチのシャンパンカクテル。 今日はクリスマスイブ。 だからというのではないが、ちょっと余談。 一昨日の夜、ほんとうに久しぶりに先輩友人(?)と電話で長話をした。 「旧約聖書の神はどうしてあれほど人間に残虐行為を許すのか」とわたしは質問をしたのだ。(これって旧約を読むと、そう思う人多いと思う) するとその人物は「まさにそうなのだよ、列王紀やサムエル紀など読んでるとさ、本当にそうおもうのだけどね、」と言ってから、40分ほどの講義(?)となった。 彼は大学卒業後、大手銀行に就職したが突然そこを辞め、神学大へ入り神学を学びそれから聖職者(この言い方好きでないがなんといおうか、)になった男子である。わたしの学生時代からの知り合いである。おもに旧約聖書を勉強したようで、旧約を読むにあたっての参考資料などを聞きたくメールのやりとりでは埒があかず電話ではなしをすることになったのだ。 さまざまな参考文献をおしえてもらい、豊富な知識を披瀝した結果、 「でもね、究極的には新約も旧約もつらぬくものは一つ、それはヨハネによる福音書にある言葉、その言葉につきると思う」そう言って彼はヨハネのある言葉を引用したのだった。 その言葉は、ブログを読んでいる人には飛躍にすぎるかもしれないのでここには書かない。 が、わたしは非常に満たされた思いがして電話を切ったのだった。 見つめよと置くともしびやクリスマス 千葉皓史
by fragie777
| 2021-12-24 19:50
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